第37話 家族の夢
久方ぶりの投稿。祝日だから。
ある日の夜。私は家族と一緒に食卓についている。湯気が立ち上る具だくさんの味噌汁、香ばしく焼けた魚の匂い、鮮やかなきゅうりの緑色、茶碗に盛られたつやつやの白飯。テレビから流れるバラエティ番組をBGMに、団らんの時間は更けていく。
「幸せだなぁ……」
私は噛みしめるようにつぶやいた。この温もりさえあれば、他に何もいらない。この時間こそ私の全てだ。
「……あれ?」
ふと、静寂が訪れた。さっきまで流れていたテレビの音が聞こえない。妻の横顔も娘の笑い声も食卓の温もりも、全てが唐突に消失した。気が付くと、食卓も家も壁もなくなっていた。真っ暗だ。上下左右の感覚すら曖昧になる程の底知れない漆黒。
「おい、どこだ? みんな、どこへ行ったんだ!」
暗闇の中で私は必死に手を伸ばすが、指先には冷たい虚空が触れるだけだ。さっきまであんなに近くにいたはずの家族の気配が、今はもうどこにもない。私の声は反響することもなく、闇に吸い込まれて消えていく。一人取り残される恐怖に蝕まれた私は、再び声を上げる。
「待ってくれ! 一人にしないでくれ!」
虚空に向かって、私は振り絞るように絶叫した。
「私を置いて行かないでくれーーーー!!!!」
ピピピピピピピ……
無機質なアラーム音が響き渡る。
「……またあの夢か」
目を覚ました祐人はぽつりとつぶやいた。Tシャツの首元がぐっしょりと濡れている。あの夢を見るといつもこうだ。おかげで最近、いくら早く寝てもどうにも寝覚めが悪い。目下の悩みの種。
湿ったTシャツの不快感を纏いながらゆっくりと体を起こすと、枕元の目覚まし時計に向かって右手を振り下ろす。時刻は朝の八時。目覚まし時計を黙らせた祐人は次にベッドから抜け出し、カーテンを開けた。窓の外は雲一つない快晴で、強い日差しが辺りを明るく照らしている。窓を開けると嫌な寝覚めを吹き飛ばすように、心地良い風が吹き込んできた。
「今日もいい天気だ!」
爽やかな初夏の陽気に気分を良くした祐人は汗で湿ったTシャツを脱ぎ捨て、出かける準備を始めた。
「送ってくれてありがとう! 母さん」
「どういたしましてー、帰りはどうする?」
「歩いて帰るよ! 最近、運動不足だから!」
「そう。じゃあ気を付けて帰ってきなさいねー」
祐人を送迎した母親はそう言い残すと、エンジンをふかしながら去っていった。それを見届けた祐人は入口の自動ドアをくぐる。土曜日の午前中だが、人の数はまばらだ。これが大都市であれば大勢の待合患者で混雑していたに違いない。
「いつ来ても広い病院だなぁ」
受付の機械から整理券を引っ張り出した祐人は、待合室の椅子に腰掛けながらつぶやいた。
彼がやって来たのは島にある唯一の病院だった。島の病院というと小さな診療所をイメージするかもしれないが、ここ霧人島は違う。十階建ての大きな総合病院で、外科や内科といった主要な科は一通り揃っている。一階から七階までが一般病棟で、八階より上は関係者以外立ち入り禁止となっている。
島の人口と病院の規模が明らかに釣り合っていないのは大いなる疑問だが、盤石な医療体制のおかげでわざわざ島外に出なくとも十分な治療を受けられるため、とても助かっている。
「あれ? 五十嵐くんじゃん!」
待合ロビーに設置されたテレビを眺めていると、背後から声をかけられた。振り返るとそこにいたのは、クラスメイトの田中育美だった。
「田中さん……いや、タナカーン」
「誰がタナカーンだ」
「田中さんも来てたんだ。蚊を叩こうと思って壁を殴ったら、骨にヒビ入ったとか?」
「五十嵐くんでしょ、それ」
「じゃあ近頃寝覚めが悪いとか?」
「そうそうそう、最近あんまりよく眠れなくって。何科を受診すればいいのかな? ……ってバカ! それも五十嵐くんのことだよねぇ!?」
息を吐くようにボケる祐人に、育美のツッコミが炸裂する。それは見事なノリツッコミだった。
「ナイスノリツッコミ! 腕上げたね!」
「……誰かさんのおかげでね」
「それで田中さんは何しに病院へ? YOUは何しに病院へ?」
「『YOUは何しに日本へ?』みたいに言わなくていいから。今日はね、付き添い」
「付き添いかぁ!」
「そ。五十嵐くんは?」
「ふっふっふ……なんと! 今日ようやくギプスが外れるんだよ!」
「へー、やったじゃん」
「いやー、長かった! やっぱり利き手が封印されてると、不便で仕方なかったからね」
「よかったね」
「ようやく右腕・左腕・右足・左足が揃った。これで僕は特殊効果によりデュエルに勝利することができる」
「封印されし者?」
「育美ー」
二人が漫才を繰り広げていると、女性の声がした。
「叔母さん! もう診察終わったの?」
声の主は育美の叔母だった。嬉しそうな声で尋ねる育美に、彼女は答える。
「ええ。今日は簡単な問診だけだったから。あら? あなたは……」
「どうも、こんにちはー」
「こんにちは。その節はお世話になったみたいで……」
「いやー、そんな。僕は何もしてないですよ」
「そう謙遜しないで」
「そうだよ! 五十嵐くんたちがいなかったら、今頃どうなってたか……」
「でも……ごめんなさいね? ちゃんとお礼を言いたいんだけど、その時のこと何も覚えていなくって……」
「意識なかったんだから仕方ないよ。でもびっくりしたよ。叔母さんが過労で倒れたって聞かされた時は……」
育美はそう言うと、小さく苦笑いを浮かべた。
二人は今回の件を「過労によるもの」と認識しているが、それは事実と大きく異なっている。早織の力によって霧人に襲われた前後の記憶は全て消され、過労という偽装に書き換えられたのだ。話を聞く限り、病院側も霧人について把握していないようだ。きっと青空が上手く対処してくれたのだろう。だが、祐人はそのことについて黙っていた。霧人の存在は公にしないというのが生徒会の方針だったからだ。さり気なく祐人は尋ねる。
「今は何ともないんですか? 体調が悪いとか、気分が優れないとか」
「ええ、おかげ様で。もうすっかり良くなったみたい。とりあえず通院も今日が最後でいいって」
「それはよかったですね!」
「ほんと、何事もなくてよかった。これからはあんまり無理しないでね? 私もちゃんと家のこととかやるからさ」
「ありがとね、育美」
「それはこっちの台詞だよ。叔母さんこそ、いつも私を支えてくれてありがとう」
「いやー、そんな風に改めてお礼を言われると照れるなぁ」
「五十嵐くんには言ってないよ! ……でもまぁ、今の私があるのは五十嵐くんたちのおかげかな。ありがとう」
「いいよそんな。ツッコミが上達したのは田中さんの努力の賜物だよ」
「さっきの話!? 別にツッコミの腕が上がったことに感謝してるわけではないよ!?」
祐人のボケにツッコミを入れる育美。叔母はその様子を微笑ましそうに見つめる。
「でも結局あの件はうやむやになっちゃったよなぁ」
「あの件って?」
祐人の台詞に育美は不思議そうに尋ねる。
「ほら、叔母さんに試合を見に来てもらうって話」
「あぁ、そのこと? 仕方ないよ。それどころじゃなかったし……それにもういいんだ。ちゃんと悩みは解決したから」
「えっ、そうなの?」
「うん、そうだよ。五十嵐くんたちのおかげ。さすがは『驚異の解決率100%!』だね」
『28番の番号札をお持ちの方、6番診察室へお入りください』
育美が祐人をおだてていると、院内に呼び出しを告げるアナウンスが流れた。祐人は右ポケットから発券した番号札を取り出して、番号を確認する。
「おっと、呼ばれたから行かないと」
「分かった。じゃあね五十嵐くん。お大事に!」
「さよなら。またね」
二人は祐人に別れの挨拶を告げると、出口へと向かっていった。
「よかったよかった」
その後ろ姿を眺めながら、祐人はうんうんと頷いた。
二人は本当のことを何も知らない。しかし祐人はそれでいいと思っていた。たとえ一部が偽りの記憶だったとしても、互いが互いを思いやる気持ちは紛れもない真実なのだから。
(あの日何があったかなんて……どうだっていいじゃないか、そんなこと。二人が幸せなら、それで)
診察室へ向かう途中、祐人はもう一度後ろを振り返った。寄り添うように歩く育美と叔母の姿は、本当の母と娘のようだった。




