第3話『月下の旅立ち』
――いや、本当にドラゴンなのかは分からない。
だが少なくとも、それは地球上に存在するいかなる生物とも一線を画していた。
僕は、自分の目を疑った。
幻覚でも見ているのではないかと――本気で思った。
そして、触れられてすらいないのに、まるで首を絞められたかのように喉が締めつけられ、声がまったく出せなかった。
――この時僕は、生まれて初めて「死」の恐怖を感じた。
それは、身体から命が抜け出て、内側が空洞になっていくような虚脱感だった。
この村がこんな有様になっているのも、すべてこのドラゴンの仕業なのだと、その時、理解した。
僕たちはドラゴンの存在感に圧倒され、また戦慄し、その場から一歩も動けなかった。
だが、不意にもドラゴンを見上げ、その顔を下から覗き込むと――ドラゴンの視線は僕たちではなく、その後方へ向けられていることに気付いた。
ドラゴンの視線を追うように、僕もそちらへ目を向ける。
するとそこには、ひっくり返って仰向けになった赤黒い幼いトカゲがおり、短い手足を動かして、必死にジタバタさせていた。
その光景を目にした瞬間、気づけば僕は、トカゲの方へ一歩を踏み出していた。
どうやら、命が抜け落ちかけていた僕の中にも、まだ「真心」や「愛情」といったものは残っていたらしい。
僕はゆっくりと、赤子のトカゲへと歩み寄った。
そして、硬い地面を必死に手で掘り、土を掬い上げる。
その土を手のひらに乗せたまま、できるだけ直接触れないよう慎重にトカゲの身体へ手を添え、仰向けになっていた小さな身体をそっと起こした。
それから、土ごと包み込むようにしてトカゲを掬い上げ、大きなお椀を抱えるように、両手で支えた。
僕はそのままドラゴンの前まで歩み寄り、トカゲを静かに地面へ降ろした。
「……親の元へお帰り」
だが、トカゲは状況を理解していないのか、甲高い鳴き声を上げながら、ドラゴンに背を向けて再び僕たちの方へ戻ろうとする。
一部始終を見守っていたドラゴンは、右前足の鋭い爪先をトカゲへ向けると、魔法を行使した。
すると、トカゲの足元に紅い魔法陣が浮かび上がり、それに呼応するように、トカゲを包み込む四角い炎の檻が出現し、その小さな身体を閉じ込めた。
狼少女は、竜が現れてからというもの、ずっと尻尾を股の間へ挟み込み、震えながら僕の背中へ顔を埋めていた。
細い腕が僕の服をぎゅっと掴むたび、その怯えが痛いほど伝わってくる。
――ブチッ!!!
突然、何かが無理やり引きちぎられたような、生々しい音が聞こえた。
その異音に反応してドラゴンの方へ振り向くと、ドラゴンは血の滴る一枚の鱗を爪先で摘み上げていた。
そして、それを僕の目の前の地面へ突き刺した。
鱗は槍のような勢いで地面へめり込み、硬い大地に亀裂を走らせる。
四十センチ四方はあるその鱗は、鈍い金属光沢を放っていた。
見上げると、ドラゴンはこちらをじっと見据えたまま、ゆっくりと瞼を閉じ、静かに瞬きをした。
僕は、その一連の動作を――ドラゴンなりの感謝なのだと思った。
「……ありがとうございます」
何に対する感謝なのか、自分でもよく分からなかった。
それでも、この場ではそう言うことしかできなかった。
ドラゴンは僕の言葉を聞き終えると、小さなトカゲを炎の檻ごと両腕で包み込み、再び空気を震わせるほどの羽ばたきを響かせながら、遥か上空へと飛び去っていった。
巻き起こる暴風が、僕たちの髪や服を激しくはためかせる。
その間も狼少女は、終始、僕の背中へしがみついたまま、小刻みに震えていた。
やがてドラゴンの姿が夜空の彼方へ消えると、僕は狼少女の方へ振り向き、優しく声を掛けた。
「――もう大丈夫だよ」
彼女は身体を震わせたまま、涙の滲んだ瞳で僕を見上げていた。
僕はそっと彼女を抱き締め、彼女が落ち着くのを待った。
そうして数分が経った頃――静まり返った空間に、不格好な生体アラームの音が響いた。
極度の緊張から解放された途端、僕たちは揃って、強烈な喉の渇きと空腹感に襲われた。
「――取り敢えず、これを食べようか」
僕は袋から干し肉を取り出し、狼少女へ手渡そうとした。
しかし狼少女は、雛が親鳥から餌を貰う時のように口を大きく開け、食べさせてもらえるのをじっと待っていた。
僕は戸惑いながらも、少女の口へ干し肉を運ぶ。
「少し……元気になったみたいだね」
狼少女は、美味しそうにもぐもぐと干し肉を咀嚼していた。
自分も空腹を満たそうと干し肉を一枚口に含み、咀嚼する合間に、何気なく――傍らの聖剣のように突き立つドラゴンの鱗へと視線を向けた。
「それにしても――これ、どうしよう……」
僕は、目の前に突き刺さったドラゴンの鱗へ、そっと触れた。
すると、先ほど赤子のトカゲに触れた時と同様に、その表面は熱されたプレートを思わせるほどの高熱を放っていた。
「――熱っ……!」
掌に熱が伝わった瞬間、手の甲に再び魔法陣が浮かび上がり、さきほど触れた書物が空中に出現する。
「――えっ!? 何これ!?」
中空を漂うその書物は、独りでに開き、白紙だったページを開帳した。
開かれたページには、ドラゴンの鱗の絵と、手や炎を模したピクトグラム、そして未知の言語で綴られた無数の文字列が次々と浮かび上がっていく。
やがて、すべての文字が表示され終えると、本はひとりでに閉じられ、そのまま瞬く間に消失した。
「あれは、さっき消えた本なのか……? どうしてこのタイミングで現れたんだろう。分からないことだらけだ……」
本がどのような条件で現れるのかは分からない。
だが今は、それを考えるよりも飲み水を探す方が先決だった。
僕たちは水源を求めて、村の外縁部を歩き回った。
二人は、しばらく進んだ先で、井戸を見つけた。
けれど、それは瓦礫に埋もれており、すでに使い物にならなくなっていた。
「――これじゃ、ここの水はもう飲めないな……。仕方ない」
僕は少し思案した末、腰に提げていた葡萄酒を少量だけ口に含み、乾いた喉を潤した。
――すると再び、本が空中に出現した。
今度は酒樽と、顔を赤くした人間の絵、そして未知の言語で綴られた文字列がページに表示された。
「これは……お酒で、こっちは酔っ払った顔の絵か? ――文章は何て書いてあるのか分からないな。せめて日本語なら読めるんだけど……」
僕は思わずそう呟いた。
すると、本に記されていた未知の文字列が、まるで僕の言葉に反応したかのように、一文字ずつ日本語へと変換されていった。
⸻
තත්ත්වය: විෂ
වර්ගය: මත්වීම
⸻
摂取: විෂ
වර්ගය: මත්වීම
⸻
「翻訳し始めてる!? もしかして僕の声に反応してるのか? ――それじゃあ、二言語表記もできる?」
僕がそう口にした瞬間、本に表示されていた文章は、この世界の言語と思しき文字列と日本語の二言語表記へと切り替わった。
摂取:アルコール
තත්ත්වය: විෂ
状態:酩酊
වර්ගය: මත්වීම
どうやらこの書物には日本語も収録されているらしい。しかも音声認識機能まで備わっているようだった。
「――あ、お酒を飲んだことを教えてくれてたのか」
なるほど、と僕は納得した。
「……ん? ということは、僕の身体とこの本はリンクしてるのか? もしかして、この手の甲の模様が関係してるのかな……」
そう考え込んでいると、不意に腕に重みがかかった。
「オート ムエ! オート ムエ!!」
狼少女が、水筒を握る僕の腕をぐいぐいと引っ張った。どうやら喉が渇いているらしい。
僕は一瞬ためらった。
中身は葡萄酒だ。――未成年にしか見えない少女へ酒を飲ませるのは気が引ける。
だが今、この場には葡萄酒以外に飲めるものがない。
僕は仕方なく水筒の栓を開け、狼少女へ差し出した。
「ああ、ごめんね。喉、渇いてるよね」
狼少女は水筒を受け取ると、ゴクゴクと喉を鳴らしながら勢いよく葡萄酒を飲み始めた。
しかし飲み終えた後も、顔色一つ変わらない。
「君、意外とお酒に強いんだね」
そう呟きながら、僕も少しだけ葡萄酒を口に含んだ。
喉の渇きがいくらか落ち着いたところで、僕は今後の方針について考え始めた。
この村に留まっていれば、いずれ誰かが訪れ、その時に助けを求められるかもしれない。
だが、見知らぬ土地の人間が僕たちに友好的とは限らない。襲われたり、誘拐された挙げ句、人身売買に巻き込まれたりする可能性だってある。
そう考えると、この場所に長居するのは危険だった。
すでに日は落ち、一帯は闇に包まれている。
それでも、見通しの良い草原なら、満月の明かりだけでも歩けるかもしれない。
どうせ遅かれ早かれ、清潔な水を探すために村を出る必要があるのだ。
ならば、それが少し早まるだけの話だった。
僕たちはひとまず、川や湖などの真水が得られる場所を目指して移動することにした。
できれば、その近くに寝床も確保したい。
しかし、見知らぬ土地で水源を探すには地図が必要だ。けれど、肝心の地図は手元にない。
――そこでふと、神出鬼没の書物の存在を思い出した。
僕は本を召喚するため、常に熱を帯びているドラゴンの鱗へ手を伸ばした。
「――っ!」
触れた瞬間、再び淡く発光する書物が空中に現れ、ひとりでにページを開いた。
開かれたページには、火傷の状態を示す絵と文字が表示されている。
「おぉ、やっぱり出てきた! それじゃあ……現在地の地図って、出せる?」
すると僕の言葉に呼応するように、本は新たな白紙のページを開き、現在地周辺の地図を映し出した。
本の上に表示された地図には、川と思しき一本の細い線が描かれている。
僕は山との位置関係から、おおよその方角を割り出した。
「こっちか」
どうやら、集落を出た先の草原の向こうに川があるらしい。
森や人里を避けて進みたかった僕にとって、それは好都合だった。
「じゃあ……出発しよう」
そう言って僕は狼少女の手を取った。
すると彼女も、それに応えるように僕の手をぎゅっと握り返してきた。
僕たちは燃え尽きて静まり返った集落を後にし、川を目指して満月の下を歩き始めた。




