第87話 神竜の寝所(後編)
内匠櫂。12歳。
32歳の冴えないサラリーマンであった彼は、異世界に転生した際に何故か12歳の美少女に生まれ変わっていた。
遂に神竜が待つ場所に辿り着いた櫂であったが、あまりに聞き慣れたチャイムに続いて姿を見せたのは、割烹着を着た女性の鬼であった。
「では、こちらでお靴を脱いでお上がりください。お足はこれで拭いてくださいな」
鉄の扉を潜った先に広がっていたのは、板張りの廊下であった。
洞窟の地面よりも一段高く、更に廊下と地面の間には漆喰で塗り固めた床が設けられている。
巴と名乗った割烹着姿の女性は、そこで靴を脱ぐようにと櫂たちに伝えた。足の汚れを拭き落とす為の濡れた布も手渡して。
この時、一行が履いていたのは踝も包みこむ長さのブーツが大半であった為、彼女たちは脱ぐのに一苦労したのだが、櫂だけは手を使わずに足だけで器用にブーツを脱いでいた。そして脱いだブーツを手で揃える姿を見て、巴は口に手を当てて含みのある笑みを浮かべる。
「ご丁寧にどうも。どうですか、懐かしいでしょう?」
何がとは巴は口にしなかった。
しかし櫂は「ええ」と頷いた。
「三和土に上がり框——まさか、ここにも存在するとは予想外でしたよ」
この時、櫂と共に神竜の居所に迎え入れられた者たちは「またカイが変なこと言っている」と大して気にも留めなかったのだが、当の本人からすればこの歓待はあまりにも示唆的であった。
間違いなく自分は探りを入れられている。いや、それどころか相手は櫂以上に櫂の事を知っている可能性すら否定できなくなっている。
何故ならこの巴と名乗った女性は、櫂がかつて日本人であった事を見抜いていたのだから。
「お待たせカイ、さぁ行きましょう」
靴を脱いで足の汚れを拭き落としたミカゲが櫂に声をかける。その後ろでは他の面々も靴を脱いで板張りの廊下に上がっていた。
巴は先頭に立ち、しずしずと歩き出す。その背中に導かれて一行は居所の奥へと歩を進めていく。
「この扉は紙を貼っているのかしら? 床もつるつるして不思議な木目をしてるわね」
「うん、歩きやすい」
廊下を歩きながらミカゲはこれまでに見たこともない内装や造りに驚きの声を上げる。中でも彼女が感嘆したのは廊下の歩き心地であった。
諸国連合の生まれであるミカゲにとって板張りの廊下は特に珍しいものではない。しかし体重を乗せてもたわみもせず軋みすらしない。そのくせ石畳のような反動もなく静かに足を受け止めてくれる柔らかさがある。
その事を最初に指摘したのはエルナであったが、言葉には出さずとも初めてこの場所に足を踏み入れた者は同じ感想を抱くに違いない。
ただし、櫂を除いて。
(——ねぇエルナ、カイってちょっと様子が変じゃない?)
(カイはいつも変だけど、今はちょっと大人しい)
(そうよね……普段なら子供みたいにはしゃいであれこれ聞き出そうとするのに)
櫂本人がその会話を聞いたならば「私はそんなにお子様じゃないです!」と否定して、全員から「なにも間違っていない」とツッコミを浴びるところだろうが、しかし今の櫂は確かに普段とは様子が異なっていた。
その証拠に彼(女)はミカゲやエルナのように未知の産物で構成されたこの場所に、何の関心も抱いていないように見える。
(——間違いなくただの日本家屋ですね。フローリングの床に印刷した襖の張り紙や障子紙。って言うか、部屋の中には畳に炬燵まで置いてあるじゃないですか!!
あと、あれテレビとスーパーファ〇コンですよね? おばあちゃんの家で見たことあります!! 何でですか!!)
しかし、実際には櫂は関心を抱いていないわけではなかった。
それどころか視界の端々にまで意識を張り巡らせて、屋内の様相を具に観察している。
はしゃいだりしないのは全てが既知の光景であり、どうして転生前の文明の産物が異世界にあるのかと憤っていたからに他ならない。
「はぁ~~~~こ、これが神竜様のお屋敷なのですね~~~~~。私~~なんだか~くらくらしてきました~~~」
「お、おい、大丈夫か?」
今、自分たちが歩いているのは異世界のごく一般的な住宅であるとは露知らず、視界を埋め尽くす未知に興奮しすぎて軽い貧血を起こしかけたベルタを、ロイが慌てて支える。
それを見た櫂は、思わずベルタに嫉妬してしまいそうになる。
(私だって見たかったんです! ダンジョンに潜む古代文明のアーティファクト! ドラゴンの寝所に相応しい超自然の異空間! なんかこう……妖しく光ってパズルみたいに動く巨大な装置とか神像とかが見たかったのであって、こんな実家のような安心感は要りません!!!
つか今ガ〇プラが飾られていましたよね、1/144HGUCナイチン〇ールが!!」
(オタクなら)一目でそうだと分かる特徴的なシルエットに、櫂のフラストレーションは限界を迎えつつあった。
廊下を歩き始めてもう5分は過ぎただろうか。まっすぐ奥へと伸びる廊下の両脇には、襖と障子で仕切られた無数の部屋が存在している。そのうちの幾つかは内部を拝むことができたのでだが、そこに広がっていたのは妙に生活感のある現代日本の住宅そのものであった。
異世界の住宅事情自体はこの空間が持つ特異性を何よりも能弁に物語っていたが、違う、そうじゃない。
(これもう下手に期待しないほうが良いんじゃないですね? 作務衣を着たお爺さんが『どうも神竜と申します』とか名乗り出すのも覚悟しておくべきですかね?)
まだ見ぬファンタジーでエキゾチックな光景を夢見て旅立った数ヶ月の果てが、見慣れた田舎の実家以外の何ものでもないという現実に櫂は心底落胆していた。
冷静に考えればその落胆自体が異なる二つの世界を繋ぐ縁の謎に迫る鍵となっただろうが、今の櫂はそこまで寛容にはなれなかった。端的に言うとイライラしていた。
だから長い廊下の先に待つ両開きの襖、その向こうに広がる光景を目にしても櫂は仏頂面のまま、しかし1秒と経たず、その琥珀色の瞳は大きく見開かれる事になる。
そこには、大いなるものが在った。
襖の先には緑に覆われた庭園——と呼ぶには人造物が存在せず、さりとて一つの秩序と規範に支配された空間が存在し、その全ては草花に覆われている。
恐らくは中庭のような場所なのだろう。しかし周囲を覆うのは植木や漆喰の壁ではなく、天まで伸びる無数の大樹の幹であった。
その中央に座す、小さな屋敷ほどの巨体はゆっくりと長い首を挙げて、櫂たちに二つの目を向ける。
長い首と尾を持ち、四本の脚を備えた胴の上、恐らくは背中に当たる部分には折りたたまれた翼がある。そのシルエット自体は櫂が思い描くドラゴンそのものであったが、決定的に違うのはその巨体を覆う白い毛皮。
頭頂部に生えた角もよく見れば樹木のように節くれだち、枝分かれしている。
何よりも宝石のように輝く翡翠の瞳を縁取るのは、真っ白な瞼と睫毛であった。
「あら、いらっしゃい」
長く前方に突き出した口が開くと同時に聞こえてきたのは、あまりにも流暢で穏やかな統一言語であった。
声色から女性だと思われる声に招かれ、櫂たちは——大いなるものの眼前に立つ。
「久しぶりねサピアちゃん、そして——はじめまして皆さん、フウカと申します」
「フウカ」。それが大いなるものの名であった。
この大陸——いや惑星における最上位の知性体。古来より人はそれを「神竜」と崇め奉っていた。
「は、はじめまして神竜様、私は——」
目の前の威容に呑まれながらも、礼を失してはならないと櫂が口を開きかけたところ、
「あら、そんなに畏まらなくて良いのに。巴さん、先ずは皆さんにお茶を出してあげて」
「はい、もう準備できてますよフウカちゃん」
神竜の眼前に立つ者たちが畏敬の念に打たれてまともに口を聞けなくなっている中、割烹着を着た赤銅色の肌を持つ鬼——巴だけは気安い足取りで庭の片隅に置かれていた籠をひょいと持ち上げ、その中に入っていたものをまずは櫂に手渡す。
「どうぞ。どこでも良いから腰を下ろして召し上がってくださいな」
「ど、どうも……って、これ、ドリンクとハンバーガーですか?」
それは紙製の器に注がれた飲料水と、油をはじく紙に包まれた食べ物であった。
その特徴的な形状から、櫂は中身を見ずとも中に肉と野菜とチーズを挟んだパンが入っている事を察してしまう。
「うちのお手製です。飲み物はさすがにベルタさんのサーバー頼りですけど、お酒ならなんとか自分で……」
「巴さん、まさかとは思いますけどお酒は出してませんよね? この子達まだ二十歳前ですよ?」
「そ、そんなの知ってます。せいぜい調理に使っただけで、折角だから昼間から飲もうだなんてそんなこと……」
口では否定しつつも、櫂の目は巴がそっと透明な瓶を籠に戻すのを目撃していた。その中身は何であるのかは言うまでもない。
「はぁ、これだから飲兵衛は……それはともかく、皆さん、先ずは腰を下ろして寛いでね。私も正直言うと畏まった雰囲気は苦手なのよね」
神竜はそう言うと前足を動かして大樹の陰から巨大な——人間に例えると大人の五、六人は手足を伸ばして寝そべることができるくらいの——クッションを取り出し、その上に前足と胴を前半分を乗せた。
スケールこそ桁外れだったが、確かにそれは誰の目にも寛いでいるようにしか見えない。
「ふふっ、私のことをどう思っているかは想像に任せるけれど、折角のお客様ですもの——あなたたち、今日は家に帰さないわよ」
口の端を持ち上げ白い牙を覗かせる神竜の横顔は、間違いなく笑っているように見えた。
だから「家に帰さない」と言う言葉の真意は、長いおしゃべりに付き合ってほしいというお願いを冗談めかして言ったものだと理解できる。
理解が追い付かないのはただ一つ——
「随分とノリが軽いドラゴンなんですね……」
「ええ、だって毎日退屈なんですもの」
神竜がその姿と伝承の割に威厳も遠慮もない、ただの話好きな上位存在であるという事実であった。
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「ん、美味しい。これ」
「え? うそ? 口の中こんなにピリピリするのに?」
「私~これ知ってます~。熱病で食事が取れない時に~お母さまが無理矢理飲ま……調合してくださった薬が~こんな感じだったような~」
「な、なぁこれ、飲んでも大丈夫なのか?」
神竜に勧められて木の根や平らな石の上に腰を下ろした一行は、巴から振舞われた飲み物を口にし、そして驚きの声を上げた。
爽やかな柑橘類の香りに釣られ、細い管を通して吸い上げたそれは口の中に入れた途端に爆ぜて、未知の感覚を生じさせる。
エルナはびっくりして固まり、ミカゲは思わず噎せこみ、ベルタはしばらく口を閉ざしてしまい、それを見ていたロイは不安に怯えだす。
平然とそれを飲み下したのは蛇帝の使徒として既に何度か神竜に拝謁していたサピアと、それが飲みなれた炭酸飲料だと看破していた櫂だけであった。
「……びっくりするくらいコーラですね。一体どうやって作ったのですかこれ?」
櫂が巴に尋ねると、巴は軽く首を傾けて
「それは……ベルタさんが作ったサーバーから注いだもので、うちには作り方はおろか材料すら見当がつかなくて……」
「“ベルタ”さん? もしかしてベルタさんのご親戚ですか?」
聞きなれた名前が初対面の人物の口から出てきたことに疑問を覚え、櫂は道中を共にしてきた自称錬金術師の少女——ベルタに問いかける。
恐る恐るストローで炭酸飲料を啜っていたベルタは突然話を振られて驚いたあと、自分の名が神竜の従者(と思われる)の口から出た事実、それが意味する事に気付き「うひゃあ!!」と叫び声を挙げる。
「も、もももも、もしやもしや~こ、ここにいらっしゃるのですか~? しょ、初代様が!?」
ガタガタと震えだすベルタ。彼女が口にした「初代」と言う名に反応を示したのは神竜だった。
「初代……ああ、そうね。そうなるのね。よく見るとあなた、そっくりだし」
「呼んできましょうか、フウカちゃん?」
「ええ、その方が色々と話も早そうだからお願いするわ巴さん。
えーっと……ベルタ、ちゃん? お察しの通りここにいるわ、あなたのずっとずっと前のお祖母ちゃん」
目を細め、優しい声でベルタに語りかける神竜。
櫂には何故かそれが、悪戯をしかけてる小悪魔の囁きのように聞こえていた。
「御柱の遣い第三十三柱、錬金術師大ベルタ。
それと内匠櫂さん――あなたを造ったのは恐らく、彼女よ」




