58 魔法書、魔女、天使の術式
『ユノに、天使になってもらう』
突拍子もなかったかもしれない。少女の顔には驚きが溢れていた。だけど、彼女は、受け入れた。
「うん。それで、あなたを、守れるのなら、お願い……!」
少女は微笑んでいた。
『本当に? 一時的にだけど、呪いを止めてた枷を外すから、とっても痛いけど……』
少女は、私を掴んだ。力強く、血溢れる腕で。
ああ、もう決まっているのか。覚悟が、思いが、私にも届く。
「……わかった。抑えていた呪いを、一度解放するよ」
五月の一番最後の日、召喚魔法書を使って呪いをギリギリまで抑えていた、出会った時とは想像もつかないほど逞しくなったと、彼女にささやこうとしたけど、やはりできない。
そんな思いやりは、私にはできない。でも、これが私のなすべきことだから。
唸り声、それをかき消すほどの、激しい痛みの声。召喚獣は機を窺うが、それでも手を出してこない。もう目は瞑らない。目を背けない、後ろを向かない。
勇気。その力を使って、成し遂げる。
『解呪不能、枷破壊完了。段階移行、術式準備』
光る。少女と本が。その光は悪を退けて、完全に近づくための準備を行う。
『降霊、クリサンセマム・ホールズへの身体操作・支配権の譲渡』
魔導書がユノに吸い込まれていく。輝きは増し、膨大な魔力が奔流する。
「ユノ・ワロキアの身体進入確認、支配完了、詠唱可能。……甚大な身体の破損を確認──どうして、こんな出血量で意識を保てた……? まあいい、天使体変化時に『知識』より補填」
身体をのっとり、彼女の口で詠唱を再開する。機械的に、自身の声とユノの声が混じり合う。
「……詠唱、『ホールズの書、天子の法第三節。【勇猛でないけれど、彼方の血は巡る。残るは願い、砕かれず】』…… 『我は汝の導きに従い、世界の理に名を連ねるもの』!」
準備は、整った。自分の魔女の力……『神の知識』をすべて使い、彼女に勝利を。
「我の形は汝が形に、我の力は汝が力に。──対価は要らぬ。我の欲すものは、彼の勝利! そのために、成し遂げるために。私の全てを、知識の全てを授けようッ!!」
光った。回った。降りた。
無数に現れた幾何学的魔法陣は、魔力を溜め込み周りに回る。空間を埋め尽くし、展開された魔法陣が、ユノ・ワロキアの身体を変質させる。
そして──少女は天使となった。
輝いたのは片翼の右。光を吸うのは片翼の左。目の下の、幾何学模様が脈打ち止まない。
「グガァッ!!」
「──もう、遅い」
スパッと、一瞬。
召喚獣の腕が取れた。獣はそれを理解せず、もう一度突っ込んでくる。
「『天子の法第七節【知識を欲する者、勤勉な努めに励むべし】』」
空気が揺れる。召喚獣の存在が、揺らぐ。
存在否定。それが目の前の獣を倒す手段。巨大な魔力で掻き消したり、召喚者本人の心が変わったり、魔力の変質を起こさせたり。
召獣結晶が最たる例だ。あれは『召喚獣の存在を否定した人間』によって生み出される魔力の塊なのだから。
「カッ……ガガガッ!!」
召喚獣の目の前に、魔法陣が展開される。あれは、ユノの脇腹を抉ったものだ。肉ごと裂いて喰らうその魔法陣、まさに天災。
私が作り出したものの中でもかなりの上位個体だと理解する。あれを喰らうのは、天使の体でも難しいだろう。何せ、魔力ごとごっそり持ってかれるのだから。
「魔女の力を使うべき、か……」
心の奥にいるユノにイメージを送る。そして、体の支配権をか弱い少女に移す。
「ユノ、貴女の役目だ。私の分まで、あの獣をやっちゃって!」
体の奥に入り込み、目を開けた少女を半端強引に押し出した。
「ホールズ、もう大丈夫。元気でた!」
『ならいいさ……まあ、こっからまたキツくなるんだけどね?』
うん! と覚悟を決めて、目の前の脅威と対峙する。
詠唱準備、全工程完了。
『ははっ! 久々に守るものに向けて力を使える! さあユノ、想いを見せろ!』
「うん、ホールズ! ……私が、あなたと戦う!」
『神の知識』の適合に成功。ユノの身体から、右肩方面背中から三枚の天使の翼が現れる。
「『想いをここに、我らは一つの天の華『神の知識』!!』」
そして、そして。
彼女の五感が、全て潰された。
☆
私は、何も見えなくなっていた。
何も聞こえない、何も触れない、血の匂いも今はしないし、鉄の味が踊ってもいない。
無音、闇。それだけではなかった。
魔力。それが全て手に取るようにわかる。
多分今、召喚獣の攻撃を『無意識に』躱している。
何が、起こったのだろう。上で、魔力の流れが瞬間瞬間で書き換わっていることがわかる。
召喚獣が思考の邪魔になるので、少し距離を取る。
何が起こったのか、何が起こっているのか、何もわからない。
ただ、わかることは。目の前の敵を排除すること。
だから、多分手を動かした。
多分召喚獣はもがき苦しみ、重い魔力の鎚で打たれて血を流している。
これが……『魔女の力』。エル先輩が、今日の夕方に私たちに見せた、禍々しき破壊の力。
怖くはなかった。笑いさえ出るほどだった。圧倒的、だった。
ボロボロに、バラバラに、八つ裂きに。召喚獣を喰らって食らって、裂いて焼いて消していく。
無限に等しく存在否定を繰り返す。無限に無限に切り刻んでバラバラにする。翼が伸びて、破壊の限りを尽くす。
殺すなんて生温いほどの蹂躙。まさに天災。
それが今の私だった。
そして、そして。
消えていった。
そして。
全てを終えた。
だから、自然と、意識を取り戻す。
召喚獣を倒した。そう思ったのは獣の魔力が消えたからではない。消えたのが見えたから。
それに続いて、怪盗の悲鳴と耳鳴りが私をおそったから。夜の風を感じて、肌の感覚が戻ってきたのがわかる。血の味が口を包んでいることも、今理解した。
そして、甘い花のような匂いを、吸い込んだ。そのまま、私は地面に落ちていった。
「エル、先輩……後は」
そんな、簡単に。血の匂いと花の匂いと共に。
意識は地に落ちた。




