57 分たれる道と抗う勇気
少女が落ちた先は、学園と呼ばれる建物の三階だった。
一冊の魔導書とともに、四階の廊下から“落ちた”。穴が開いた。法則など無意味な世界。それが魔法。
……少女は魔法が好きだった。遥か昔に出逢った少年。彼を繋いでくれたのが、魔法。幼いながら魔を語らい、魔を見つけ、魔を創り出して──。
魔に打ち勝てず、魔に落ちた。
呪い。それが、二人を分かたった“魔”の正体。それは、少女も少年も分かっている。だって、二人とも呪われているのだから。
9歳の暑さの残る日のことだ。心を通わせた少年と少女は、少年の住む街の外れにある遺跡を探索していた。そこを通り抜ければ、海を望むことができる。と、本で読んだ少女は少年に誘いをかけた。
渋々イエスを勝ち取った少女先頭で、何もない遺跡を──迎撃装置もガーディアンもいない遺跡を、怪訝な顔をして奥に進む。顔はそうであれ、少女の心は踊っていた。少年も楽しんでいるようであった。
間違いだった。海は見れた。綺麗だった。だがそこからがおかしかった。
『“私”は、彼のことしか考えられなくなった。』
彼の目が好き、彼の髪が好き、彼の指が好き、彼の心が好き、彼の体毛が好き、彼の太腿が好き、彼の腰が好き、彼の声が好き、彼の匂いが好き、彼が彼が彼が彼が!!!!!!
呪われたと、理解した。理解した上で、彼のことを好きになった。……一人の女として。
それで、よかった。自信もなく、ただの友達だった少年を、本当に必要と思えたことが、嬉しかった。政略的許嫁という分際で、目の前の少年を女として愛せないと分かっていたのに、それも全てが覆った呪いを、嬉しく思っていた。
少女だけがそうなら、別によかった、本当に良かった。
それもこれも、少女の心も少年の心も全て間違いだった。
少年は、少女を『嫌って』いた。心の底から、女を見下し、蹴り付け、叩き折った。恐ろしくなかった。蹴られたかった、殴られたかった、罵られたかった、グチャグチャに潰して欲しかった。それほど、少年を。
愛してしまった。
でも、もう。溝ができ、霧がかかり、大地が割れた。二人の間は、無限に距離があるからこそ、何もなかった。
そこには、魔を汚れと嫌う、少し大人びた少年は無く。
魔を好む、無知な少女。独りよがりに、“彼”だけの呪いを解こうと、禁忌に触れた欲深き少女のみが立っていた。
一人虚しく、血を流し笑いながら、生を確かめて、彼からの声に狂って。
☆★☆★
今見ているものは、走馬灯だ。そう理解したのは一人の少女。名前は、ユノ・ワロキア。
ガルルル、なんていう獣の喉の音がしける。海を司るドラゴンのようなシルエットの召喚獣が、牙を光らせていた。
「召喚獣……」
目の前にドラゴンの大顎──いや、大蛇の巨顎がユノを喰らおうと近づく。もう避けられない、もう消えられない。
『【空間飛脚】』
誰かの声。一瞬で彼女は位置を移動していた。
声の主はホールズであった。ユノと一緒に三階に落ちていた。彼女はユノと違って冷静を装いながら分析する。
「ホールズ……私」
『なーにあたっているのかしら、『解錠』……ねえ。やっぱり北の幻術の類と、この落とし穴は陣魔法かしら?』
「ホールズ、わたし!」
懇願を、制す。本から、人の姿に一時的に戻ったホールズは、ユノの頭を撫でた。
『見たよ、私も。私の過去。幼くして魔導を大成し、担ぎ上げられ、神に言われるがままに魔導書を編纂し、若くして命を落とした。全く無価値な過去を……ね』
過去を見せる幻術。暗く過去を彩り、世界に絶望させて戦意を削ぐ。そして、目の前の召喚獣が喰らう。そうすれば、苦しみからは断たれ逃れることができる。
そんな夢を見せる、ロッゾの複合魔法二重言語と陣魔法。それを彼女は跳ね除けた。
『戦おう、ユノ。上では殺し合いが始まっている』
「……うん。目の前の召喚獣を、倒す!」
その意気だ、とホールズは笑って、また本に戻る。
道は分かたれた。戦いの場は上と下。戦う理由は千差。力量は万差。でも、想いでは、思い出は負けない。
「絶対に勝ちます。この戦い、この想い、この覚悟。私は、ホールズと共に……エル先輩と共に戦う!」
だから、こちらもまた高らかに。等しく思いを魔法に込めて。
「穿て、【閃光】……ッ!」
撃つ。
それだけでは、召喚獣と戦っても、勝ち目などない。
☆★☆★
ああ、結果など明白だろう。
悲しきかな、力無き者。
「あ……あぅ、ごふッ」
血が出ていた。脇腹に痛々しい傷痕。
「──【ヒー、ル】……」
『ユノ、しっかりして。このままだと本当に死ぬ! ユノ、気を確かに!!』
声は聞こえていたはずだ。鼓膜は破れておらず、脳の機能も正常だ。
抉られていた、脇腹。ドボドボと流るる血潮。
無常、というものであったか? いや、そうではない。
これが常だ。今までが異だったのだ。ただの人の子が、私の──クリサンセマム・ホールズの創り出した召喚獣に勝てるはずがない。
私は泣いて謝るべきだろうか。泣いて世界に対して泣きついて、『もう召喚獣を全部消せ』なんて言えばいいのだろうか。
そんなもの、誰が受け入れる。そんなもの、誰に頼めばいい。
過去に行けたら、自分の行いを正せたのだとしたら、命を使ってでも過去に飛ぶ。
『神の知識』。それが、幼きクリサンセマムに与えられた力だった。なんでも分かった。手に取るように理解できた。……他人からは理解を手に入れれなかったが、声が聞こえていればどうにかなった。全部ねじ伏せた。知力で、才力で、戦力で、胆力で、気力で、行動力で、そして──気分で。
ホールズ家に引き取られてからは、それこそ財力や権力、偉力を使って気分で何もかもを破壊して笑っていた。
17の時には、街の男全ての身体を手に入れ、街の女全ての心を手に入れ、子供全ての信頼と、老人全ての知恵を手に入れた。
楽しくなかった、なんて言えるはずがない。
実際に楽しかったのだから。その容易い殺戮と蹂躙と、研究と発明が。
そしてついに発明したのは今、世界どこでも忌まわしき獣だとされている召喚獣。神の啓司など、とうの昔のように思えた。
──全て自分が行った──うまくいった時にはそう思い、──神がバカだった──ほんの少しの持て余しごとにはそう言って嘘をついた。
神の獣だ、召喚獣は。神の意思と、人間の黒き悪意が混ざり合った異種生命体。法則に囚われず、膨大な魔力を持ち、人を襲い、街を襲い、仲間さえも殺す。獣には知性がない。ただし召喚獣は、知性を持って理性を保ち、本能によって蹂躙する、顕現した悪魔。狂いもの。
後悔していた。
何千年もの後、心を通わせた少女が、こうやって血を流していく姿を見て。多分初めて、私は人間になった。
目の前の少女を、殺しておきながら。何もせず、ただ過去にふけり泣くばかり。
人間の座に落ち、無能な私。……そもそも今は本なのだから、本当に人間以下の存在に成り下がっている。
まだ、魔力は残っている。顕現できはしないが、彼女を使って降霊として身体を手に入れることはできる。なのに、何もしない。
知力も、才力も、戦力も、胆力も、気力も、行動力も、もう持ち合わせてなんかいない。財力だって、偉力だって、権力だって!
一人の人間として、唇を噛んだ。
なのに、彼女はまだ。私を見つけて、話し相手になってくれた少女は、悩みを打ち明けて泣いていた呪いの子は……まだ。
「まだ、戦え、る……!」
無茶だ無理だ無意味だ、そんな言葉さえ消えて、無くなって……終わった。
「終わっ、てなんか……ないッ!」
決定的に、足りないものを見つけた。力はない、なんてこと、彼女の前で言えるはずがない。お世辞を言うと、ユノは矮小で雑魚で足元にも及ばない。でも、でも、だけど。
私にはない、力がある。
“恐るべきものと恐るべからざるものとを識別することなり”とはよく言ったものだ。
彼女には、勇気がある。私になかったもの、私が手に入れられなかったもの。私が、背を向けたもの。
『ねえ、ユノ』
口は動いていた。
『一つ、提案があるの』
一冊の本が、少女の血で塗られた本が、勇気を出す。
「な、に、ホールズ。もしかして、すごい、秘策?」
ううん、と首を振る。……もとより首などないのであるが。
「……ホールズ、あなたの言うこと、私は信じる……!」
目を瞑り、前を向く。足を進め、心を決める。
拳を握り、頬を叩き、口を開けた。
『ユノに、天使になってもらう』




