作戦2:初恋の少女の秘密を守り抜け!
机の上に置かれた、分厚く重苦しい赤い封印の封筒。
俺、佐藤宗次郎は、その毒々しい赤色を前にして、自分が十年間かけて緻密に積み上げてきた平穏な未来が、音を立てて崩れ去っていくような底知れぬ絶望感に襲われていた。
この国を完全に支配する絶対的なルールである、指定パートナー制度。
満十六歳の誕生日を迎えた夜に、政府の少子化対策機関から個人の自宅宛てに直接郵送されてくるこの恐ろしい通知には、国民側にいかなる拒否権も存在しない。
一度機関の演算装置によって決定されたパートナーの組み合わせは絶対であり、それに異を唱えたり変更を申し出たりする者は、国家への反逆者としてただちに不適合者の烙印を押され、社会からの抹消処分を下される。
俺は、小学生のころに夕暮れの河川敷で拾った、禁じられた恋愛小説の雑誌を朗読して以来、この国の自由恋愛禁止法に対して強い不満を抱き続けてきた。
自分の意志で誰かを愛するという、人間として最も尊く美しい感情を禁じられ、ただ国を効率よく回すための都合の良いパーツとして最適化されるだけの人生。
そんな異常なルールに縛られた息の詰まる世の中で、俺は誰にも知られることなく、心の中だけで自由な愛を夢見ていた。
だが、思想改善教育施設へ強制送還され、人格を奪われる恐怖から、その本音を心の奥底へと厳重に封じ込めた。
そして、誰の記憶にも残らない完璧な凡人を演じ切るための壮大な計画を、身を削るような絶え間ない努力で実行してきたのだ。
今日の昼間だって、五百点満点中二百五十二点という学年平均ど真ん中の数学の答案用紙を返却され、教師からの疑念を気弱な愛想笑いで見事にやり過ごしたばかりだった。
学力テストの点数も、運動能力の記録も、すべて学園の平均値を完璧に維持し、誰の視界にも入らない風景の一部となるための十年間。
すべては、この赤い封筒の中に入っている指定パートナーの選定において、俺と同じように目立たず、体制に従順で波風を立てない無難な相手を引き当てるための周到な布石だった。
しかし、その完璧なはずだった人生設計は、小箱の中から転がり出た深く冷たい氷のような青色のブレスレットによって、影も形も残らないほど完全に粉砕されたのである。
『指定パートナー:氷室 涼香』
その一枚の硬い書類に記された、冷徹な機械の印字を見た瞬間から、俺は一睡もすることができなかった。
(嘘だろ……なんで、俺が……っ。徹底的に平均値を維持してきた無害な俺に、どうして学園の頂点に君臨する彼女が割り当てられるんだ!?)
窓の外が白々と明け始め、灰色の雲が空を覆う重苦しい朝を迎えても、右手首に巻き付いた青色のブレスレットは消えていなかった。
昨日の放課後、一階の廊下で違反生徒を取り締まっていた彼女とすれ違った際、背中に突き刺さるような冷たい視線を感じたのは、決して気のせいなどではなかったのだ。
(よりにもよって、この学園で最も規則に厳しい歩く監視カメラのような存在が、俺のパートナーになるなんて。俺の誰にも干渉されない穏やかな未来は、ここで完全に終わった……)
翌朝、俺の足取りはまるで巨大な鉛を括り付けられたかのように重かった。
右手首の冷たい青色の鎖が、皮膚から容赦なく体温を奪い去り、俺の全身を氷のように冷たくしていく錯覚に陥る。
俺はブレザーの袖を限界まで不自然に引っ張り下げ、その忌まわしい青色を全力で隠しながら、うつむき加減で学園への道を歩いていた。
もし、俺があの冷血の執行者と同じ色のブレスレットをつけていると周囲の生徒たちに知れ渡れば、一体どうなるか。
間違いなく畏怖と好奇の目に晒され、俺の望む風景の一部に溶け込むような平穏な生活は完全に崩壊する。
それどころか、少しでも彼女の逆鱗に触れるような真似をすれば、全学園生徒の面前で歴史的な大恥をかかされた上で、思想改善教育施設へ強制送還されてしまうだろう。
思い描いていた未来がすべて崩れ去るような絶望感と、絶対的な恐怖で、俺の歩みは自然と小刻みに震えていた。
「おはようございます、佐藤くん」
学園の正門をくぐろうとした瞬間、背後から絶対零度の冷たい声が降ってきた。
周囲の空気が一瞬にして凍りつき、通学していた他の一般生徒たちが畏怖のあまり呼吸を止めて、慌てて道を空ける。
振り返らなくてもわかる。そこにいるのは俺の指定パートナーであり、俺にとって最大の恐怖の対象である氷室涼香だ。
「ひっ……! お、おはようございます、氷室さん……っ」
俺は全身の筋肉を完全に硬直させ、引き攣った不自然な笑顔を向けることしかできなかった。
俺の視界に、彼女の姿が映り込む。
誰もが振り返るほどの見目麗しい容姿を持ちながら、その美しさは完全に凍てついている。
血の通っていない白磁のように滑らかで白い肌と、腰まで真っ直ぐに伸びた艶やかな銀髪。
そして、他者の感情を一切映し出さない、ガラス玉のように冷徹で美しい青色の瞳。
シワ一つなく完璧に着こなされた学園の制服の左腕には、風紀統制委員長の証である腕章が巻かれ、細い腰には常に物騒な高出力スタンバトンが下げられている。
彼女の顔立ちには、人間らしい温かみや愛嬌といったものが一ミリも存在しなかった。まるで、国家のルールという概念そのものが、精巧な人形の姿を借りて歩いているかのようだ。
涼香は冷徹な銀縁眼鏡の奥で青い瞳をギラギラと光らせ、一切の足音を立てずに俺との距離を一気に詰めてくる。
そして俺の右手首を強引に掴み上げ、ブレザーの袖を容赦なく捲り上げた。
俺が全力で隠していた青いブレスレットが、朝の冷たい日差しに晒される。
「よろしい。今日も国家が定めた神聖なる義務を、一ミリの誤差もなく正しく履行している状態ですね。ブレスレットの表面に傷一つないことも確認しました」
涼香の顔が、俺の顔に直接触れそうなほどの至近距離まで近づいてくる。
彼女は幼い頃から、少子化対策教育のみを骨の髄まで叩き込まれて生きてきた。
そのため、誰かに惹かれたり、人を好きになったりするという個人的な感情を全く理解していない、純粋なアルゴリズムの塊だ。
恋愛要素を含む映像作品や書籍すら完全に排除されたこの世界で、彼女にとって指定パートナーとは、愛し合う対象などでは決してない。
「佐藤くん。あなたが登校中に他の女子生徒と三秒以上視線を合わせる行為は、国家倫理法第4条『パートナー関係性阻害』に抵触する恐れがあります。予防措置として、あなたの視界に私以外の不純物が映らないよう、物理的に制限・管理する義務が私にはあるのです」
(どんな理不尽な法律だよ! 完全に個人の自由を奪う人権侵害だろ……!)
俺の内心の絶叫など知る由もなく、涼香はあくまで管理上の深刻なリスクを指摘するような冷徹なトーンで言い放つ。
「私の言う不純物とは、国家の崇高な理念を理解できず、前時代的な感情に固執する『隠れ自由恋愛派』という名の害虫のことです。彼らはこの学園の秩序に重大な乱れを引き起こす。あなたのような脆弱で無防備な存在は、すぐに彼らの非合理な思想に汚染されてしまうでしょう」
「か、隠れ自由恋愛派……っ」
俺の喉から、ひきつったような無様な声が漏れた。
まさに俺自身が、彼女の言う『汚らわしい害虫』そのものだからだ。
「ですから、私が二十四時間体制であなたのすべての行動記録を監視し、隠れ自由恋愛派の魔の手から最適な状態へと保護・育成するための法的責任を全うします。今日の放課後は、必ず私の特別指導室へ直行しなさい。もし一秒でも遅れれば、重大な規律違反として……どうなるか、わかっていますね?」
「は、はいっ! 全力で直行しますからっ!」
俺は思想改善教育施設へ強制送還される恐怖に怯え、懸命に首を縦に振るしかなかった。
その日の授業中、俺は教室の隅の席で、自分の右手首に巻かれた青い鎖の重みにずっと苛まれていた。
誰にも見られないよう袖口を深く握りしめながら、俺はふと、窓際の席に座る一人の女子生徒へと視線を向けた。
神楽坂詩織。
生徒会長である深瀬十治の指定パートナーであり、この学園の誰もが憧れる高嶺の花だ。
一年前の入学式で、新入生代表として壇上に立った彼女の凛とした姿に一目惚れして以来、俺はずっと彼女に密かな恋心を抱き続けてきた。
二年生になって同じクラスになり、こうして毎日同じ空間で過ごせているだけで、俺にとっては奇跡のような時間だった。
だが、今の俺の手首には、氷室涼香という絶対的な監視者の鎖が巻かれている。
(もう、彼女をこうして遠くから見つめることすら許されないのか。俺の初恋は、言葉を一度も交わすことさえできないまま、氷室さんの徹底的な管理の下で完全に押し潰されて終わるんだな……)
黒板の文字を真面目にノートへ書き写している詩織の美しい横顔を見つめながら、俺は胸の奥が張り裂けそうなほどの切なさと、深い諦念に沈んでいた。
やがて、放課後のチャイムが、俺にとっては破滅へのカウントダウンのように不吉に鳴り響いた。
特別指導室へ向かう俺の足取りは、朝よりもさらに重くなっていた。
(あー……最悪だ。今からあの冷血の執行者と密室で二人きりとか、息が詰まって倒れる自信がある。逃げたい。今すぐこの学園から逃げ出して、誰も俺を知らない場所でひっそりと暮らしたい)
暗い気持ちで廊下を歩いていると、前方の曲がり角から突然、激しい怒声が聞こえてきた。
「離せっ! 俺は何も違反なんてしていないっ! ただ落としたハンカチを拾ってもらっただけだ!」
一人の男子生徒が、数人の風紀委員に床へと取り押さえられながら激しく抵抗している。
『言い逃れは無用だ! 国家公安委員会の許可なく異性と物理的距離を縮める行為は、明確な規律違反である!』
その騒ぎを聞きつけたのか、俺の少し前を歩いていた涼香が、冷徹な足音を響かせてその場へと歩み寄っていった。
「何事ですか」
涼香の声が響いた瞬間、騒いでいた男子生徒も風紀委員たちも、氷を当てられたように完全に動きを止めた。
涼香の意識が完全にそのトラブルの処理に向いている。
俺は、そのほんの一瞬の隙を見逃さなかった。
今しかない。俺は足音を極限まで忍ばせ、来た道を全速力で引き返した。
どこへ逃げる当てもない。後で涼香からどれほど恐ろしい懲罰を受けることになるかもわかっている。
ただ、今の俺には、あの息が詰まるような監視の視線から逃れて、たった一人で深呼吸ができる場所がどうしても必要だったのだ。
気がつけば俺は、立ち入り禁止区域となっている旧学舎へと逃げ込んでいた。
誰も寄り付かないその場所は、廊下にうっすらと埃が積もり、監視カメラの目も届かない完全な死角となっている。窓から差し込む夕日が、古い床を赤く染め上げていた。
俺は荒い息を吐きながら、誰もいない空き教室に身を隠そうと、静かに扉へ手をかけた時だった。
『ああ……ロメオ様、私を強く抱きしめて……国家の忌まわしきルールなど、真実の愛の前では無力に等しいわ……っ!』
誰もいないはずの空き教室の中から、甘く熱を帯びた声が微かに漏れ聞こえてきたのだ。
俺は自分の耳を疑った。
自由恋愛禁止法が絶対であるこの学園において、そんな前時代的で過激なセリフを口にするなど、常軌を逸している。
俺は呼吸を完全に止め、半開きになっていた教室の扉の隙間から、そっと中を覗き込んだ。
そこにいたのは、夕日に照らされた窓際で、机に座り込んでいる一人の少女だった。
「え……? 神楽坂、さん……?」
俺は声にならない驚愕の吐息を漏らした。
そこにいたのは、つい先ほどまで俺が教室で遠くから見つめていた、俺の初恋の相手である神楽坂詩織その人だったのだ。
俺のような面倒ごとを避ける凡人とは住む世界が違いすぎて、同じクラスでありながらこれまで一度も言葉を交わしたことさえない、完璧な令嬢。
そんな、手の届かない高嶺の花であるはずの彼女が、今、この薄暗い旧学舎の空き教室にたった一人でいる。
彼女の手には、『少子化対策のための高度国家倫理学』という極めて真面目で退屈な表紙の分厚い書籍が握られていた。
しかし、彼女の視線が食い入るように追っているのは、そんな国家の教本などではなかった。
分厚いカバーの中に巧妙に隠し、別の表紙に差し替えられていたのは、所持しているだけで思想改善教育施設へ強制送還される禁断の書物――『恋愛小説』だったのだ。
彼女は、その禁じられた物語のページをめくりながら、一人きりの教室で熱烈なラブシーンをまるで舞台女優のように感情たっぷりに朗読していたのである。
『だめ……っ、そんな熱を帯びた瞳で見つめられたら、私……魂まで焼き尽くされてしまう……っ! 例えこの身が冷たい牢獄に繋がれようとも、私の心にあるあなたへの情熱の炎は、誰にも消し去ることなどできないのよ……っ!』
普段の教室で見せる、完璧で穏やかな優等生としての表情は、そこには微塵も残っていない。
彼女の白く美しい顔は、耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まり、瞳は完全に妄想の世界へとトリップしてとろんと潤んでいる。
荒い呼吸とともに、彼女は本を胸に強く抱きしめ、恍惚とした表情で身悶えした。
そして、恋愛小説の甘すぎる展開に対する興奮が限界を突破したのだろう。
彼女の美しく形の良い唇から、タラーッと一筋の透明な液体が流れ落ちた。
完璧な生徒会長のパートナーであり、学園の高嶺の花であるはずの彼女の口元から、完全なる決壊――すなわち、だらしない『よだれ』が一本の糸を引いて垂れ下がっていたのである。
彼女は自分のよだれにも気づかないほど、禁じられた恋愛の妄想にどっぷりと浸りきり、フヒヒ……という怪しげな笑い声すら漏らしていた。
(ま、まさかの、超重度の隠れ自由恋愛派……! しかも、なんだあの芝居がかった情熱的なセリフ回しは!)
扉の隙間から覗き込んでいた俺の心臓は、雷に打たれたような凄まじい衝撃を受けた。
彼女は、国家のルールに盲従する冷たい人形などではなかった。
俺と同じように、いや、俺なんかよりもずっと重度で過激な、自由な恋に焦がれる一人の人間だったのだ。
表向きは完璧に体制に従順なエリート優等生を演じながら、裏では不適合者として抹消されるリスクを背負ってまで、よだれを垂らすほど恋愛小説を愛読している。
そのとんでもないギャップと、不器用で純粋すぎる裏の姿を今この時に知ってしまったことで、俺の心の中にあった初恋の感情は、幻滅するどころか、これまで以上に激しく燃え上がってしまった。
「あ……」
胸の高鳴りを抑えきれず、俺が思わず微かな声を漏らしてしまった、その時だった。
突然、旧学舎の廊下の奥から、無数の重い足音が響いてきた。
『この周辺から不審な物音を検知しました! 風紀統制委員長の命令です、旧学舎を徹底的に捜索しなさい!』
風紀委員の巡回チームだ。
その声を聞いた瞬間、教室の中にいた詩織はビクッと肩を震わせて現実に引き戻された。
彼女は慌てて口元のよだれを制服の袖で拭い取ったが、極度のパニックに陥り、手に持っていた恋愛小説を床に取り落としてしまった。外れていたカバーが剥がれ落ち、禁断の表紙が露わになる。
『そこの教室からだ! 踏み込め!』
足音がすぐそこまで迫っている。
(まずい! このままじゃ彼女が捕まって、思想改善教育施設へ送られてしまう! 彼女のあんな純粋な心を、国家の冷たい機械に奪わせてたまるか!)
俺は無意識のうちに、扉を開け放って教室の中へと飛び込んでいた。
「えっ!? さ、佐藤くん……!?」
突然現れた同じクラスの目立たない男子生徒に、詩織は驚愕の表情を浮かべる。
俺は床に落ちていた恋愛小説とカバーを素早く拾い上げ、俺のブレザーの内側に隠した。
そして、ためらうことなく彼女の白く細い腕を強く掴み上げた。
「走って!」
俺は十年間かけて培ってきた、誰の視界にも入らずに監視の目をかいくぐるルートの記憶を全開にした。
詩織の手を引いたまま、俺たちは風紀委員が正面の扉から踏み込んでくる直前で、後ろの扉から隣の準備室へと繋がる渡り廊下へ滑り込んだ。
「待って、佐藤くん、どこへ……っ!」
「声を出さないで。」
俺は彼女の手を強く握りしめたまま、旧学舎のさらに奥、誰も使わなくなった古い機材室へと駆け込んだ。
そこは埃にまみれ、いくつもの古い跳び箱やマットが乱雑に積まれた狭い空間だった。
俺たちは重なり合うようにして分厚いマットの陰に隠れ、呼吸の音すらも完全に遮断するように身を潜めた。
直後、機材室のすぐ外の廊下を、風紀委員の重い足音が通り過ぎていく。
『ここには誰もいません!』
『次を探せ! 絶対に逃がすな!』
足音が遠ざかり、再び旧学舎に静寂が戻ってくるまで、俺たちはどれくらいの時間そうしていただろうか。
暗く狭いマットの陰で、俺は自分のすぐ隣から伝わってくる詩織の柔らかな体温と、甘い香り、そして早鐘のような心臓の鼓動を間近で感じていた。一度も言葉を交わしたことのなかった初恋の少女と、こうして手を握り合って息を潜めている現実が信じられなかった。
やがて完全に安全を確認した俺が、大きく息を吐き出して彼女から少しだけ距離を取ると、詩織は膝を抱え、耳まで真っ赤な顔をして深くうつむいていた。
「……見られたわね」
彼女の声は、今にも泣き出しそうなほど細く震えていた。
「完璧な生徒会長のパートナーが、あんな禁じられた本を朗読して、あまつさえ……よ、よだれまで垂らして身悶えしていたところを、全部……」
彼女は、同じクラスでありながらほとんど接点のなかった俺が、彼女の弱みを握って機関に密告するのではないかと、必死に恐怖に耐えているようだった。
俺はゆっくりと首を横に振り、ブレザーの内ポケットから先ほど拾った彼女の恋愛小説を取り出して、そっと彼女の前に差し出した。
「誰にも言いません。……というより、俺には言う資格なんてありません」
俺は、怯える彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「俺も、あなたと同じだからです」
「……え?」
詩織が、濡れた瞳をわずかに見開いて顔を上げた。
「俺も小学生のころ、河川敷で恋愛小説が載っている古い雑誌を拾って、隠れて朗読したんです。それ以来ずっと、自分の意志で誰かを好きになることを禁じるこの国のルールがおかしいと思い続けてきました。でも、思想改善教育施設へ送られるのが怖くて、十年間、ただの面倒ごとを避ける目立たない凡人を全力で演じてきたんです」
俺がこれまで誰にも明かしたことがなかった胸の奥の秘密を打ち明けると、詩織は信じられないものを見るように息を呑んだ。
「佐藤くんが……私と同じ、隠れ自由恋愛派……? いつも教室の隅で静かに過ごしていたのは、国家の監視を欺くための偽装だったというの……?」
「はい。だから、神楽坂さんの気持ちが痛いほどわかります。誰かに決められた相手と心のない生活を送るんじゃなくて、自分の心で誰かを愛したいと思うのは、決して恥ずかしいことなんかじゃありません」
俺の言葉を聞いた瞬間、詩織の瞳から、張り詰めていた恐怖の涙が一粒こぼれ落ちた。
そして次の瞬間、彼女の表情から、完璧なエリート令嬢としての硬い仮面が完全に剥がれ落ちた。
彼女の瞳に、再びあの空き教室で見せたような、激しくロマンチックな情熱の光が宿る。
「……おおっ! そう、あなたも『自由恋愛』という名の聖杯を求める、孤独な同志だったのね!」
「えっ?」
「冷徹なる氷の魔女の監視網を抜け、真実の愛を取り戻すための運命の出会い……! なんて数奇な巡り合わせなの! 私だって、国に決められた相手とただ事務的に過ごすだけの人生なんて絶対に嫌! 燃えるような、魂を焦がす大恋愛がしたいのよっ!」
彼女は俺の手を両手でガシッと強く握りしめ、目を輝かせながら身を乗り出してきた。先ほどまでの怯えはどこへやら、その距離の近さに俺の方が顔を赤くして戸惑ってしまう。
「ねえ、佐藤くん。ただ隠れて怯えているだけじゃ、いつか絶対に限界が来るわ。それならいっそ、私たち二人で、この凍てついた世の中に叛逆の炎を灯してやらない?」
「叛逆の炎って……そんなこと、どうやって」
「同志を集めるのよ。この学園には、私たちみたいに本当の感情を隠して苦しんでいる生徒がきっとまだたくさんいるはず。そういう仲間を見つけ出して、自由恋愛を勝ち取るための組織を作るの!」
彼女の瞳は、過剰なほどドラマチックな使命感と、未来への希望でキラキラと輝いていた。
「名前はそうね……この狂った世の中の闇を切り裂く反政府組織レジスタンスチーム、『自由恋愛党』なんてどうかしらっ!」
(あー……これは、思っていたよりずっと強烈で大変なことに巻き込まれてしまったかもしれないぞ)
俺は心の中で深いため息をつきながらも、自分の手を包む彼女の温かく柔らかな手の感触と、右手首に巻かれた氷室涼香との冷たい鎖の感触を交互に確かめた。
どれほど国家の冷酷なルールが俺を縛り付けようとも、俺の心の中にある本当の感情と、目の前で笑う初恋の少女の秘密だけは、絶対に誰にも奪わせない。
「……わかりました。やりましょう、神楽坂さん」
俺が覚悟を決めて力強く頷くと、彼女は花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
この薄暗く埃っぽい機材室で交わされた、たった二人の秘密の共有。
それが、のちにこの学園を揺るがす最大のレジスタンス『自由恋愛党』が誕生した瞬間であり。
俺のただ波風を立てずに生きるはずだった平凡な学園生活が、禁断の初恋と共に、完全に引き返せない場所へと足を踏み入れた第一歩であった。
第2話を最後までご覧いただき、誠にありがとうございました。
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