作戦1:面倒ごとを避けて凡人を演じきれ!
四月中旬の午後、私立双翼学園の教室の窓から見える空は、今日も重苦しい鉛色に淀んでいた。
幾何学的に整然と立ち並ぶ無機質な高層ビル群が、街を行き交う人々の生活を冷たく見下ろしている。
国家の冷酷なアルゴリズムが、すべての若者の未来を完全に決定づける時代。
この息が詰まるような管理社会において、最も重い罪とされるのは、個人の自由な感情の吐露であった。
『自由恋愛禁止法』。
それは、首都の中枢に座する『少子化対策機関』が制定した、この国の根幹を成す絶対的なルールである。
国民の遺伝子データや家柄、学力、そして身体能力などのあらゆる膨大な情報を機関の巨大な演算装置が計算し、国にとって最も都合のいい男女の組み合わせを強制的に決定する。
それが、この国の秩序を維持するための唯一にして絶対の正解とされていた。
ゆえに、生徒たちに自由な恋愛や、個人的な感情のやり取りなどは一切許されていない。
好意を寄せる相手に手紙を渡すことや、放課後に二人きりで言葉を交わすことすら、国家への重大な反逆行為とみなされる。
恋愛要素が含まれるアニメやドラマや映画、そして書籍などの娯楽作品はすべて厳重に禁止され、過去の遺物として徹底的に廃棄処分されてきた。
隠れてそれらの映像を見たり本を読んだりしただけでも、重罪人として即座に『思想改善教育施設』へと強制送還されてしまうのだ。
その施設に送られた者がどうなるのか、正確な情報を知る者は誰もいない。
ただ、数ヶ月後に戻ってきた彼らは皆、かつての快活な笑顔や個性を完全に奪われ、ただ黙々と国家の命令に従うだけの空虚な人形に成り果てているという恐ろしい噂だけが、生徒たちの間でまことしやかに囁かれていた。
個人の意志なんて、巨大な国家という機械の前では、ゴミと同然の扱いを受けていたのである。
俺、佐藤宗次郎が、この国のルールの異常性に気づいたのは、まだ小学生のころだった。
あの日も、街全体を覆うような分厚い雲が空を隠し、肌を刺すような冷たい風が吹いていた。
学園の初等部からの帰り道、監視カメラの少ない旧河川敷の土手を一人で歩いていた俺は、ふと足元の草むらに目を落とした。
そこには、泥にまみれ、表紙が破れかけた一冊の古い雑誌が、半分土に埋もれるようにして捨てられていた。
表紙の文字は雨風ですり減って読めなかったが、それは授業で支給される無味乾燥な教科書や、国家の理念を説く道徳の本とは明らかに違う、異質な気配を放っていた。
俺は、周囲に監視の目がないことを何度も確認してから、震える手でその雑誌を拾い上げ、学生鞄の底に隠した。
それが、今では所持しているだけで思想改善教育施設へ送還される、色褪せた恋愛小説の雑誌だとは知る由もなかった。
その日の夜、自室のベッドの中で布団を頭から被り、小さな懐中電灯の明かりだけを頼りに、俺はその禁じられたページをめくった。
紙は湿気を吸ってカビ臭く、ところどころの文字は滲んで読めなくなっていた。
だが、そこに記されていた物語は、幼かった俺の価値観を根本から覆すほどの衝撃を持っていた。
それは、とある少年と少女が、周囲の反対や困難を乗り越えて、ただ互いの存在だけを求め合うという、この時代においてはあり得ないおとぎ話だった。
国家が決めた相手ではなく、自分の心が選んだ相手の手を取る。
誰かに強制されるのではなく、自分の意志で誰かを好きになる。
俺は夢中になり、かすれた小さな声でその物語を『朗読』した。
声に出して言葉をつむぐたびに、登場人物たちの喜びや悲しみ、そして胸を焦がすような切なさが、俺の心の中に熱い波のように流れ込んできた。
『たとえ世界中を敵に回しても、俺は君の手を絶対に離さない』
その一文を口にした瞬間、俺の目から熱い涙がポロポロとこぼれ落ち、カビ臭い紙のページを濡らした。
生まれて初めて触れる『恋愛』というものの本当の美しさに、俺は布団の中で声を抑えて泣き続けたのだ。
同時に、俺たちの生きる世の中がいかに異常で、人間としていかに大切なものを奪われているのかを、その時初めて理解してしまった。
他者を愛するという最も尊い感情を禁じられ、ただ国を効率よく回すためのパーツとして最適化されるだけの人生。
その残酷な真実を知ってしまったからこそ、国がすべてを管理する自由恋愛禁止法に対して、俺はどうしても納得できない強い不満を抱くようになった。
俺の心の中には、明確な反逆の炎が灯っていた。
だが、小学生だった俺でさえ、その本音を少しでも表に出せばどうなるかくらいは理解できた。待っているのは、不適合者としての思想改善教育施設への強制送還と、社会からの完全な抹消だ。
たった一人の子供が巨大な国家に牙を剥いたところで、誰にも知られることなく闇に葬られるだけである。
(理不尽なルールに逆らって社会から消されるくらいなら、誰の記憶にも残らない目立たない存在になりきるのが一番の生存戦略だ)
だから俺は、その不満と恋への憧れを心の奥底へと厳重に封じ込め、誰よりも目立たない異常なまでの『普通』を演じ切ることに決めたのだ。
「――佐藤。佐藤宗次郎、前に出てこい」
教壇に立つ数学教師の無機質な声に呼ばれ、俺は過去の追憶から意識を現実へと引き戻した。
「はい」
俺は立ち上がり、速すぎず遅すぎない、極めて標準的な歩調で教壇へと歩み寄った。
「先週の学力テストの結果だ。五百点満点中、二百五十二点。学年平均が二百五十一点だから、今回もまたきっちり平均点のど真ん中だな」
白髪交じりの数学教師は、銀縁の眼鏡を押し上げながら、感情のこもらない目で俺の答案用紙を見つめた。
「お前は入学してから一年間、すべての教科で一度たりとも平均点から五点以上離れたことがない。ここまで数値が一定だと、逆に意図的なものを感じるぞ」
教室の一部の生徒たちが、ちらりとこちらに視線を向ける。
俺は背筋に冷たい汗が伝うのを感じながらも、十年間練習し続けてきた『どこにでもいる気弱で無害な凡人』の愛想笑いを完璧に浮かべてみせた。
「あはは……すみません、先生。自分でもなんとか順位を上げようと頑張ってはいるんですが、どうも昔から要領が悪くて、これ以上はなかなか頭に入ってこないんです」
俺が申し訳なさそうに頭を掻いてみせると、数学教師は興味を失ったように小さく鼻を鳴らした。
「まあいい。不適合者として基準値を下回らない限り、機関からのお咎めはない。席に戻れ」
「ありがとうございます」
俺は答案用紙を両手で受け取り、小さく一礼して自分の席へと戻った。
(あー……危なかった。少し点数を揃えすぎたか。次の小テストでは、わざとケアレスミスを二つ増やして、平均より三点下に調整しておこう)
俺は心の中で深いため息をつきながら、机の上に答案用紙を伏せた。
学力テストの点数を常に平均点のど真ん中に維持する。これは、ただ勉強をしないというだけでは到底不可能だ。
学年全体の学力レベルを日頃から正確に把握し、試験問題の難易度から平均点を予測し、正解できる問題であっても意図的に間違えるという、極めて高度な計算と自己制御の賜物である。
「よお、佐藤。お前、また平均点だったのかよ」
隣の席の男子生徒が、苦笑いを浮かべながら小声で話しかけてきた。
「俺なんて今回、数学が基準値ギリギリでさ、放課後に補習確定だぜ。お前みたいに、いつも可もなく不可もなく無難にやり過ごせるやつが羨ましいよ」
「いやあ、俺も毎回ギリギリだよ。たまたま運が良かっただけだって」
俺は相手の気分を害さないよう、かつ話がこれ以上広がらないよう、絶妙なトーンで相槌を打った。
「そうか? まあ、目立って機関の特別育成枠に入れられるのも地獄だし、お前くらいが一番平和かもな」
男子生徒はそう言って、すぐに前の席の友人との会話に戻っていった。
(よし、今日も完璧だ。誰の印象にも残らない、無害なクラスメイトとしての立ち回りができている)
俺の成績表や身体データを見れば、誰もが異常なほどの『普通』に気づくはずだ。
五十メートル走のタイムも、学年の丁度真ん中の順位。走る前には常に周囲の生徒のタイムを計測し、自分のペースを完璧にコントロールして、速すぎず遅すぎない絶妙なタイムを叩き出している。
目立つ特技もない。他人を蹴落として上に登り詰めようという野心もない。
ただ波風を立てず、誰の記憶にも残らないような平穏な学園生活を送ることだけを人生の最大の目標にしている、とにかく面倒ごとを避ける凡人。
それが、俺が小学生のころから身を削るような努力をして作り上げてきた、完璧なカモフラージュだ。
教室の隅の席で頬杖をつきながら、俺は誰にも気づかれないよう、視線だけをわずかに動かした。
俺の視線の先、窓際の席には、一人の美しい少女が静かに座っていた。
神楽坂詩織。
生徒会長である深瀬十治の指定パートナーであり、この学園の誰もが憧れる高嶺の花だ。
黒く艶やかな長い髪と、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳。周囲の女子生徒たちから話しかけられ、上品で穏やかな微笑みを返している彼女の姿は、この灰色の教室の中でそこだけ鮮やかな光を放っているように見えた。
俺が彼女に心を奪われたのは、ちょうど一年前の入学式の時だった。
新入生代表として壇上に立ち、凛とした美しい声で挨拶を読み上げた彼女の儚げな横顔を見た瞬間、俺の胸の奥で何かが激しく弾けたのだ。
小学生のころ、河川敷で拾ったあの禁じられた恋愛小説。そこに描かれていた『自分の意志で誰かを好きになる』という尊い感情を、俺は無意識のうちに彼女へと重ね合わせていた。
二年生に進級して偶然同じクラスになった今でも、俺は彼女と一度も言葉を交わしたことはない。
国が定めた絶対的なルールの前では、指定パートナー以外の相手に恋心を抱くことなど、決して許されない重罪だ。だからこそ俺は、いつも風景の一部に同化しながら、彼女の姿を遠くからこっそりと目で追うことしかできなかった。
(俺のような凡人が、彼女のような完璧な令嬢と関わることなんて一生あるはずがない。この初恋は、誰にも知られることなく俺の胸の奥にしまっておくんだ)
そう自分に言い聞かせ、俺は静かに視線を落とした。
放課後になり、下校を促す無機質なチャイムが学園中に鳴り響いた。
俺は誰とも群れることなく、一人で学生鞄を提げて一階の廊下を歩いていた。
その時、前方の昇降口付近から、張り詰めたような冷たい空気と怒声が伝わってきた。
「規則違反です。そのポケットの中身を直ちに提出しなさい」
氷のように冷徹で、一切の感情を含まない美しい声。
廊下を歩いていた生徒たちが、蜘蛛の子を散らすように慌てて壁際へと寄り、道を開ける。
そこに立っていたのは、腰まで真っ直ぐに伸びた艶やかな銀髪と、ガラス玉のように冷たい青色の瞳を持つ少女――風紀統制委員長の氷室涼香だった。
左腕には風紀の腕章を巻き、細い腰には常に高出力スタンバトンを下げている。ルールを破る者には容赦のない制裁を加えることから、全学園生徒に『冷血の執行者』と恐れられている、国家のルールの象徴のような存在だ。
「ち、違うんです氷室さん! これはただのメモ帳で……!」
「言い訳は無用です。国家公安委員会の許可印がない紙類の持ち込みは、風紀規定第3条に抵触します。特別指導室へ連行します」
青ざめて震える男子生徒を、氷室さんの指示を受けた風紀委員たちが容赦なく取り押さえていく。
俺は呼吸を潜め、周囲の生徒たちの背後に隠れるようにして、壁と同化しながらその横を通り過ぎようとした。
実は一年前の入学式の際、俺はほんの偶然から、頭上に落下してきた重い金属パーツから彼女を庇ってしまったことがある。式典が中断されて帰宅時間が遅れるという面倒ごとを避けるための咄嗟の行動だったが、あの一瞬、彼女と至近距離で目が合ってしまったのだ。
幸い、その後に彼女から呼び出されるようなことはなかったが、俺にとって彼女は、この学園で最も近づいてはならない最大の恐怖の対象だった。
俺が気配を完全に消して通り過ぎようとした、その瞬間。
氷室さんの銀縁眼鏡の奥にある青い瞳が、ギロリと動いて俺の方を向いた気がした。
(ひっ……!)
心臓が跳ね上がり、全身の毛穴から冷や汗が噴き出す。
俺は視線を一切合わさず、ただの無害な通行人を装って、一定の歩幅のまま昇降口へと歩き去った。背中に突き刺さるような冷たい視線を感じた気がしたが、振り返る勇気など一ミリもなかった。
(あんな歩く監視カメラみたいな恐ろしい人間とだけは、一生関わらないように生きよう……!)
なぜ、俺がここまで『平均』に執着し、自らを偽り続けるのか。
それは、この息の詰まる管理社会において、少しでも目立つことは破滅を意味するからだ。
優れた成績を残せば機関の目に留まり、氷室さんのような過酷なエリート教育の対象として自由を完全に奪われ、国の手先として一生を終えることになる。
逆に、著しく劣った成績や反抗的な態度をとれば、社会の不適合者として思想改善教育施設へと送還される。
だからこそ俺は、すべてのテストにおいて完璧に平均点を取るための努力を全力で重ね、誰の視界にも入らないようにひっそりと息を潜めて生きてきた。
すべては、満十六歳で訪れる『指定パートナー制度』を無難にやり過ごすためだ。
俺の計算通りなら、完全に平均的なデータを持つ俺には、同じように大人しくて目立たず、体制に順応したごく普通の女子が指定されるはずだ。
無難な相手とマッチングされ、無難な家庭を築き、誰にも干渉されない静かな老後を迎える。
そして心の中でだけ、あの河川敷で見つけた古い雑誌のような自由な愛と、神楽坂さんへの淡い初恋を思い出として抱きながら生きていく。
国家の監視網を欺き通し、自分の心の中にある本当の感情だけは絶対に誰にも奪わせない。
それが、俺の思い描く完璧な未来の計画だった。
今日までの十年間、俺の計画は完璧に機能していた。
誰一人として、俺が心の奥底で国家のルールに反逆していることなど疑いもしなかったし、俺自身もこのまま平穏なまま一生を終えられると確信していた。
だが、平凡で平和な学生生活や退屈で穏やかな日常など、俺の人生には最初から一秒たりとも用意されていなかったらしい。
計画の集大成となるはずだった、満十六歳の誕生日を迎えたその日の夜。
自宅へと帰り着いた俺の自室の机の上には、重苦しい機関の赤い封印がされた、一通の分厚い封筒が置かれていた。
その中に入っている一枚の書類と、同色のペア・ブレスレットが。
俺が幼い頃から積み上げてきた過去のすべての努力と、完璧なカモフラージュを、影も形も残らないほど木端微塵に粉砕することになるとは。
この時の俺はまだ、知る由もなかったのである。
第1話を最後までご覧いただき、誠にありがとうございました。
小説家になろうでは、皆様のブックマークや評価が作品を続けるための大きな力になります。
もしよろしければ、画面下部より【ブックマーク登録】と【★評価】で応援をよろしくお願いいたします。




