第75話 代償②
酷い耳鳴りがする。加えて、ロアは三半規管が狂っている様に思い、地面に触れて天地の確認をしようとする。だが、地面がなく、手が空を切る。
──どういう状態なんだ。
「血が止まった。不思議な身体」優しく澄んだ声。
重いまぶたをあげ、視界を広げる。そして見上げると、そこには静かな女性の顔があった。
叡智のソフィア。第5支部、支部長。19歳の若さで戦略級に到達した探検家。
今はその女性に動かない身体を抱きかかえられている。
「動かないでいいよ。喋らなくてもいい。でも聞いて、そして考えて。君に求めるのはそれだけ。大丈夫。君は私が守るから」
海岸でスピーチをしたときの数倍の速さで喋るソフィアに驚くロア。彼女はその高速度の思考に口が追い付いていないとよく言われていた。実際にゆっくりと喋る彼女のこともロアはあの海岸で見ていた。
「考えていることはわかるよ。普段は口に《神速》を使っていないだけ。理由は単純に神経を使うから。でも今は緊急事態だから使う。問題は今がどれだけ不味い状況かということ。君が連れ去られる可能性、その先が深層である可能性、君が暴走して極地が崩壊する可能性、君が無意識状態で落下してくる可能性、そしてどこに落ちるか、どう力を加えれば速度を減衰できるか、その全ての計算が終わった時、ちょうど君が落ちてきた──」
矢継ぎ早にまくしたてたソフィアの言葉は常軌を逸していた。叡智のソフィアはあの瞬間から、この一瞬までの全ての可能性を、計算しきっていたのだ。
彼女が普段行動や言動に神経を使わないのは、こうした有事に余力を残しておくためでもあった。彼女の目の下の深いくまが、どこか疲労の色を見せていた。
「初めから作戦に参加したかった。でも計算をしなきゃいけなかったんだ、ごめん」
「受け止めてくれて……ありがとう」
小さく呟くとソフィアはそっと微笑んで返す。
「ラウラから君に関しての大まかな情報は共有されているよ。万が一に狙われる場合があるってことも。今回はその万が一が起きた。君は今一切の力が出ない。恐らく感情に任せて撃ち切ったんでしょう」
ロアはこくっと頷く。
「しょうがない。ファントムは半端な心で勝てるものじゃない。それに、君が正義のために拳を振るってくれたことには、小さく感謝しているんだ」
「なぜそれを」
「計算結果が出たとき、なんとなく、そんな気がした」
「……僕は正義なんかじゃない、ただ私的な復讐をしたんだ」
ソフィアはその答えに、静かな顔で微笑んだ。
「正義かそうでないかを決めるのは、もたらされた結果だよ」
「……──」
ソフィアはふと遠くを見るようにして、またロアの顔を覗いた。
「計算が正しければ、いまロックウェル隊が瀕死のソワカを抱えながら浅層でテッコツと戦っている。しかもあのテッコツはファントムが作り出した物だね。スノウホワイトはテッコツを食い破りながら単独で深層、ミッドナイト小隊のもとに向かった。ミッドナイト小隊は深層上域でファントムと応戦中──」
──ソワカ……、みんな……。
ソフィアが端的に伝えると、ロアは問う。
「《叡智》、……僕らはいま、極地のどこに居るんだ」
その質問に、ソフィアは少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「もうここは極地じゃないよ」
その言葉でロアの感覚が少しずつ戻り始める。波の音、潮の香り、海辺の味。
ロアは今、極地から北に離れた、サンフランシスコ側の海岸で、ソフィアに抱えられていた。岩に腰掛けているソフィアは、また遠くを見た。その先にあるのは霧に包まれたゴールデンゲートブリッジ。
ロアはもがく。
「戻らなきゃ……、みんなが──」
「行かせられない。君が行けば、皆がより危険に晒される。残酷なことを言うよ。未熟な君には、いまここで、待ち、ただ祈る事しか許されてはいないんだ」
動こうとするロアをつなぎとめるソフィアの力には思いが籠っていた。ロアは動かない身体を無理やり動かし、それでも動けず、己の無力さに黙した。涙が込み上げたが、内頬を噛んで止めた。今は自らを憐れむべきじゃない。
探検家は、まだ進み続けているのだ。
「私もラウラも出し抜かれた。そのつけを払わせてしまった。ごめんね、ロア」
無力なロアの額に、ソフィアの額があてられる。ロアはその鳥籠の中で、ただ皆の無事を祈る事しかできなかった。
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