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23/30

王宮監察官は、誤差が見えない

第23話です。

リーベル村へ王宮監察官セリオ・ヴァルクが来ます。ルカにしか見えない赤線を、誰にでも確認できる記録へ変えられるかが問われます。

 王宮監察官セリオ・ヴァルクがリーベル村に来たのは、掲示板を立てた二日後の朝だった。


 中央井戸の音は、まだ少し重い。


 ぽちゃん。


 水音は戻っている。

 けれど、西方不明流路に残る赤線は完全には消えていない。

 王都式浄水石を遠ざけても、旧鍛冶場の炉底石と中央井戸の底に見える線は、同じ方向を指したままだった。


 俺は水番小屋の前で、前夜の記録を読み返していた。


『中央井戸。大量取水禁止。初回水廃棄。二度目以降、少量飲用可』

『南畑白露草試験区。商品出荷なし。見本展示のみ』

『北森結界柱。応急修正。完全修復ではない』

『旧鍛冶場。廃鉄打ち直しのみ。過負荷運転禁止』

『王都式浄水石検体。井戸から隔離。赤札管理』

『入口境界石。三滴印の下に、さらに古い三滴印あり』


 何度見ても、王立錬金術院の報告書とは違う。

 整ってはいない。

 書式も統一されていない。

 ミラの木札には、難しい言葉の横に簡単な言い換えがついている。


『かってにもっていかない』

『井戸の水は、まだぜんぶ飲めない』

『三滴印のないものは、リーベルの品じゃない』


 王都の人間が見れば、子どもの落書きだと笑うかもしれない。

 だが、少なくともここにいる者には意味が通じる。

 それが大事だった。


「お兄さん、監察官ってこわい人?」


 ミラが水番小屋の戸口から顔を出した。

 手には三滴印の箱ではなく、札を書くための小さな木板を持っている。


「会ったことはない」


「じゃあ、わからない?」


「わからない」


「じゃあ、こわいかもしれない?」


「そうかもしれない。でも、記録を読む人なら話はできる」


 ミラは少しだけ考えた。


「読まない人だったら?」


「その時は、読ませる」


「どうやって?」


「読まないと危ない場所に案内する」


 ミラは目を丸くした。


「それ、こわい人は怒るんじゃない?」


「怒っても、井戸は変わらない」


「それはそう」


 ミラは納得したらしく、木板に何かを書き始めた。

 ちらりと見ると、『おこっても井戸はなおらない』と書いていた。


「それは掲示しなくていい」


「なんで?」


「監察官が読む」


「読ませるって言ったのに」


 反論できなかった。


 その時、村の入口で馬車の音がした。


 ドランの荷馬車よりも軽い。

 だが、車輪の音は揃っている。

 騎士団の巡回馬車とも違う。整備された公用馬車の音だ。


 エルシアが村の入口へ向かって歩き出す。

 腰には短剣。本来の長剣はまだ修理待ちだ。

 俺も記録帳を上着の内側にしまい、彼女の後に続いた。


 入口の掲示板の前で、黒い外套の男が馬車から降りた。


 年は三十代半ばほどだろう。

 背は高いが、貴族のような飾りは少ない。

 灰色の髪を後ろで束ね、胸元には王宮監察局の小さな銀章がある。

 腰に剣はあるが、手は柄にかかっていない。


 男は最初に俺たちを見なかった。

 掲示板を見た。


『リーベルを守った記録は、みんなで見られます』

『ただし、原本の持ち出しを禁ずる』

『かってにもっていかない』


 男はしばらく黙って読んだ。

 次に、掲示板の横へ掛けた境界石の拓本を見る。

 その視線は早くもなく、遅くもない。

 文字を拾っているのではなく、記録の順番を見ている目だった。


「王宮監察局、監察官セリオ・ヴァルク」


 男はようやくこちらへ向いた。


「旧リーベル村の現地監査を行う。北東詰所の報告、商人ギルド経由の写し、ヴェルナー伯爵家北東代官所からの照会、王立錬金術院の第一錬金炉異常報告。四つが同時に届いた。無視するには、線が多すぎる」


 線。


 その言葉に、俺は少しだけ反応した。

 セリオはそれを見逃さなかったらしい。


「君がルカ・オルメインか」


「はい」


「元王立錬金術院品質管理官。現在は旧リーベル村の暫定水源管理者。王立錬金術院からは、懲戒処分により辺境開拓補助任務へ回された者として記録されている」


「その通りです」


「王立錬金術院の報告では、大型浄化炉暴走事故の担当検査員」


 エルシアの表情がわずかに険しくなった。

 俺は先に答えた。


「担当検査員でした。ただし、稼働前に警告報告書を出しました」


「その報告書は、院長確認印がないと聞いている」


「原本の確認印は消されました。控えはあります」


「ここにあるか」


「あります」


「後で確認する」


 セリオはすぐには踏み込まなかった。

 次にエルシアを見た。


「エルシア・グランツ殿。北東詰所への保全報告を出したのはあなたか」


「はい。辺境警備隊所属、エルシア・グランツです」


「現地保全の必要あり、と書かれていた。判断を求めるのではなく、保全の継続を報告した理由は」


「返答を待つ間に、村の境界や原本が動かされる可能性があると判断しました」


「妥当だ」


 その一言で、ガンズが小さく息を吐いた。

 たぶん、偉そうな人間が難癖をつけると予想していたのだろう。


 だが、セリオの顔に好意はない。

 認めたというより、事実の処理として妥当だと判断しただけだった。


「まず確認する」


 セリオは掲示板を指さした。


「この記録は、誰が作った」


「原本は俺です。証言はガイさん、南畑はネリア、北森結界柱はエルシアさん、規格部品はガンズさん、商人記録はドランさんが立ち会っています。ミラは村用の木札を書いています」


「子どもの札も正式記録か」


 ミラが俺の後ろで身を固くした。


「正式記録ではありません」


 俺は答えた。


「ただし、村内の注意表示として必要です。難しい記録だけでは、村人や来訪者に伝わりません」


 セリオはミラの木札をもう一度見た。


『井戸の水は、まだぜんぶ飲めない』


「内容は正しいか」


「正しいです」


「なら残してよい」


 ミラが小さく息を吐いた。


 セリオは入口の境界石へ移動した。

 俺たちは後に続く。


 境界石は、昨日と同じ場所にある。

 動かしていない。

 表面だけを掘り出し、周囲には紐を張ってある。


「この石に、伯爵家の紋がある」


 セリオが言った。


「はい」


「そして、その下に三滴印らしき痕跡がある」


「拓本では確認できます」


「君には、赤線が見えるのだったな」


「はい」


「私は見えない」


 セリオははっきりと言った。


「赤線も、青線も、白線も見えない。君が何を見ているか、私は確認できない。よって、君の能力そのものは公的証拠にはならない」


 その言葉に、周囲が静かになった。


 ガンズが眉を寄せた。

 ネリアは不安そうに俺を見る。

 ミラは木札を胸に抱えたまま、唇を結んでいた。


 だが、俺は驚かなかった。


「その通りです」


 俺がそう言うと、セリオの目が少しだけ細くなった。


「反論しないのか」


「俺だけが見えるものを、そのまま証拠にはできません。王都でそれを言い続けて、失敗しました」


「では、何を証拠にする」


「見えたものを、誰でも確認できる状態へ変えます。拓本、水音、滴下間隔、部品寸法、露の反応、封印痕、証言、立会人。その全部です」


 セリオは黙って俺を見た。


「案内しろ。最初は中央井戸だ」


「はい」


 中央井戸へ向かう途中、ミラが隣を歩いてきた。


「お兄さん、怒ってない?」


「怒ってない」


「赤線が見えないって言われたのに?」


「あの人は正しいことを言った。ミラには、俺の赤線は見えないだろ」


「見えない」


「でも、井戸の水音は聞こえる」


「聞こえる」


「じゃあ、それを書けばいい」


 ミラは少し考え、持っていた木板に書いた。


『赤線は見えない。でも、水音はきこえる』


「それはいい札だ」


「ほんと?」


「本当だ」


 中央井戸の前で、セリオはまず距離を取って立った。


「触ってよいか」


「縁の外側だけなら。ただし、内壁には触らないでください。まだ制御陣が不安定です」


「理由は」


「内壁の白色結晶を応急除去しただけで、中央制御環の下層は詰まりが残っています。無理に力をかけると、石組みではなく魔力流路側が崩れます」


「魔力流路側が崩れる、という表現は私には確認できない」


「では、物理的な説明に変えます。古い刻印が残っている内壁の下層に、まだ剥がしていない白色結晶があります。そこを傷つけると、水量が一時的に増えても濁りが増えます」


「確認方法は」


「水量板と滴下間隔です」


 俺は水番小屋から、リーベル二番水量板を持ってきた。

 薄い木板に、小さな穴と三つの刻みが入っている。

 仮水路の取水順を決めるために作ったものだ。


 セリオはそれを受け取り、指で穴の縁をなぞった。


「粗い作りだ」


 ガンズがむっとした顔をした。


「試作品だ。王宮の飾りじゃねえ」


「粗いと言っただけで、無価値とは言っていない」


 セリオは水量板を光に透かした。


「穴の大きさが揃っている。こちらの三つは段階違いか」


「はい。生活用水、南畑試験区、東水路補修用です。全開にはしません」


「やって見せろ」


 俺は井戸の側面に仮設した受け口へ、水量板を差し込んだ。

 今は生活用水の一番小さい穴だけを使う。

 下に小瓶を置き、ミラが砂時計をひっくり返した。


「一回目、生活用水穴」


 ミラが読み上げる。


 水は細く落ちた。

 ぽた、ぽた、と小瓶に溜まっていく。


 セリオは記録官に数を取らせた。

 俺は何も言わない。


「砂時計一回で、小瓶の三分の一」


 記録官が言った。


「次」


 俺は南畑用の穴へずらした。


 水音が少し変わる。

 中央井戸の底で、赤線がわずかに濃くなった。

 だが、黄線までは触れていない。


 小瓶の水量は、生活用水穴より多くなった。

 同時に、濁りがわずかに出る。


 セリオは小瓶を持ち上げ、光にかざした。


「濁った」


「はい。南畑用は短時間だけです。長く開けると、中央井戸に負担がかかります」


「君には、それが赤線として見える」


「はい」


「だが、私には濁りとして見える」


「それで十分です」


 セリオは三つ目の穴を見た。


「東水路補修用は」


「今は使いません」


「なぜ」


「危険だからです」


「危険という判断を、私には確認できない」


「では、確認できる方法で説明します」


 俺は第三の穴へは水を通さず、水量板の横に赤い札を置いた。


『東水路補修用。中央井戸復旧後まで使用禁止』


「この穴を使うと、水量は増えます。ですが、前回の試験では南畑側の露が乱れました。記録があります。ネリアさんの記録板と、ドランさんの商人写しにも同じ日付が残っています」


 ネリアが記録板を差し出した。

 ドランも商人用の写しを出す。


 セリオは両方を照合した。


「同じ日付、同じ時刻、別の筆跡」


「はい」


「君の目に頼らず、影響が出た結果を残している」


「そうです」


 セリオは水量板を返した。


「次は南畑だ」


 南畑の白露草試験区は、昨日より葉が増えていた。

 ただし、ネリアは採取を増やしていない。

 見本展示の一列と、試験区第二列だけ。

 出荷なし。

 その木札は、畑の入口に立っている。


 セリオはまず札を読んだ。


『白露草はまだ売り物ではありません』

『葉を勝手に取らない』

『粉にしたものは、リーベル産ではありません』


「なぜ出荷しない」


 セリオが尋ねる。


 ネリアは一瞬だけ緊張したが、すぐに答えた。


「品質が安定していないからです。葉は育っていますが、露の量と反応が日によって違います。今出すと、次に同じ品質を保証できません」


「薬草師か」


「見習いです。ですが、この試験区は私が管理しています」


「記録は」


 ネリアは記録板を差し出した。

 毎朝の葉数、水量、露の色、土の湿り具合が書かれている。


 セリオはそれを読み、俺を見た。


「彼女は赤線が見えるのか」


「見えません」


「では、なぜ任せた」


「毎日見ているからです。俺が見える赤線より、ネリアさんが見ている葉の変化のほうが細かい時があります」


 ネリアが驚いたように俺を見た。


 言ったことに嘘はない。

 俺はズレを見つける。

 だが、薬草の育ち方を毎日見て、昨日と今日の葉先の違いを覚えているのはネリアだ。


 セリオは少しだけ目を伏せた。


「能力ではなく、管理者を置いている」


「はい」


「なら、その管理者の記録も証拠になる」


 ネリアの肩から、わずかに力が抜けた。


 次は旧鍛冶場だった。


 ガンズはセリオが炉に入る前から不機嫌そうだった。

 王宮監察官に炉を見られるのが気に入らないのではなく、たぶん「粗い」と言われたのをまだ覚えている。


「この炉は、どこまで使える」


 セリオが尋ねる。


「廃鉄の打ち直しまでだ」


 ガンズが答えた。


「新しく鉄を作る炉じゃねえ。古い釘や枠を打ち直す。火を強くしすぎれば、炉底石が割れる」


「炉底石に赤線があると記録にある」


「俺には見えねえ」


「では、なぜ過負荷を避ける」


「ルカが言ったから、だけじゃねえ。前に火を強くした時、炉の音が変わった。底から鳴った。俺の炉じゃねえ音だった」


 セリオは炉底石を見た。


「鍛冶屋の証言か」


「そうだ」


「記録は」


 ガンズは面倒くさそうに、壁に掛けた木板を指した。


『火を強くしすぎない』

『三番釘は見本。外へ売らない』

『炉底が鳴ったら止める』


 セリオはその木札を読んだ。


「また簡単な言葉だ」


「難しく書いたって、火は止まらねえ」


 ガンズの答えに、セリオは小さくうなずいた。


「それも事実だ」


 最後に、中央井戸へ戻った。


 セリオは一通りの記録を見た後、井戸の縁から少し離れて立った。

 俺たち全員が、その周囲にいる。


「ルカ・オルメイン」


「はい」


「私は、君の【修正眼】を公的証拠とは認めない」


「はい」


「だが、君が見えたものを、記録、検査票、札、立会人、再現手順へ変えていることは認める」


 周囲が静かになった。


「これは能力ではなく、制度にできる技術だ」


 その言葉は、ゆっくりと胸の中へ沈んだ。


 制度。


 王都では、俺の仕事は雑用だった。

 計測係。検査係。誤差しか見えない無能。

 だが、セリオはそれを制度にできる技術だと言った。


 褒められたのかどうかはわからない。

 セリオの声に温度はなかった。

 ただ、判断としてそう言っただけだ。


 それでも十分だった。


「ただし」


 セリオは続けた。


「今のリーベル村は危うい。記録はあるが、人が少ない。管理者がルカ一人に偏っている。ミラの札は有効だが、子どもに責任を負わせるものではない。ガイ老人の証言は重要だが、体調に左右される。ネリアの試験区も、ガンズの炉も、まだ応急段階だ」


「わかっています」


「なら、改善案を出せ」


「改善案、ですか」


「王宮監察官として、私は所有権を今ここで決める立場ではない。だが、現地保全の必要性は判断できる。保全を継続するには、誰が何を管理し、どの記録をどこへ残し、どの手順なら君がいなくても確認できるかを示す必要がある」


 俺は記録帳を開いた。


「三日ください」


「理由は」


「中央井戸、南畑、旧鍛冶場、北森結界柱の検査手順を分けます。俺が見た赤線をそのまま書くのではなく、誰でも確認できる変化へ置き換える。水音、濁り、滴下間隔、露の反応、炉音、部品寸法。項目ごとに作ります」


「三日でできるか」


「完全ではありません。ただ、第一版なら」


「第一版でよい」


 セリオは記録官へ指示した。


「旧リーベル村について、現地監査継続。原本の持ち出し禁止。伯爵家による設備移動、境界石移動、三滴印本体の提出要求を一時停止。理由は、管理実績記録の検証中」


 記録官が羽ペンを走らせる。


 ガンズが小声で言った。


「それ、伯爵家は怒るな」


 ドランが隣で答える。


「怒るだけなら勝ちです」


 その言葉は、以前にも聞いた。


 セリオは二人の会話を聞いていたが、特に咎めなかった。


「怒る権利はある。動かす権利は、監査終了までない」


 明確だった。


 エルシアが姿勢を正す。


「北東詰所として、その保全指示に従います」


「従うだけでは足りない。監査中、外部からの接触を記録しろ。伯爵家、商人、錬金術院、すべてだ」


「承知しました」


 ミラが俺の袖を引いた。


「お兄さん」


「どうした」


「今の、簡単に言うと?」


 少し考えた。


「勝手に持っていかれないようになった」


 ミラの顔が明るくなった。


「じゃあ、札に書ける」


「待て。正式な言い方も必要だ」


「両方書く」


 ミラはすでに木板を取り出していた。


『監査中。かってに持っていかない』


 下に、俺が書き足す。


『王宮監察局による現地保全指示あり』


 セリオはその木札を見た。


「その札は、入口に掲示してよい」


 ミラは胸を張った。


「札係だから」


「責任者は誰だ」


 セリオが尋ねる。


 ミラは一瞬だけ迷って、俺を指した。


「お兄さん」


「違う」


 セリオが即座に言った。


 ミラが固まる。


「この札については、君が書いた。だから、君が内容を説明できる必要がある。責任を負う大人はルカ・オルメインだが、札係としての説明者は君だ」


 ミラはぱちぱちと瞬きをした。


「わたしが?」


「読めない者に説明できるか」


 ミラは札を見た。


「監査中。かってに持っていかない。王宮監察局っていうところが、今はこの村を動かしちゃだめって言った」


「十分だ」


 セリオはそう言った。


 ミラは一瞬ぽかんとして、それから小さく笑った。


 その日の午後、セリオは水番小屋に臨時の監査席を作った。

 王宮監察官が使うにはあまりにも粗末な机だったが、本人は気にしなかった。

 机の上には、王立錬金術院の第一錬金炉異常報告、伯爵家の照会文、リーベル村の管理実績記録、境界石の拓本、白露草の記録板写しが並んだ。


 同じ机の端に、ミラの木札も置かれている。


『赤線は見えない。でも、水音はきこえる』


 セリオはその札を見て、少しだけ筆を止めた。


「ルカ・オルメイン」


「はい」


「この札は残せ」


「理由は」


「監査の要点だからだ」


 俺は札を見た。


 赤線は見えない。

 でも、水音は聞こえる。


 確かに、その通りだった。


 俺にしか見えないものを、俺だけの中で終わらせてはいけない。

 見えない者にも伝わる形に変えなければならない。


 それが、リーベルの記録になる。


 夕方、セリオは翌朝の予定を告げた。


「明朝、中央井戸の水を王宮監察局の封印つきで採取する。比較対象として、南畑の露、北森結界柱の根元土、旧鍛冶場の炉灰も採る。採取時には、ルカ、エルシア、ガイ、ミラ、ネリア、ガンズが立ち会え」


「ドランさんは?」


 ミラが尋ねる。


「商人立会人として加えてよい。だが、採取物の保管には触れさせない」


「なんで?」


「疑われないようにするためだ」


 ミラはまた木札に何かを書こうとして、俺が止めた。


「今のは書かなくていい」


「また?」


「まただ」


 セリオはそのやり取りを見て、初めて少しだけ目元を緩めた。

 笑った、とまでは言えない。

 だが、少なくとも不快ではなさそうだった。


 夜になり、中央井戸の音を確認する。


 ぽちゃん。

 ぽちゃん。


 昼よりも少し軽い。

 監察官が来たから井戸が安心した、などということはない。

 たぶん、王都式浄水石を隔離している効果が続いているだけだ。


 だが、俺は井戸の縁に手を置いたまま、明日の採水のことを考えていた。


 明日、王宮の封印つきで採った水が記録に残る。

 リーベルの水音が、王都にも届く。


 それは必要なことだ。


 同時に、危険なことでもある。


 記録が外へ出れば、守る力になる。

 だが、価値を知った者が増えれば、奪おうとする者も増える。


 俺は記録帳を開き、一行を書いた。


『王宮監察官セリオ・ヴァルク、現地監査開始。修正眼の視認結果は証拠とせず、記録、再現手順、立会人により検証する方針』


 続けて、もう一行。


『明朝、王宮封印による中央井戸採水予定』


 書き終えた時、中央井戸の底で水音がした。


 ぽちゃん。


 それはいつもの音だった。


 けれど、俺にはほんの一瞬だけ、井戸の縁に細い赤線が走ったように見えた。


 誰かが触れた痕跡ではない。

 まだ、ただの警告に近い。


 俺は顔を上げ、井戸の周囲を見回した。


 夜のリーベル村は静かだった。

 掲示板の前には、新しい木札が掛かっている。


『監査中。かってに持っていかない』


 その下で、中央井戸だけが水音を立てていた。


 ぽちゃん。

 ぽちゃん。


 明日の採水まで、この井戸を守らなければならない。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

第23話では、王宮監察官セリオ・ヴァルクがリーベル村へ入り、ルカの【修正眼】そのものではなく、記録と再現手順を監査する流れになりました。

次回、第24話「汚された井戸」。王宮封印による採水を前に、中央井戸に異変が起きます。

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