作戦
沙羅が再び訪れた時、その炊事場はもぬけの空であった。冷えた空気。途中まで洗われた皿が綺麗に並べられている。人のいた気配などは既になく。そこには杖と仮面が打ち捨てられるように落ちていた――。
一つ。薄い花弁だけが落ちている。
雨の音が続く、暗い居間。ゆらゆらと蝋燭の光が淡く照らしていた。椅子に項垂れる様に少女――水華は真っ青な顔で腰をかけて肩を震わせている。その横で宥める様にして少年――譲雨が細い肩をさすっていた。蝋燭の淡い光も重なり、それだけで絵画のように美しい。ただ、現実は絵画と言うわけにもいかなかった。
夢ならばどんなに良いか。寝て――目覚めればいる人がいる。大切な人がいる幸せ程平綱物は無いだろうに。
人形の様に零れ落ちそうなお大きな双眸は、目の前に立っている青年二人を見つめていた。――まるでそう。行き場の無い怒りをぶつける様に。
「どういうことですかぁ? どうして、雪花が消えるんですか?」
茶会――正確には皇帝が不在の為中止になった――が終っても雪花は帰ってこなかった。いつも居るはずの散らかった部屋はそのままで。大切な薬さえ置いて。痛みと震えが起るというのに。だから雪花が自身で消えると言うことは在りえなかった。
ほろりと涙が落ちる。本当は本格的に泣きだしたいのを我慢しているので鼻の奥がツンと痛んだ。泣いても意味がない。それは分かっているけれど感情を抑えると言うことは水華にとっては未だ難しい事であった。特に――雪花の事に関しては。
雪花が感情に乏しいというのもある。昔から雪花の変わりという様に起こったり泣いたりしていたのだから。
――ともかくとして。その雪花が消えた。杖と、仮面を残して。ギリリと水華は奥歯を噛んでいた。
この後宮でそんな事件は在りえない事である。完全に隔離された箱庭でまず外部の物が入ってくることはない。しかも下女で周りから見れば容姿など地に落ちている――水華はそう思っていないがあくまで後宮の基準で――はずだ。意味はなかった。尤も水華が考える範囲ではあるが。
あと雪花を攫う意味があるとすれば。
水華は息を飲む。それを恐怖で固まっているのかと勘違いしたのだろうか、咲耶は柔らかく微笑んで膝を折った。
かちりと目線が合ってその手は慰めるように、強く握られた拳を解いていく。ぽつりと落ちた雫を気にすることはない。水華は濡れた双眸で咲耶を見つめた。
そんな二人を少しだけ苦々しく見ていたのは譲雨であり、それに何か言うことはない。
「『外』へ出た様子は無いよ。少なくとも、本宮。離宮。後宮。どれかには居るはずで、今探させている。任せて。僕らは優秀なんだよ――ここで分からないことは無いよ」
ニッと笑って見せる。けれど息吐くように『でも』と声を吐き出していた。真摯な双眸が水華を貫く。
「これは聞いてはいけない事なのかも知れない。姫様――雪花って本当は――どこの誰なんですか?」
「どこの――」
言葉を辿って水華はぐっと口を真一文字に結んでいた。普通の。何一つ身分の無いどこにでもいるどこにでもいる市井の人であれば言葉に詰まることも無かっただろう。元来――水華は隠すというのが苦手な性質だった。
「水華」
励ますように言葉を掛けるのは譲雨。心配そうに覗き込む視線を揺れる双眸で眺めていた。すっと視線を逸らしてから沙羅を見、真っ直ぐに咲耶に目を向けた。
「……それを言ってはいけないと――殺されるからと……でも」
でも。それを守ったところでもう意味はないのだろう。もしかしたらそれを知ったうえで雪花を拉致したのかも知れないのだから。でも。長年守ってきた約束を雪花の願いを口にするのは些か勇気が言った。
それでも助けたいとは思う。
『うん』と促される様にして水華はゆっくりと乾いた口を開く。じりりと蝋燭の炎が深い陰影を作り出していた。
「雪花は……月兎様は――」
ざぁああ。と雨が増す音。言葉を紡ぎながら願う。何も出来ない自分をただ呪いながら。子供である自分に不甲斐なさを感じながら。
――どうか。あの人を助けてくださいと。
今思えば幸せだった人生だと思う。
私は北の地『堰』で長を務める父の元に生まれた。北の地は何もない高山地帯で皆平等に貧しく、人々とが肩を寄せ合って暮らしていた。唯一産業と呼べるものがあるとすれば――北の山脈で採れる鉱物を使い剣や盾、鎧などを作る軍事産業だった。それに伴うためか国民は誰もが――老若男女問わず――剣技と武術に優れ、この国一番の力を誇っていたと言っていいだろう。
恐らく国はこの力を恐れていたのだと思う。
静かに幸せにこの地で一生を終える筈だった私の願いは見事に崩れ去った。それが十の春で。その夏に私は倫陽と会った。
今はもう消されてしまった後宮――月兎宮で。
サラサラと青い空に黒い髪が映える。私とは違う絹の様な美しい髪。女性の様な白い肌。大きな目は不思議な者を見る様に私を見つめていた。
青い――瑠璃色の双眸だった。