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獣の武術士  作者: トスキング


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第1話 聖都グラン・アーク

重く湿った空気が、肺の奥まで鉄錆の味を運んでくる。

聖都グラン・アーク、下層街『アンダー・シティ』。

巨大な多層都市の最底部に位置するこの場所は、上層から降り注ぐ排水と、絶え間なく排出される熱気、そして数多の野心が混ざり合う巨大な坩堝だった。


ザンは、スクラップ・ヘイヴンから数日かけて辿り着いた長距離輸送車の荷台から、その巨体を地上へと降ろした。

身長228センチ。

並の人間を越えるその体躯が地面を叩くと、舗装の剥げたアスファルトが微かに震えた。

周囲を歩く労働者や、薄汚れた外套を纏った武人志望者たちが、一様に足を止めて彼を見上げる。

その視線には、驚愕と、それ以上に深い警戒が混じっていた。


「ここが、聖都か」


ザンは独りごち、首の骨を鳴らした。

見上げれば、視界のほとんどは巨大な構造物に遮られている。中層街を支える巨大な支柱が、まるで神殿の柱のように幾本も立ち並び、その遥か先、雲を突き抜けた場所に、選ばれた者だけが住まう『天冠区』があるという。

ここからでは、その輝きすらも霞んで見えない。


街並みは、混沌そのものだった。

錆びついた鉄骨が剥き出しのビルが、違法な増築を繰り返して迷宮のように入り組んでいる。

頭上では、中層へと続くリニアが轟音を立てて走り抜け、その振動が絶えず足元に伝わってくる。

路地裏には、魔素によって変異したネズミが這い回り、ネオンサインの明滅が、澱んだ水溜まりを毒々しい色に染めていた。

現代的なホログラム広告が「武人大会開催」を華やかに告げる一方で、その足元では浮浪者が虚ろな目で地面を眺める。


ザンの腹が、雷のような音を立てて鳴った。

スクラップ・ヘイヴンを出てから、まともな食事は口にしていない。彼の巨体を維持するには、常人の数倍のカロリーが必要だった。

背負った粗末な袋の中には、賞金首狩りで稼いだ20万マルクがある。

下層街の物価なら、しばらくは食い繋げるはずだ。


「まずは飯だ」


ザンは周囲の視線を無視して歩き出した。

彼が歩くたびに、人混みが自然と割れる。

それは敬意ではなく、本能的な恐怖によるものだ。

ザンの全身から漏れ出る、制御しきれない『剛』の戦気が、周囲の空気を圧迫していた。

彼自身は無意識だったが、スクラップ・ヘイヴンの死線を潜り抜けてきたその肉体は、常に戦闘態勢にある。


大通り沿いにある、油の匂いが立ち込める大衆食堂に足を踏み入れた。

店内は、大会を控えて血気盛んな男たちで溢れかえっていた。

ザンが入ってきた瞬間、喧騒が止む。

カウンターの中にいた、顔に大きな傷跡のある店主が、ザンの体躯を見て眉をひそめた。


「……デカいな。何にする」


「一番量が多いものを。それと、水だ」


ザンは空いているテーブル席に腰を下ろした。

椅子が悲鳴を上げ、ミシミシと音を立てる。

運ばれてきたのは、合成肉のステーキが山盛りになったプレートと、濁った水だった。

ザンはそれを、獣のような勢いで平らげていく。

洗練された武術士のような優雅さは微塵もない。

ただ、生きるために喰らう。

その姿は、洗練された都市の住人たちには、異質な怪物のように映った。


「おい、見ろよ。あのデカブツ」


離れた席で、数人の男たちがひそひそと話し始めた。

腰に安物の剣を帯び、戦気を纏わせようと必死になっている、下層のチンピラの武人たちだ。

彼らにとって、ザンのような異質な存在は、格好の標的か、あるいは排除すべき障害に見える。


「ここらで見ねぇやつだな、スクラップ・ヘイヴンの野良犬か? 身体だけは立派だが、戦気の使い方も知らねえようなデカブツが、大会に出るつもりかよ」


「参加費の五千マルクも、どこかで盗んできたんじゃねえのか?」


ザンの耳には、その会話の全てが届いていた。だが、彼は動かなかった。無駄な争いで腹を減らすのは、彼の主義に反する。

スクラップ・ヘイヴンでは、言葉よりも先に拳が飛んできた。それに比べれば言葉など、そよ風のようなものだ。


しかし、男たちはザンの沈黙を、臆病ゆえの沈黙と受け取ったらしい。一人の男が立ち上がり、ザンのテーブルへと歩み寄ってきた。

男はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、ザンのプレートに残った肉の欠片を、指で摘み上げた。


「おい、デカブツ。聖都の礼儀を教えてやるよ。ここでは、弱者は強者に分け前を差し出すもんだ」


ザンは、最後の一口を飲み込み、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、怒りも、憎しみもなかった。

ただ、深い淵のような、底の見えない虚無がある。


「……肉を戻せ。今なら、その汚い指を折るだけで許してやる」


ザンの声は低く、地響きのように店内に響いた。

男の顔から笑みが消える。

周囲の空気が、一瞬にして凍りついた。

男は虚勢を張るように、自身の右拳に戦気を纏わせた。未熟な『剛』の戦気が、微かな光となって拳を包む。


「抜かしやがれ! ゴミ溜め育ちが!」


男が拳を振り上げた瞬間、ザンは動いた。

座ったままの姿勢で、ザンの巨大な右手が、男の顔面を鷲掴みにする。


「が、あ……っ!?」


男の叫びは、ザンの掌の中で押し潰された。

ザンは立ち上がることなく、ただ腕の力だけで、男の巨体を宙へと吊り上げた。男が纏わせていた戦気は、ザンの指が食い込む圧力によって、霧散していく。


武術の型など必要ない。

ただの握力が、鋼鉄をも拉ぐ万力となって男の頭蓋を締め上げる。


「言ったはずだ。戻せと」


ザンは、男をそのまま床へと叩きつけた。

ドォン、という重い衝撃音が響き、床のタイルが粉々に砕ける。男は白目を剥き、痙攣しながら沈黙した。

仲間の男たちは、椅子を蹴倒して立ち上がったが、誰一人としてザンに飛びかかろうとする者はいなかった。

彼らは理解したのだ。

目の前にいるのは、自分たちと同じ『武人』ではない。もっと根源的な、生存競争の頂点に立つ『捕食者』なのだと。


ザンは、テーブルに百マルク硬貨を数枚置き、店主を見た。


「ご馳走様。椅子を壊した分は、これで足りるか?」


店主は、呆然と頷くことしかできなかった。

ザンは再び袋を担ぎ、店を出た。

外は、いつの間にか夜の帳が下り始めていた。

だが、下層街の夜は、昼よりもさらに騒がしく、危険な色を帯びていく。


「……まずは、登録だな」


ザンは、ホログラム広告が指し示す方向――第一予選会場『鉄錆の広場』へと向かって、歩みを再開した。

彼の背後では、再び街の喧騒が戻り始めていたが、その中には、彼を追ういくつもの狡猾な視線が混じっていた。

聖都の洗礼は、まだ始まったばかりだった。


『鉄錆の広場』

かつては巨大な資材置き場だったというその場所は、今や数千人の欲望が渦巻く、巨大な円形闘技場へと変貌を遂げていた。

周囲を囲むのは、廃棄されたコンテナを積み上げて作られた観客席と、その上空を飛び交う無数の撮影ドローンだ。

下層街の住人たちにとって、武人大会の予選は、退屈な日常を破壊する最高の娯楽であり、同時に一攫千金を狙う賭博の対象でもあった。


会場の入り口には、参加登録を待つ長蛇の列ができていた。ザンはその最後尾に並び、周囲を観察した。

スクラップ・ヘイヴンで見かけるような、飢えた狼のような目をした男たち。

中層の道場で鍛えられたのであろう、整った武道着を纏った若者たち。中には、全身を機械化で強化した、武人というよりは兵器に近い者も混じっている。

だがその誰もが、ザンの巨体が視界に入るたびに、一瞬だけ息を呑んだ。


「次、名前と出身を」


受付の男は、事務的な口調で言った。

彼はザンの見上げるような体躯に一瞬だけ目を剥いたが、すぐに手元の端末に視線を戻した。

ここでは、異形など珍しくもない。


「ザン。スクラップ・ヘイヴンだ」


「……スクラップ・ヘイヴンか。あそこからここまで来るとは、運がいいな。参加費は五千マルクだ。現金か、カードか」


ザンは袋から、使い古された紙幣を取り出し、カウンターに置いた。

男は手慣れた手つきで枚数を確認し、一枚の金属製のプレートを差し出した。


「これがエントリーナンバーだ。無くすなよ。第一予選は明日の朝、第十二ブロックだ。ルールは知ってるな? 殺しは無しだ。死体が出ると、掃除が面倒だからな」


ザンは無言で『1048』とあるプレートを受け取った。


広場を離れ、ザンは今夜の寝床を探して路地へと入った。宿に泊まる金はあるが、見知らぬ場所で屋根の下に眠ることに、彼はまだ慣れていなかった。

スクラップ・ヘイヴンでは、壁のある場所で眠ることは、逃げ場を失うことと同義だった。

彼は、中層街を支える巨大な支柱の根元、人通りの途絶えた高架下を見つけた。

そこには、錆びついた大型の配管が走り、微かな温熱を放っている。


ザンは袋を枕にし、冷たいコンクリートの上に腰を下ろした。目を閉じると、街の騒音が遠くで波のように響いている。

リニアの走行音、遠くで聞こえる爆発音、そして、誰かの悲鳴。

それらは全て、彼にとっては子守唄のようなものだった。


ふと、ザンは自身の右手に意識を向けた。

戦気を練る。

体内の奥底、魂の核から湧き上がる熱い奔流。

それは血管を駆け巡り、指先へと集まっていく『剛』の戦気。

それは、彼がスクラップ・ヘイヴンの廃棄物の中で、死に直面した時に自力で掴み取った力だ。

誰に教わったわけでもない。

ただ、生き延びるために、肉体が、魂が、叫び声を上げた結果だった。


「まだ足りない」


ザンは呟いた。

昼間、食堂で叩き伏せた男の戦気は、あまりにも脆弱だった。

だが、この聖都には、もっと強大な、洗練された戦気を操る者が無数にいる。

先ほど受付で見かけた数人の中にも、底の知れない気配を纏った者がいた。

独学で身につけた彼の武術が、どこまで通用するのか。

それを確かめるために、彼はここへ来た。


その時、暗闇の中から、微かな足音が聞こえた。

一つ、二つ……いや、四つ。

ザンは目を開けることなく、戦気の流れを『注聴』へと回した。

鼓膜が微かに震え、周囲の空気の振動が、鮮明な情報となって脳内に展開される。忍び寄る者たちの呼吸は浅く、殺気が隠しきれていない。


「……おい、寝てるぜ。あのデカブツ」


「食堂の件、聞いたか? 相当な手練れらしいが、寝首を掻けば関係ねえ」


「あの袋、金が詰まってやがる。五千マルクどころじゃねえぞ」


どうやら、先ほどの食堂での一件が、早くも小悪党の耳に届いたらしい。

下層街において、金を持っている余所者は、それだけで獲物だった。男たちが、抜き身のナイフを手に、ザンを囲むように距離を詰めてくる。


ザンは、ゆっくりと上体を起こした。

その動作には、一切の無駄がなかった。

男たちが反応するよりも早く、ザンの瞳が暗闇の中で鋭く光った。


「……スクラップ・ヘイヴンでは、寝ている間に近づく奴は、二度と目が覚めないようにするのが決まりだった」


「なっ、起きて――」


男が叫び終わる前に、ザンの巨体が弾けた。


『流身』

戦気の循環を加速させ、重戦車のような肉体を、一瞬にして弾丸へと変える。ザンは立ち上がると同時に、最も近くにいた男の胸元に、掌底を叩き込んだ。

『砕気』

物理的な打撃ではない。

練り上げられた戦気の衝撃が、男の肋骨を通り越し、背後の配管までをも震わせた。男は声も出せずに吹き飛び、コンクリートの壁に激突して崩れ落ちた。


「ひっ、魔物かよ!」


残りの三人が、恐怖に駆られて一斉にナイフを突き出した。

だが、ザンはその刃を避けることすらしない。

彼はただ、戦気を皮膚の表面に集中させた。

『剛』の性質を持つ戦気が、彼の肉体を鋼鉄以上の硬度へと変質させる。


キン、という硬質な音が響き、ナイフの刃がザンの腕に触れた瞬間に折れ曲がった。

ザンの皮膚には、傷一つ付いていない。


「終わりか?」


ザンは、逃げ出そうとした男の首根っこを掴み、そのまま地面へと押し付けた。

凄まじい握力が、男の頸椎に悲鳴を上げさせる。

ザンは、残りの二人を冷徹な目で見据えた。ザンが手を離すと、男たちは腰を抜かしながら、這うようにして暗闇の中へと逃げ去っていった。

静寂が戻る。

ザンは、折れたナイフの破片を拾い上げ、それを指先で簡単にひねり潰した。


「……ふぅ」


彼は再び、配管のそばに腰を下ろした。

戦気を鎮め、体温を保つ。

明日の予選には、数千人の参加者が集まるという。

その中には、今日出会ったような小物ではない、本物の『武人』がいるはずだ。


ザンは見上げた。

高架の隙間から、わずかに見える夜空。

そこには、中層街の明かりに遮られて、星一つ見えない。

だが、その遥か上空には、太陽に最も近い場所、『天冠区』が君臨している。


「一億マルク……」


スクラップ・ヘイヴンにいた彼にとっては現実味のない額。だが、それは彼にとって重要ではない。

彼は、自分という存在が、この世界のどこまで通用するのかを知りたかった。

魂に刻まれた飢えは、食事だけでは決して満たされない。ザンは目を閉じ、深い眠りへと落ちていった。


翌朝、下層街を包む霧は、上層から排出される冷却水の蒸気と混ざり合い、視界を白く染めていた。

だが、その霧を切り裂くように、『鉄錆の広場』からは地響きのような咆哮が上がっていた。

第一予選、開始の合図だ。


ザンは、指定された第十二ブロックの待機エリアに立っていた。周囲には、同じブロックに割り振られた数百人の男たちが、殺気立った表情で互いを牽制し合っている。

彼らの多くは、この予選を「人生を逆転させるための博打」と考えていた。


「第十二ブロック、入場!」


審判員の無機質な声が響き、巨大な鉄門がゆっくりと開かれた。

その向こう側には、血と汗の匂いが染み付いた、広大な砂の舞台が広がっている。

ザンは一歩、その地を踏みしめた。

足裏から伝わる砂の感触。

全身の細胞が、戦いの予感に歓喜し、戦気が静かに、だが力強く脈打ち始める。


ザンは、正面を見据えた。

そこには、自分と同じように、あるいは自分以上に巨大な野心を抱えた敵たちが、牙を剥いて待ち構えていた。彼は静かに、拳を握りしめる。


「……来い」


砂塵が、視界を茶褐色に染め上げる。

『鉄錆の広場』に響き渡った開始のブザーは、数百人の武人志望者たちにとって、理性をかなぐり捨てるための合図だった。

怒号と悲鳴、そして肉体と肉体が衝突する鈍い音が、円形闘技場の空気を震わせる。


ザンは、その狂乱の中心で、岩のように動かずに立っていた。彼の周囲数メートルには、奇妙な空白地帯ができている。

二メートル二十八センチの巨体から放たれる、威圧的な『剛』の戦気が、本能的な恐怖となって周囲の者たちを遠ざけていた。


だが、その沈黙も長くは続かない。

乱戦が激化するにつれ、手近な獲物を求めて、あるいは最大の脅威を排除するために、数人の男たちがザンへと狙いを定めた。


「デカいだけが取り柄のデクの坊が! 死ねッ!」


一人の男が、戦気を纏わせた大斧を振りかざし、ザンの背後から躍り出た。

斧の刃には、未熟ながらも『剛』の戦気が宿り、空気を切り裂く鋭い音を立てる。ザンは振り返ることなく、ただ右腕を背後へと振った。


バキッ、という、硬質なものが砕ける音が響いた。

ザンの裏拳が、振り下ろされた斧の側面を捉えたのだ。

鋼鉄製の斧頭は、まるで薄いガラス細工のように粉々に砕け散り、その衝撃だけで男の巨体は十メートル以上も吹き飛んだ。

男は観客席のコンクリート壁に激突し、そのまま動かなくなった。


「次だ」


ザンは短く呟き、ゆっくりと正面を見据えた。

彼の前には、今の一撃を見て足を止めた三人の男たちがいた。彼らは互いに目配せをし、連携してザンを仕留めようと構える。

一人は槍を構え、残る二人は左右から回り込むようにして距離を詰めてきた。


「囲め! 一斉に行くぞ!」


槍使いが鋭い突きを放つ。

それは『流身』によって加速された、正確無比な一撃だった。

だが、ザンはその槍の穂先を、避けることすらしない。彼はただ、左手を突き出し、迫り来る刃を素手で掴み取った。


「なっ……!?」


槍使いの男が驚愕に目を見開く。

戦気を纏わせた槍の刃が、ザンの掌に食い込むどころか、微かな火花を散らして止まっている。

ザンの掌を覆う『剛』の戦気は、もはや物理的な防具を超えた、不可視の装甲と化していた。

ザンはそのまま槍を引き寄せ、男の体勢を崩すと、空いた右拳を男の腹部へと突き出した。


『剛撃』


武術の型など介さない、純粋な質量と戦気の暴力。

ドォン、という重低音が広場に響き渡り、槍使いの男は胃の内容物をぶちまけながら、くの字に折れ曲がって後方へと弾け飛んだ。

その衝撃波だけで、左右から迫っていた二人の男たちも、木の葉のように地面を転がった。


「本当に、人間かよ……」


地面に這いつくばった一人が、震える声で漏らした。

ザンは彼らを見下ろすこともなく、再び広場全体へと視線を巡らせた。


乱戦開始からわずか数分。

既に広場の三分の一は、戦闘不能になった者たちで埋め尽くされている。

だが、その惨状の中でも、一際異彩を放つ者たちが数人、ザンの目に留まった。


広場の反対側では、細身の女が、舞うような動きで次々と敵を無力化していた。

彼女の周囲には、目に見えるほどの戦気の渦が巻いている。

『流』の性質を極限まで高めたその動きは、敵の攻撃を柳のように受け流し、その力を利用して相手を場外へと放り出していく。

彼女は一度も拳を握ることなく、ただ優雅に、残酷なまでに効率的に戦場を支配していた。


また別の場所では、重厚な鎧を纏った大男が、周囲の攻撃を一切無視して中央へと突き進んでいた。

彼の戦気は、ザンのものとはまた異なる、静かな、だが揺るぎない『剛』の輝きを放っている。

彼が歩くたびに、地面の砂が戦気の圧力で押し固められ、足跡が深く刻まれていく。


(……あいつらは、違う)


ザンは、本能的に理解した。

彼らは、スクラップ・ヘイヴンにいたゴロツキや、先ほど沈めたチンピラたちとは、魂の格が違う。

彼らもまた、ザンの存在に気づいているはずだ。

乱戦の中で、強者たちは互いの領域を侵さないよう、無意識のうちに距離を保っている。

だが、その均衡も、予選の時間が経過するにつれて崩れていく運命にある。


その頃、広場を見下ろす特設のモニター室では、数人の男たちが驚愕の表情で画面を凝視していた。

彼らは武術士協会の職員であり、この予選の監視と、有望な人材のスカウトを兼ねて派遣されたプロの武術士たちだ。


「……第十二ブロック、1048番。名前はザン。出身はスクラップ・ヘイヴンか」


一人の年配の武術士が、ザンの戦闘シーンをスロー再生しながら呟いた。

彼の隣に立つ若い女性職員が、手元の端末を操作しながら補足する。


「はい。事前のデータはありません。戦気の性質は『剛』ですが、その出力が異常です。

武術の型はほとんど見られませんが、素の身体能力と戦気量の暴力だけで、他の参加者を圧倒しています」


「独学か……戦気を自力で覚醒させたというのか。あの年齢で、あれほどの密度の『剛』を維持できる器を持っているとはな」


年配の武術士は、興味深げに目を細めた。

通常、戦気は師から弟子へと、あるいは専門の教育機関で起こしてもらうのが一般的だ。

自力で覚醒させる者は稀であり、その多くは過酷な環境下で死に直面した経験を持つ。

そして、そうして覚醒した戦気は、往々にして制御が難しく、持ち主の肉体を内側から焼き切ってしまうことも少なくない。


「ですが、課長。彼の戦い方はあまりにも粗野です。

第二予選以降、洗練された武術を使う相手には、今のままでは通用しないのでは?」


「いや、どうかな。あの『剛』は、洗練を拒絶するほどの純粋な力だ……見てみろ。奴を排除しようとする動きが始まったぞ」


モニターの中では、ザンの圧倒的な力に危機感を抱いた中堅の参加者たちが、十数人の集団となってザンを包囲し始めていた。

彼らは、個々の実力ではザンに及ばないことを悟り、数による暴力で「怪物」を仕留めようというのだ。


ザンは、自分を取り囲む円陣を、無表情に見つめていた。十数人の男たちが、武器を構え、戦気を最大限に高めている。

その中には、先ほどザンが沈めた男たちの仲間も混じっているようだった。


「おい、デカブツ! お前さえいなくなれば、俺たちの通過は確実なんだよ!」


一人が叫び、それを合図に包囲網が縮まった。

槍、剣、棍、そして素手。

あらゆる方向から、殺意を孕んだ攻撃がザンへと殺到する。


ザンは、深く息を吸い込んだ。

肺の奥まで、熱い戦気が満たされる。

彼は初めて、その場から一歩を踏み出した。


『流身』


巨体が、視界から消える。

包囲していた男たちは、自分たちが何を攻撃しようとしていたのか、一瞬だけ見失った。

次の瞬間、ザンは集団の最も外側にいた男の背後に現れていた。


「……遅い」


ザンの右拳が、男の背中を優しく叩くように触れた。

だが、そこから放たれたのは、優しさとは無縁の、大地を揺るがす衝撃だった。


『剛撃』


男の体は、まるで大砲から射出された砲弾のように、前方の仲間たちを巻き込みながら吹き飛んだ。

ザンは止まらない。

彼はそのまま、混乱に陥った集団の中へと、文字通り突っ込んだ。腕を振れば人が舞い、足を払えば地面が爆ぜる。

それはもはや戦闘ではなく、自然災害に近い光景だった。ザンの纏う『剛』の戦気は、彼に触れるもの全てを、容赦なく粉砕していく。


「あ、ああ……っ! くるな、くるなあああ!」


最後の一人が、武器を投げ捨てて逃げ出そうとした。

ザンはその男の襟首を掴み、軽々と持ち上げた。

男の足が宙で虚しく泳ぐ。


「……終わりだ」


ザンは男を、場外へと向かって放り投げた。

男は放物線を描き、観客席のフェンスを越えて、砂埃の中に消えていった。

包囲網は、わずか数十秒で完全に崩壊した。

広場の中央には、再びザンだけが、静かに立っていた。

彼の呼吸は、乱れてすらいない。

ただ、その瞳の奥に宿る熱だけが、先ほどよりも一層、深く、鋭くなっていた。


砂塵が少しずつ収まり、広場の全容が明らかになってくる。

開始から二十分。

数百人いた参加者は、今や五十人足らずにまで減少していた。

生き残っているのは、いずれも一癖も二癖もある強者たちだ。

彼らは広場の各所に陣取り、互いの出方を窺いながら、終了のブザーを待っている。


ザンは、自分の拳に付着した砂を払い落とした。

彼の足元には、先ほどの包囲網の残骸が、物言わぬ肉の塊となって転がっている。ふと、彼は背後に、先ほどとは明らかに質の異なる戦気を感じ取った。

鋭く、冷たく、そして一切の無駄がない戦気。


振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。

年齢はザンと同じか、少し上だろうか。

整った顔立ちに、中層街の高級道場のものと思われる、白銀の縁取りがなされた紺色の武道着。

腰には、装飾の施された一振りの直剣を帯びている。

彼はザンの巨体を前にしても、眉一つ動かさず、ただ静かにその瞳でザンを射抜いていた。


「……君が、スクラップ・ヘイヴンのザンか」


青年の声は、喧騒の中でも驚くほど明瞭に響いた。

ザンは無言で、その青年を見返した。

青年の名は、カイル。

中層街でも名高い『一刀流・天風』の門下生であり、今回の大会でも優勝候補の一人と目されている男だ。


「下層の噂は聞いていたが、想像以上だ。その戦気……制御されているというよりは、肉体そのものが戦気を求めているようだな。まるで、飢えた獣だ」


「用がないなら、どけ。俺は、戦う理由がない奴とは拳を交えない」


ザンの言葉に、カイルは微かに口角を上げた。

それは嘲笑ではなく、純粋な興味の色だった。


「理由、か。この予選を生き残る。それだけで十分な理由だと思うがね……だが、安心しろ。

ここで君とやり合うつもりはない。君のような『原石』を、こんな掃き溜めで壊してしまうのは、武人として忍びないからな」


カイルはそう言うと、ザンに背を向け、悠然と歩き出した。その背中には、一切の隙がない。

ザンは、カイルの去り際に見せた、その足運びに目を奪われた。一歩一歩が、地面の戦気を吸い上げ、自身の力へと変換している。

それが、洗練された『武術』というものなのか。

独学で、ただ力任せに戦気を振るってきたザンにとって、それは未知の領域だった。


(……おもしれぇ)


ザンは、自分の胸の奥が、微かに高鳴るのを感じた。

それは恐怖ではない。

もっと根源的な、強者と相見えることへの歓喜。

スクラップ・ヘイヴンでは、戦いは常に「生存」のための手段だった。だが、ここでは、戦いそのものが「目的」になり得る。

その違いが、ザンの心境に小さな変化をもたらし始めていた。


残り時間は、あと五分。

広場には、最後の淘汰を生き残ろうとする者たちの、執念深い戦気が渦巻いている。

ザンは再び、中央へと歩を進めた。

もはや、彼に挑みかかる愚か者はいない。

だが、彼は知っていた。この予選を通過した先には、カイルのような、本物の強者たちが待っていることを。


ブザーが、広場に鳴り響いた。

三十分間の狂乱が、唐突に終わりを告げる。

砂塵が完全に消え去った舞台に残ったのは、わずか三十二名。

数千人の参加者のうち、第二予選へと進めるのは、この一握りの生存者たちだけだ。


「第一予選、終了! 生存者は、速やかにメディカルセンターへ向かえ!」


審判員の叫び声と共に、観客席からは割れんばかりの歓声と罵声が降り注いだ。

賭けに勝った者は狂喜し、負けた者は手近なゴミを舞台へと投げつける。

ザンは、その喧騒を背に、出口へと向かった。

彼の体には、かすり傷一つ付いていない。

だが、その内側では、激しい空腹感が再び鎌首をもたげていた。


「……腹減ったな」


ザンは、自分の腹をさすりながら、鉄の門をくぐった。

出口の通路では、先ほどのカイルや、舞うような動きを見せていた女、そして鎧の大男たちが、それぞれの従者や仲間に囲まれていた。

彼らは既に、次のステージを見据えている。

ザンには、帰るべき場所も、迎えてくれる仲間もいない。あるのは、袋の中の金と、自身の肉体だけだ。


「おい、1048番!」


呼び止められて振り返ると、そこには先ほどの受付の男が立っていた。

彼は、ザンの無傷の姿を見て、驚きを隠せない様子だった。


「……これを持っていけ。第二予選の案内状だ。会場は中層街の『アーク・プラザ』、一週間後だ。

それまでに、少しはマシな服でも買っておけよ。中層は、下層ほど寛容じゃねえからな」


男から手渡されたのは、ホログラムが埋め込まれた豪華な招待状だった。

ザンはそれを無造作に受け取り、頷いた。


「……ああ。そうする」


ザンは、広場を後にし、再び下層街の雑踏へと消えていった。宿探しの道すがら、ザンは夜空を見上げた。

中層街の巨大なプレートが、下層の空を覆い隠している。

だが、そのプレートの隙間から漏れる光は、昨日よりも少しだけ、近く、明るく感じられた。


「中層街、か……」


ザンは、招待状を袋にしまい、歩みを早めた。

鉄錆の広場で産声を上げた孤独な獣は、今より高く、より険しい頂へと、その爪を立てようとしていた。

聖都グラン・アークの階層を一つ上がるごとに、戦いはより苛烈に、より残酷になっていく。

だが、ザンの魂に刻まれた飢えが、彼を止めることは決してない。


翌朝、下層街のニュースホログラムには、昨日の予選のハイライトが映し出されていた。

そこには、圧倒的な力で敵を粉砕する、一人の巨漢の姿があった。


『スクラップ・ヘイヴンの怪物』


その名が、聖都の闇の中に、静かに、だが確実に浸透し始めていた。

ザンは、安宿のベッドでそのニュースを横目に、次なる戦いへのイメージを膨らませていた。


拳に残る、敵を打った時の感触。それは、スクラップ・ヘイヴンで鉄屑を叩いていた時とは、決定的に何かが違っていた。

魂が、震えている。

自分と同じように、戦気を操り、自らの意志で運命を切り拓こうとする者たちとの邂逅。

それが、これほどまでに自分の心を昂ぶらせるとは、思ってもみなかった。


窓の外では、下層街の喧騒が、夜を徹して続いている。

だが、ザンの意識は、既にその騒音を通り越し、遥か上空の中層街、そしてその先にある『天冠区』へと向けられていた。

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― 新着の感想 ―
なろうでは珍しい巨体主人公の肉体バトルですね。 主人公は今は力をただ奮ってるだけのようですが、今後技術を身に着けるのかもっと強大な力を得るのか楽しみです。
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