『似顔絵とデフォルメ:「らしさ」をめぐる描き手と世間の不幸なすれ違い』
似顔絵は似せれば怒られ、美化すれば喜ばれます。
そして自画像だけは、化け物みたいに描いて初めて「ソックリ」と言われたりもします。
高校時代やプロの仕事などで味わった、似顔絵と人間心理の不幸なすれ違いのお話です☺︎
モデルになった人の特徴を激しく誇張した似顔絵は「人を傷つけるのではないか」と、SNSで議論を呼んでいました。
中学生の女の子たちを執拗にデフォルメして描いた似顔絵師の動画に対して、「酷い」「可哀想」といった声が上がったのがきっかけのようです。
私はこれまで、仕事やプライベートで数多くの似顔絵を描いてきました。
その経験から考えると、この「似顔絵問題」の根底には、描き手側の作画の楽しみと、受け手側の「自己愛」「他者との比較」という、交わり難いギャップが存在しているようです。
◾️なぜ似顔絵は「誇張」するのか
そもそも、なぜ多くの似顔絵はリアルに描くのではないか、特徴を強く打ち出すのでしょうか。理由はシンプルです。
・その方が本人に「似る」から(記号としての特徴が際立ちます)
・ただリアルに描くだけでは面白みがなく、勢いやインパクトが出ないから
・なにより、描き手としては自由にデフォルメした方が楽しいから
描き手としては、モチーフになった人の風情や顔立ち、あるいは内面から滲み出るアクをとことん煮詰めて、いわば「濃縮したエスプレッソ」のような、本人以上に本人らしい1枚を探り当てたいのです。
それこそが、絵描きの純粋な作画の楽しみであり、絵心の発露でもあります。
しかし、では描かれた方はそれを喜ぶのでしょうか。心や容姿に十分な余裕のある人は「シャレ」として受け流してくれもしますが、普通はあまり喜びません。内心「イヤだなぁ...でもまあ、しょうがないか...」と苦笑いするのが関の山。
酷くデフォルメすれば、描き手の自己満足やアピールにはなるけれど、描かれた方にとってはビミョーです。
◾️似ているとは
似ているという納得は自分自身の場合と他人の場合では異なるような気がします。
誇張をせずにただリアルに描くと
・「えぇ!?これ私?こんなじゃなーい。。」
・「ひどーい」
・「・・・・・」
美化して描くと
・「わー!似てる〜♪」
・「私だ〜♪ 嬉し〜」
人間ってこんなもんなんです。
逆に、描き手が自画像を描く場合…
自分を美化して描くと
・「似てなーい!」
・「自分だけ良く描く!」
・「現実を見ろ!」
と周りに文句を言われる
デフォルメ無しでリアルに描くと
・「美化してる」
酷くデフォルメして化け物みたいに描くと
・「わかってるじゃんw」
・「ソックリ」
人間ってこんなもん
この「自分はこうあるべき」「他人はこうあるべき」というギャップが似顔絵問題に繋がります
◾️実際の体験談
「卒業のしおりの不条理」
この人間心理の不条理を、私は高校の卒業の時、クラス用に作ることになった「卒業のしおり」のような小冊子の制作によって思い知らされました。
クラス全員と教科などで関わりのあった全教員を描きました。卒業間際にエライ面倒事を押し付けられたものです。
まぁしょうがないかと、担任から渡された皆の写真を分析すつつ、共通の統一した絵柄とソフトなデフォルメ度で少し美化して描いていきました。
60人くらいは描いたかな...
卒業の日、教室に「卒業のしおり」が皆に回ると、似顔絵のページを開いたクラス中が大騒ぎ。
顔立ちの良い子をそのまま普通に描いたのが騒ぎの元になりました。
「○○だけ可愛く描いてある!」と女子たちが騒ぎだし、蜂の巣を突いたような状況に。
皆を本人らしく似せて描いたのに、あちこちで女子たちが「私こんな!?ヒドイ!!」
いやホント、皆を少し美化してあっさりと描いたんですよ。
顔立ちの良い子は、むしろ美化を抑え、あっさりと描いたくらいなのに...
描き手としては、本人以上に本人らしい姿を探り当て、デフォルメして描きたいのですが、
抑えて抑えて、誰でも彼でも美化して描かなければ、描かれた方は収まらない。
金をもらっているわけでもないのに、相手の満足に合わせて不本意な絵を大量に描かねばならない義理は無いんだけどと。
人々のそんなちょっとイヤな心理を、高校の終わりにたっぷりと味わいました。
描き手自身の自画像に対しては、ヒトの域を超えたシロモノにデフォルメして初めて「わかってるじゃんw」「ソックリ♪」と満足する周囲の連中を見て、
「自分は美しく扱われたいが、他人が自分を良く見せることは許さない」という人間の心理を痛感したものです。
「おじさま講師たちの修正地獄」
大人になり、プロとしてイラストを描く日々の中、大手学習塾の講師十数人の似顔絵の仕事を担当した時にも、似顔絵の「似てる」問題に直面しました。
全員を一律に「そこそこ美化」して描いたのですが、元々見栄えの良い講師陣からは一切クレームが無かったのに対し、失礼ながら見栄えのあまり良くない方々から、再三にわたる修正要望が届いたのです。
「外見なんて気にしないだろう」と思っていたおじさまやお爺さま講師たちが、似顔絵の出来栄えに強く執着されました。
「もっと若く!」「シワを消して!」「目を大きく可愛く」「髪をフサフサに、白髪も無しで!」「顔の長さを短く!」
その方の特徴を徹底的に排除させられ、最終的に「これ、一体誰ですか?」というレベルの絵になって、ようやく渋々と納得していただけました。
塾の講師は人気商売ですから、他に見劣りしたくないという心理や、現実のコンプレックスの補正ツールにしたいという切実な事情があったのでしょう。ビジネスが絡むと、人間の「嘘でもいいから美しくありたい」というこだわりは、とてもシビアになるようです。
◾️表現という名の「呪い」のゆくえ
話をSNSの炎上に戻しましょう。
絵描きとしては、本質を捉えた最高のデフォルメを描きたい。
しかし、それは往々にして、描かれた側にとっては受け入れがたい。
「嫌な現実」を突きつける行為になってしまいます。
客観的な表現の切れ味が鋭ければ鋭いほど、時にそれは描かれた人にとって、一種の「呪い」のように響いてしまうのかもしれません。
似顔絵という文化が、相手を納得させるためだけに、「本人を離れた美化」「お世辞鏡」になってしまうのも、表現者としてはやはり少し寂しいものです。
美化しつつデフォルメすればあるいは丸く収まるのかもしれませんが、それでは描き手の「らしさ」を追い求める楽しみは削り取られてしまう。
そして、描かれる側にとって嫌な特徴を表現されると、ちょっと美化してもらったぐらいでは内心は満足しないでしょう。
そんな決して交わらない描き手と世間のすれ違いを抱えながら、似顔絵という表現の難しさ、描き手と描かれる側の攻防は、今も昔も変わらず続いているようです。
似顔絵とは、見たい自分と、他人から見える自分が衝突する場所であります。




