天下統一の章~第四話~
―――頬が冷たいのが心地よい。そういえば、『ここ』に入れられて何日になるだろうか。
初芽は徳川家の隠密である服部半蔵に徳川家の秘密文書を盗み出した罪で捕らえられ、浜松城の地下牢に閉じ込められていた。
陽の光を見なくなって久しい。今が朝なのか、それとも夜なのか。正確には彼女にもわからない。
「ほら、朝餉を持ってきたぞ」
膳を持ってきたのは、ぶっきらぼうな物言いをする初老の武士。徳川家古参の重臣・本多作左衛門重次である。
「本多様・・・毎度毎度、申し訳ありません」
「ふん。わしに対して申し訳ないと思うのなら、とっとと正直に話してはどうだ。当家の重要文書を羽柴に渡した理由を」
この地下牢に閉じ込められた初芽だが、予想された厳しい尋問や拷問などは一切なく、こうして重次が三食を運んできては少しばかり話をするだけで帰っていく。
「・・・・・それは」
「まだ言えぬか。まぁいい。信雄の馬鹿が単独で講和を結びおったから、わしらに羽柴と戦をする大義名分が無くなった」
それは初芽も少しだけ聞いた。岡崎城の戦いで羽柴秀次率いる羽柴軍別働隊を、徳川家軍師・鷹村聖一の養子である鷹村秀康と徳川軍留守部隊が池田恒興らを討ち取る大勝を挙げた。しかし徳川方の旗頭だった織田信雄が秀吉に降伏し、徳川家に秀吉と戦う大義名分が失われてしまった。その為、現在は講和に向けて羽柴方の代表である滝川雄利と徳川方全権の鷹村聖一が協議を続けているという。
「鷹村様は私をどうしたいのでしょうか」
「知らん。だが・・・」
地下牢から出ていく重次は、彼女の質問にこう答えた。
「奴はお前の『呪縛を解き放ちたい』と言っておった」
「・・・!!」
「わしには意味が分からんが、お前のその様子だと、何か意味があるようだな」
それだけ言い残すと、重次は今度こそ去って行った。
(鷹村様は、私の事情を知っている・・・?)
彼女は羽柴家の陪臣(家臣の家臣)大谷吉継こと藤津栄治に飼われている隠密である。元々は孤児で、二人の弟とともに懸命に生きてきた。ある時、六角家旧臣の大谷吉房に拾われ、そこで隠密として育った。そして大谷家当主が『あの男』に代わり、弟たちが人質に取られ―――そして今に至る。
―――呪縛を解き放ちたい―――
重次を介して聞かされたその一言に、初芽の心は揺らいでいた。
(私を、助けてくれるんですか・・・?)
たとえ藁でもいい。虐げられ、大切な弟たちを人質に取られ、今また任務に失敗してしまった。その言葉に縋りたかった。
都合がいいのは分かっている。裏切っていながら、助けてくれと縋るのだから。
彼女は、一つの決意を下した。
徳川家居城・浜松城のとある一室。徳川家の全権である鷹村聖一と、羽柴家からの使者である滝川雄利が和睦の詰めを行っていた。
雄利は先日行われた家康との会談で、和議を結ぶことは決まった。細部の詰めを任された聖一は、こうして羽柴家の代表である雄利との会談に臨んでいたのである。
「それでは、来年十月に徳川殿御自ら上坂して頂くという事で・・・」
「はい。そして私の子である秀康を秀吉殿の養子に、でしたね」
今回の会談から家康上坂まで時間があるのは理由がある。東海地方では大雨が発生して田畑などが荒れ、徳川家は総力を挙げてその立て直しにかからなくてはならなくなった。またこのような状況が徳川と羽柴の和睦を後押しした。
そして秀吉は聖一の養子である秀康を養子として望んだという。言い換えれば人質であるが、聖一は養父として養女が新しい環境に身を置くことで、人として成長してくれればいいと前向きに考えていた。
「ところで鷹村殿。徳川殿は何名ほどの人員を連れて上坂なされるおつもりでしょうか?」
それについて聖一は、家康と相談して決めていたことがあった。ただ羽柴家に臣従するだけでは芸がない。羽柴に力で屈しなかった徳川家康の実力を見せつけてやりたいと考えていた。
「二万」
「・・・は?」
聞き間違えか、と訝しげな顔をする雄利に、聖一は笑顔を浮かべてはっきりと伝えた。
「羽柴殿にお伝えくだされ。当家は旗本部隊をはじめ、酒井・本多・井伊・榊原等主力部隊二万を率いて羽柴殿にお目にかかりまする」
「しかし、二万は言い過ぎだったのではないか?」
雄利と会談を行ったその夜。直政と寝所を共にした聖一は、隣で寝ている彼女からそんな質問を受けた。
「これは徳川の力と状況を示すと同時に、羽柴殿がどう出るか諸侯に知らしめるために必要な事なんだ」
つまり、徳川は主力部隊を率いて国元を空にしても、背後には盟友・小田原北条氏と上田の真田氏が守るから隙はないぞと。
「これに対して秀吉殿がどう出るか。ねぇ万。これくらいでおたおたしてたら、天下人なんて勤まらないよね」
意地悪そうな笑みを浮かべる夫に、井伊直政―――万姫は蒼い瞳に呆れの色を浮かべた。
「お前は意地悪な奴なのだな」
「そうだよ。特に―――」
「好きな子と、嫌いな奴にはね」
手元の明かりが消されて部屋が暗闇に包まれ、二人の声だけが静かに響く。
「あ・・・こ、こら・・・!」
「今夜は万をいじめてあげる。私がどれだけ君の事を好きかをその身体に刻んであげるから」
―――徳川家の夜は、こうして更けてゆく―――




