第9話 旅の始まり
僕は今、神官の前に乗せられ、馬の背で揺られている。
「ノアと言ったな」
「はい」
「教会ではまず、神の教えを学ぶ。だがそれだけではない」
神官は前を向いたまま、静かに続けた。
「日々の務めを通して、神に仕えることを身につけるのだ。掃除、洗濯、畑仕事――どんな些細な仕事も、すべて修行と思え」
少し間を置いてから、低い声で言う。
「たとえヒールが使える者であっても例外ではない。最初は皆同じように修行を積むことになる」
「楽な道ではない。それでも務めを果たす者だけが、神に近づく」
わずかに声の調子を落とし、神官は続けた。
「それに――君の振る舞い次第では、君を見出した私の顔に泥を塗ることにもなる。心しておくように」
「はい」
僕は内心うんざりしながらも、ひとまず返事だけは素直にしておいた。
「クリス様は偉い神官様なんですよね。なのに、わざわざ村を回られるなんて、すごいですね」
僕は振り返り、神官を見上げながらそう言った。
クリスは、いかにも自尊心の高そうなタイプだ。
少しくらい持ち上げておいたほうが、情報も引き出しやすいだろう。
「村々を回って、君のような才能を見出すのも大切な務めだからね。ただ君を連れ帰った以上、しっかりと見守る責任がある。しばらくは街を離れられないだろうな」
クリスの口調には、どこか弾んだ響きがあった。
「その歳でヒールを使える子供は珍しいんだ。他の神官が君を頼ったり、勝手に指示を出したりするかもしれない。そんな時はすぐに私に言うんだよ」
穏やかな口調だが、どこか刺すような鋭さがあった。
「わかりました」
なるほど。才能のある子供の後ろ盾になって、教会内での立場が上がるのか。
クリスが僻地を回っていることを考えれば、大した地位ではないだろう。
教会に入ったらどの派閥につくか見極める必要がありそうだな。
そんなことを考えていると、街道の脇の茂みが揺れた。
「――止まれ」
ロイが低い声で言う。
護衛の三人が、即座に陣形を組む。
ロイが前、ジェイクが盾を構え、アガサを守る。
茂みから、狼が飛び出してきた。
「三体か」
ロイが剣を抜く。
「アガサ、一番右ををやれ」
「了解」
アガサが詠唱を始める。
「火よ、敵を焼き尽くせ――フレイムアロー」
火の矢が飛び、狼に命中する。
一体が倒れる。
残り二体が、こちらに突進してくる。
ロイが一体を斬り、ジェイクが盾で殴り倒す。
――あっという間だった。
連携は取れている。
無駄な動きがない。
やはり、実戦慣れしているらしい。
倒した狼を茂みに投げ入れると、一行は何事もなかったかのように、再び街道を進み始めた。
その後は特に問題もなく、日暮れ前に野営場所へと辿り着いた。
ロイたちが手際よくテントを立てるのを眺めていると、先に野営していた商人風の男がこちらに近づいてきた。
「神官様とお見受けします。実はうちの馬が足をやっちまいましてね。ちょっと診ていただけませんか」
男はそう言うと、小さな袋をクリスに差し出した。
クリスは袋の重さを確かめると、懐へとしまい、軽く顎をしゃくった。
「ノア、やってみなさい」
僕は命じられるままに商人の馬車に近づく。
商人は訝しみながら、僕の後についてくる。
頑丈そうな箱馬車の中からは、子供のすすり泣くような声が聞こえてくる。
「私は貧しい村を巡って、子供たちを引き取っていましてね」
男はクリスに向かって説明するが、クリスはまるで興味を示さず、僕の動きひとつひとつを確かめるようにじっと見つめていた。
僕は馬の脚を見る。
右の前足が、ぎこちなく持ち上げられていた。
そっと触れてみる。
腫れと熱が手に伝わる。
折れている――間違いない。
そのまま魔力を流す。
「ヒール」
わざと声に出す。
淡い光が溢れ、折れた骨がつながる。
みるみる腫れが引いていった。
馬は確かめるように、何度か地面を踏みしめると、安堵したかのように鼻先を僕の頭に擦りつけた。
僕を見据えるクリスの目が、熱を帯びる。
興奮した商人がクリスに詰め寄った。
「こいつは凄い!よかったら私に引き取らせてくれませんか。なんなら金貨も出せますし、神官様にとっても悪くない話かと」
クリスはゆっくりと商人を見やった。
「譲るつもりはない。神の御旨に従い、この子は私が見守る」
言葉は穏やかだが、商人の申し出を拒む揺るぎない意思が込められていた。
商人は少し肩をすくめ、低く答えた。
「……わかりました。では、また別の機会があれば」
ちらりとノアを見やる目には、欲望とわずかな苛立ちが混じっていた。
テントに戻ると、アガサが話しかけてきた。
「やるじゃない。五歳児とは思えない魔力の扱い方ね」
僕は小さく肩をすくめ、あどけなく笑った。
「ありがとう。でも、クリス様がずっと見てたから、ちょっとドキドキしたよ」
「いざと言う時は頼んだぞ」
ロイが冗談めかして言う。
「さあ、夕食の準備をしよう。明日も早い」
ジェイクが鍋を手にやってきた。
干し肉を入れただけの簡単な鍋だが、僕も少し手伝った。
前世では、ずっと入院生活だったから、こういうのは新鮮だ。
翌朝。
テントから這い出して、伸びをする。
まだ日が昇ったばかりだが、野営地には僕らしか残っていなかった。
「昨日の商人、やけに急いで出発した」
最後の番をしていたロイが、声をひそめて言う。
「馬が怪我してたんだ、思う様に進めなかったんだろう」
ジェイクが軽く答える。
「念のため、今日も警戒は怠るなよ」
「了解」
ロイたちがテントを畳み始める。
手際よく荷物をまとめ、背負っていく。
僕はクリスの前に乗せられて、野営地を後にした。




