第7話 ピザパーティー
203号室に置いてあるテーブルはそれほど大きな物ではない。
ピザの箱を四つも置いてしまうと、それだけでいっぱいになってしまった。
うかつにそこに飲み物の入ったグラスを置くと、なにかの拍子に倒してしまいかねない。
床に落ちるならまだ良くて、最悪の場合、まだ熱々のピザをびちょびちょにしてしまうことだってあり得る。
そんな愚は犯したくないから、最初からグラスはピザとは離して置く。グラスを床に置いてしまえば、倒しても拭くだけで済む。
「理希くんは何飲む?」
「アイスコーヒーにしようかな」
「ミルク入れる?」
「いや、いらない」
「おや、珍しい」
俺はいつも少量のミルクをコーヒーに入れる。砂糖は入れない。
中学生の頃はブラックにハマるという時期もあったけれど、それはすでに卒業した。
ちなみに、再びミルクを入れるようになったのは、ここに出入りするようになるより前。
つまり彩紗は、典型的な中二病だった俺を知らない。思い出すたびに恥ずかしくなる過去を知られていないのは、なかなか幸運だと思う。
「ピザはいろんな味があるけど、苦いのはないだろ? だからそれをコーヒーで補うというか、口の中をリセットできるようにしておくっていうか」
「なるほどね。私はここは思い切ってコーラだな」
「大量のピザとコーラか……」
俺の脳裏に浮かんだのは、ネットでたまに見かけるあの画像。
アメリカ人の太った男が、どでかいピザとコーラのボトルを前にサムズアップしている画像だ。
ちょっと引いてしまうレベルで不健康を追及したような食事と、なぜか自信満々な笑顔の対比が癖になるあの構図を、つい脳内で彩紗の姿に置き換えてしまった。
……まぁ、彩紗なら許す。
「今日は台風だからさ。特別ってことで。普段はやらないよ?」
台風の日に妙にテンションが上がるのはわかる。
俺だって、今日はいつもよりわくわくしている。
たぶん、いつもの見慣れた街並みが姿を変えているからだろう。ちょっとした非日常感が楽しい。
それにしても、彩紗は台風を満喫しすぎな気もする。旅行にでも来たかのようなはしゃぎっぷりだ。
飲み物を準備したところで、ピザの箱を空ける。
熱と一緒に、焼けたチーズのにおいが部屋いっぱいに広がる。
それだけで幸せな気持ちになる。しばらくはピザを食べず、この香りを堪能するだけで十分かもしれない。
しかし、そんな楽しい開封の儀も、その箱を開けるまで。
それを開けた途端、異臭とも言えるレベルのにおいが部屋に充ちた。
「これがスコーピオンピザか……」
スコーピオン――一部マニアに人気がある死ぬほど辛い唐辛子の一種だ。
ピザの表面にパウダーが少しかけられている程度だが、それでも鼻がムズムズしてくる。これを口に入れたらどうなるのか……好奇心より恐怖を感じてしまう。
「説明書きがあったよ。読むね……辛さはスコヴィル値という単位で表されます。一味唐辛子のスコヴィル値は五百から一千、タバスコは数千ほどです」
「なんかバトル漫画みたいな数値だな」
「軍用の催涙スプレーは三十万近くになります」
「五十三万とか言われたらどうしようかと思った。それでも最強レベルだな。さすが軍用」
「当店で使用しているスコーピオンは、百万を軽く超え、特に辛い個体によっては二百万に達します」
「催涙スプレーって非殺傷武器だよな? その数倍ってことは、もう殺傷能力あるだろ」
食べ物というよりは、毒物と言った方がいいかもしれない。
「このピザは、そんなスコーピオンの粉末を表面にたっぷりかけており、辛い物好きのお客様を必ず満足させられる自信があります――らしいよ」
俺も彩紗も、辛い料理は好きだ。
とはいえ、マニア的に辛い物が好きなわけではない。辛さなんてなんぼあってもいいですからね……というほどではないのだ。
こんなの買ってしまって、大丈夫だろうか?
「ってことで、このピザの魅力がわかったところで、さっそく食べようか」
俺はしり込みしているが、彩紗はどうやらわくわくしているようで、軽い動きでスコーピオンピザに手を伸ばした。
八等分にカットされたピザの一つを掴む。すると、先端の尖った部分からとろけたチーズが垂れ下がってきた。
それを落とさないようにそっと持ち上げ、口で受け止める。
「あ~、おいしい……」
と、満面の笑みで幸せそうに言う。
しかし、その次の瞬間。
「あ、これヤバい……」
顔から滝のような汗が一気に噴き出して来た。
「げほっ、がはっ、がっあっ………………」
そしてむせこみ、咳が止まらなくなった。
たぶん体が、スコーピオンの粉末を追い出そうとしているのだろう。無意識の防御反応だ。
彩紗は席が収まると、コーラを一気に飲んで口の中を洗おうとした。
スコーピオンで傷ついた粘膜に炭酸は厳しそうだが、それでも彩紗はがぶ飲みした。
「大丈夫か?」
「まだ口の中がひりひりする。こんなにコーラ飲んだのに」
さっき読んだ店の説明書きの下部には、注釈があった。
――辛さの単位であるスコヴィル値とは、エキスをどれだけの量の砂糖水に入れれば辛くなくなるか。ということです。スコヴィル値百万は、エキス一グラムを百万㏄の砂糖水で希釈しないと辛くなくなりません。これは平均的な家庭が入浴に使う水の四日分に相当します。
ってことは、満タンにしたバスタブに一滴スコーピオンのエキスを垂らしたら、その水が辛くなるってことか?
敵国の川にスコーピオンばらまく作戦があってもおかしくないレベルの兵器だろ。
「理希くんも食べなよ……」
彩紗は汗を拭きながら、まだ紅潮する顔で食べかけのピザを俺に差し出して来た。
「……やめておこうかな」
「そう言わないで。私も食べたんだからさ。ほら、あーん」
と、いたずらな笑みでピザを俺の口に突っ込んで来る。学校では割と優等生みたいな顔をしている彩紗が、こんな顔をするのは俺の前でだけ……そう思うと、つい幸せな気持ちになって、口を開けてしまった。
そこへねじ込まれたピザは、一瞬にした俺の口内環境に甚大な被害を与えた。
あまりの辛さ悶え、苦しみ、ひとしきり笑った後、彩紗はスコーピオンの箱の蓋をそっと閉めた。
それから冷蔵庫にしまってしまった。
もう少し食べるか、それともいっそ捨ててしまうかは別にして、今は見ないようにしよう、ってことだろう。
それには賛成なので、俺もスコーピオンのことは頭から追い出すことにした。
「さて、時間はたっぷりあるけど、なんか観るか? 時間はあるから、アニメをワンクール全部観るとか、シリーズ物の映画を順番に観ていくとか」
「ちっちっち、甘いなぁ。理希くん。台風の時はニュースだよ。外がどんなひどいことになっているかの中継を見ながら、窓の外を長め、安全な家の中でおいしいものを食べるんだよ」
「退廃的な遊びだなぁ」
しかし定番と言えば定番だ。
テレビを点けると、ちょうどお昼のニュースの時間。
他県で道路が冠水し、いつもの道が腰の高さまで水が上がっているという映像を見る。
もしかしたら、この辺もこうなるかもしれない。と思うとちょっと心配になるが、彩紗は能天気に、
「うわ、すごいよ。階段が滝どころじゃなくてウォータースライダーみたいになってる。もう段差もわかんない!」
と映像を見ながらはしゃいでいる。
「あ、なんかこの辺の風もさっきより強くなってきた気がしない?」
テレビから窓の外に視線を移すと、外からはびゅうびゅうと激しい風の音が聞こえてくる。
窓から見えるところにある木が、風にあおられ怖いくらいに大きく揺れていた。
「あの木、折れやしないだろうな?」
「え~、大丈夫でしょ?」
「なんかイヤな予感がするんだけど」
「気にしすぎ気にしすぎ。それより、この風ってどこまで強くなると思う? まだこれからが本番なんだよ?」
テレビのニュースでは、中継から今後の進路予想に切り替わっていた。
「あれ、なんかこのあたりに直撃しそうじゃない?」
「ね! これすごいよ、本当にこの真上を通過するかも! 直撃したら人生で初めてかも」
「たしかに、記憶にある限りではここまでの直撃はないけど」
うちの県は、あまり台風が来ることはない。せいぜい年に一回あるかないか。
来たとしても、弱まっていることが多い。
非常に強い勢力を保ったまま直撃するというのは、十年、二十年に一回あるかないからしい。
彩紗が台風に対してのんきなのは、彼女にとって台風とはテレビの中の出来事で、自分の経験としては知らないからだろう。
ちなみに俺は、家族旅行で離島に行った時に、台風の直撃でひどい目にあるので、彩紗よりは台風の怖さを知っているはずだ。
今日の彩紗のテンションの高さはちょっと気になるが……まぁ、勢いに任せて家の外に飛び出していかない限りは別に問題はないだろう。
そうしてしばらくはニュースを見ていたが、やがて内容が一巡して、同じ被害映像が流れるようになると急激に飽きた。
「ゲームでもしようか」
ということになり、あのレースゲームでオンライン対戦をすることにした。
週末で台風の日なので、いつもより人が多い気がする。簡単にマッチングできて、しかもいつもより玉石混合。弱い人も多い気がして、ちょっと成績が良い気がする。
勝率を上げるには、強い人がいない時間を選ぶのも大事なのかもなぁ。
ゲームの合間に外を見ると、まだ早い時間なのに、外はかなり暗くなっている。
そして風も雨もさっきより強くなっている。窓に当たる雨粒は、まるで殴っているかのような音を立てている。
「絶対に外に出るなよ?」
「出ないって。私をなんだと思ってるの?」
そう言い、彩紗はシーフードピザを手にして、テレビを再びニュースに変えた。
ちょうど進路予想をしていた。それによると、ここに直撃するのはほぼ間違いなさそうだ。
だんだん他人事ではなくなってきたな。
「被害が大きいところは大変だねぇ」
しかし、彩紗はまだまだ他人事感覚。
それから今度は映画を観る。
ちょっと前に流行った恋愛物で、結構濃厚な大人なシーンがある。
それも結構な頻度で。
もし実家で観ていたら微妙な空気になるだろうが、彩紗と二人で観ていれば、まだ違った感じになる。
まぁつまり、触発されてしまう。
「彩紗」
大好きな人の名前を呼び、後ろから抱きしめる。
「どうしたの、理希くん?」
「言わなくてもわかるだろ?」
「映画より、私のこと見つめたくなっちゃった?」
「そうだよ」
そう言いながら彼女の手を握り、指を絡ませる。
それから唇を重ねる。さっきまで食べていたピザのチーズのにおいがまだ残っている。
「まだ夜は長いよ? そういうのは、もっと遅い時間の方がいいんじゃない?」
「もう我慢できない」
「甘えんぼさんだなぁ、理希くんは。うん、じゃあいいよ」
それからもう一度キスをした。
外からは、さらに強くなっている風の音が聞こえてくる。きっと今外に出たら、地獄を体感することができるだろう。
でも、彩紗と二人でいられるこの部屋の中は天国だった。
――この瞬間までは。
唇を離し、彼女の耳を甘噛みしようとした時だった。
突然、部屋の中が真っ暗になった。
電気が消え、映画が垂れ流しになっていたテレビも消えた。
停電が起きたのだ。
楽しいお泊りデートのはずが、いつ復旧するかもわからない暗闇の中に放り出されてしまった。




