第23話 二年前
203号室のソファーに彩紗が座っている。
両膝を抱え、目をどこか遠くを見て、無言を貫く。
俺がこの部屋に出入りするようになったばかりの頃の彩紗を思い出す。
あの頃は、すでにピークを過ぎていたとはいえ、まだ精神的に参っていた。受験勉強を始めつつも、たまにこうやって精神的な休憩を必要としていた。
その頃を彷彿とさせる落ち込み方だ。
俺はココアを作って彩紗の前に置いた。
彩紗はしばらく湯気が動くのを眺めていたが、少し冷えた頃にカップを手にし、一口飲んだ。
「ありがとう……助けてくれて」
「先生が来るって言って散らせたことか? なんだ、気付かれてたか」
「理希くんの声だったもの。近くで見守っていてくれた、ってわかって心強かったよ」
「それくらいしかできなかったけどな……」
彩紗に逆恨みしたポニーテールたちは、その後、彩紗の悪い噂を広めた。
その噂の広がり方は、少し異常なほど速かった。
昼休みの時点で、うちのクラスだけでなく、隣のクラスなどでも知らぬ者はいないという勢いで広まっていた。
そう言えば以前、ゴシップに興味がない小野が、噂の一部を知っているということがあった。
どうやら噂は以前から水面下で広まっていたらしく、真偽不明で保留されていただけだったようだ。
そこへ同じ中学だったポニーテールが”真相“を語り出したことにより、一気にブレイクした……ということだろう。
彩紗や藤巻さんは、有賀に対し、何とかするように頼んだ。
そもそも有賀に原因があるのだから、やつには解決する義務がある。
有賀はポニーテールたちに対し、今からでも噂を否定ように言ったようだが……どうもそれは、火に油を注ぐ結果にしかならなかったらしい。
有賀が彩紗のコントロール下にあるという印象を野次馬に与え「どうやらただの噂じゃなくて、真実らしいぞ」とさらに加速して広まっていった。
その結果、彩紗はあっという間に、不登校だった二年前のような状態に戻りつつある。
この状態からがんばって立ち直り、クラスの上位に上り詰め、これ以上ないほどうまく立ち回っていたのに……たった一日で台無しになるなんて。
悔しいし腹立たしい。
でも、そんなことより彩紗が心配だ。
「彩紗、気にするな……とは言わない。気になるのはわかる。全面的に有賀も悪いと思うが、タイミングが悪い提案をした俺にも一部非がある。だから……まず謝りたい。ごめん」
「理希くんは悪くないよ。助けてくれたし、今もこうして一緒にいてくれてる。私の味方でいてくれてるもん」
「俺はいつでも彩紗の味方だよ。それで、味方として彩紗に提案なんだけど……今年の残りの登校日はいっそ全部休んだらどうだ?」
「……え?」
「期末テストも終わったし、勉強に関しては、残りはたいして大事じゃないだろ? なら、学校に行かずに、噂が静まるのを待ったらどうだ? 体調不良ってことにして、クリパも欠席。次の登校は年明け。きっと、もうみんな忘れてるぞ」
「それができたらいいんだけど……でも、できないよ」
彩紗は弱々しく頭を振った。
「ここで休んだら中学時代と同じ。あの頃の私は一度休んだ後、もう二度と中学に行けなかった。高校ではそうなりたくない……」
「ならないために、早く休むんだ。前ほど追い詰められる前に。それに、今度は最初から俺もいる」
「理希くんがいてくれるのは心強い。だから……休むんじゃなくて、学校に行く道を選ぶよ」
「でも……」
「それに、ここで休んだら、また何かあった時に、いつも逃げなきゃいけなくなる。立ち向かう癖をつけておかないと」
いいじゃないか、どうしてもツラいことからは逃げ出して。
俺は二年前の彩紗を知っている。またあんなことになってほしくない。あれに近づく道は選んでほしくない。
でも、彩紗ががんばろうとしているのに、絶対にやめろと言うのもきっと違う。
だから俺は、彩紗を抱きしめた。
力いっぱいに、何があっても一人にしないという気持ち、言葉ではない方法で伝えたくて。
「ありがとう、理希くん。理希くんがいるから、私は中卒の引きこもりにならずに、高校に通えてるんだよ。だから、これから少しがんばろうって思えるんだ。見ててよね?」
「ああ、もちろん」
「ねぇ、理希くんは、私の中学時代の噂ってどれくらい知ってる?」
「……噂はいろいろ。でも、何が真実かは知らない」
「そっか……いい機会だから、話しておこうかな。当時のことを」
そうして彩紗は二年前の春のことを語り出した。
★★★
「良いことが悪いことか、今となってはわからないけど、当時の私はすごくモテた」
彩紗は二年前を振り返る。
嫌味でもなんでもなく、実際に彩紗は人気があった。
俺も彩紗のことが好きな一人ではあったが、小学生の時にフラれていたし、かたや学年一の人気者、かたやただのオタク。
この時にはすでに別世界の住人という感じだった。
「告白されたことは何度もあった。当時の私は理想が高いっていうか、物語の中の王子様みたいな人以外に興味がなかったから、全部断っていた。今思うと、ずいぶんと子どもだったなぁ」
そう言って自嘲気味に笑う。しかし、その笑いはすぐに消えた。
「三年の春、二人の男子に同じ日に告白された。これがすごく悩ましい話で……一人は、当時の私の親友の彼氏。……ううん、私に告白するため、親友と別れたらしいから元カレか。もう一人はモデルとして芸能事務所と契約してるらしい人で、校内でとんでもない人気があった」
「選り取り見取りってやつだな」
「でも、私はどっちも選ばなかった。親友の元カレと付き合ったら、私と親友の友情は終わる。芸能事務所の方と付き合ったら、その人のファンから嫉妬で刺される。どっちも最悪。だから両方断ろうとしたんだけど……どっちを断っても、面倒になる気がした。あたしと付き合ってほしくはないけど、自分が好きな人があたしにフラれるのも見たくないって空気があってさ」
部外者はいつだってわがままだ……と言って、彩紗は大きなため息を吐いた。
「それで、どうしたんだ?」
「保留した。どっちからの告白も、返事まで時間をもらうことにした。とりあえず先送りにして、ほとぼりが冷めるのを待とうとしたんだけど……あれは悪手だったなぁ」
彩紗は乾いた笑いを漏らした。
「どっちの男たちも黙って待っていてくれたなら良かったんだけと……相手を出し抜こうと猛アプローチをかけてきてさ。私はそれらを躱し続けてたんだけど、それが周りからはイケメンたちを手玉に取り、弄んでるように見えたらしくて、ヘイト買ったらしくて。まぁ……なんていうの、変な噂流されてイジメ……みたいなのが始まっちゃって。それである日……学校に行こうとしても…………足が動かなくなって………………」
彩紗が今にも泣きそうになったので、俺はまた彼女を抱きしめた。
彩紗は涙を堪えながら俺の体を抱きしめ返してくる。
「いろんなひどい噂があったのは知ってる。噂が一人歩きして、いろんなバージョンがどんどん増えて……ひどいものは本当にひどかった」
「うん……まぁ、今となっては、良いこともあったと思ってるよ。あれがなかったら、理希くんと仲良くはなれなかったと思うから」
「その前から、俺はずっと彩紗のことが好きだったんだけどな」
「一度フってごめん。あの時に理希くんと付き合っていれば、何もトラブルは起きなかったのにね……」
「その頃の俺は彩紗にふさわしい男じゃなかったからしかたない」
今の俺がふさわしいかも、たまに自信がない時がある。
だからこそ、ふさわしい男になろうとがんばれる。
がんばる理由、そのためのエネルギーを与えてくれるのが恋のすごいところだ。
もしかしたら、人類がここまで繁栄できたのは恋の力のおかげなのかもしれない。
「あの噂の何割が高校で再燃するかわからない。新しいバージョンが増えるかも。でも、それは覚悟の上。地元の学校を進学先に選んだ時点で、何もないとは思ってない。だから、私は今度こそ耐え抜く。あの頃とは違って理希くんがいてくれるから、きっと大丈夫。こんな問題なんて軽く乗り越えて、理希くんのおかげで、こんなに強くなったって証明してみせるの」
そういうことを思えるだけで、彩紗がとても強くなっているのは疑いようがない。
だから、今の彩紗なら、本当に乗り越えられるんじゃないかという気がする。
もちろん不安はあって、できるだけしっかり守ってあげたいが……過保護もよくない。
自分で乗り越えたいと言うのなら、できるだけそうさせないと。
俺が彩紗にふさわしい男になりたいと思っているのと同じように、彩紗も俺にふさわしい女になりたいと思っているのだろう。
「ムリだけはするなよ。ヤバいと思ったら、いつでも助けを求めてくれ」
「うん。もしもの時は遠慮なく助けてもらう。私の王子様に」
今日は金曜日。
月曜日にどうなっているか……だな。
噂が収まっていてくれたら、それが最高なのだが。
そうでなければ……。




