1.新入社員・霧島郁美の見た風景
霧島郁美は当初、自分が配属された部署に不満を持っていた。
彼女がその会社に入社した時に希望したのはデザインの仕事で、それはいわゆる色や形状という狭義の意味ではなく、商品のコンセプトを考えどんな客層をターゲットにしてどう売り込むか……といった、総合的な意味でのそれだった。
彼女はその為の勉強もして来たつもりだった。もちろん、初めからそんな仕事を任されるはずがないのは分かっていたが、入社すれば最低でもそれが学べるポストには就けるだろうと考えていた。面接の席で自分の意欲を伝えた時の重役達の反応は良く、明確なビジョンを持った彼女を彼らは高く評価したからだ。
ところが、実際に彼女が配属されたのはシステム運行部だったのだ。運行であるにもかかわらず開発や改修も行ってはいるが、やはりメインは運行で、どうにもデザインの仕事などありそうにもない。
“何かの間違いじゃないのかしら?”
と、彼女は戸惑ったが、話を聞いた限りではよくある事らしい。或いは、デザインの仕事が誰か他の新人と被ってしまい、審査の過程で落とされてしまったのかもしれない。
“自分のやりたい仕事ができないのなら”
そう思って、彼女は退社する事すら少し考えた。
がしかし、そんな彼女の浮かない表情が見抜かれたのか(彼女自身は隠しているつもりだった)、それとも彼女の本来の希望を知っていたのかは分からないが、彼女の“教育”についての責任者であるという技術主任の城之内という男は、彼女との初めてのミーティングの際にこう言ったのだ。
「君はとても幸運なのだよ」
それははっきりとした大きな声だった。そこは打合せコーナーで、その両隣のブースでは複数の社員が何らかの話し合いをしていたものだから、彼女はその声を聞かれやしないかとちょっと心配した。別に聞かれても何も困らないのだけれども。
どうやらその城之内という男は基本的に声の大きな男のようだった。態度もいかにも自信あり気で頼りになりそう。多少は暑苦しく思えるが、こういうのもリーダーの資質の一つと言えるだろう。
城之内はシステム部に似つかわしくないスポーツマンタイプの外見をしていて、肌は健康的なこげ茶色に焼けていた。スキューバダイビングか、マラソンでも趣味にしているのかもしれない。恐らく年齢は既に三十代後半に入っているだろうが、若々しい雰囲気が全身から感じられ“好青年”ならぬ“好中年”という言葉を彼女は頭の中で自然と思い浮かべていた。
「君はここで社会を生き残る上でとても有用な情報技術のスキルを身に付けられる。それはとても大きな君の基礎力の一つとなるだろう」
朗々としたまるで演説でもするかのような口調で城之内はそう彼女に語った。その年、システム運行部署に配属された新人は彼女一人だけだったので、彼女一人だけの為になされるとても贅沢な演説だ。
「技術力さえ身に付けられれば、例え会社が潰れたとしても困る事はないんだよ。応用範囲が広いからね。それに、どんな仕事をするにしても今やインターネット等の情報技術の活用は必須だ。身に付けておけば、必ず役に立つ。
……いや、もっと能動的に“役立たせられる”と言うべきか。スキルというものは、使う機会を待つのではなくて、自分から使っていくべきものだからね」
その演説のような彼の言葉は、霧島郁美にはとても説得力があるように響いた。仮に遠回りでも、自分のやりたい仕事へと繋がっているのであれば、やってみる価値はあるのかもしれない。そう思えた。
「それはデザインにも関係しますか?」
それで気付くと彼女は自然とそう口を開いていた。
「デザイン?」
「はい。単純な意味でのデザインではなくて、何と言うか商品のプランニングとかそういう意味で……」
先にも述べたが彼女の希望を城之内が知っていたのかどうかは分からない。しかしそれを聞くなり彼はまるで“待ってました”と言わんばかりのタイミングで「うーん」と多少大袈裟なアクションでゆっくりとガッツポーズのように拳を握り締めると、「素晴らしい!」と、そう言ったのだった。
“なにが?”
と、彼女は不思議に思う。
「それなら当にうちの部署が適しているよ。もちろん、扱うのはシステムだが、システムというのも一つの“商品”だからね」
「でも、運行部署なのですよね?」
システムを開発するのは開発部署のはずだ。ところがそれを聞くと、まるで無邪気な子供に秘密の魔法の話を打ち明けるような態度で彼はこう答えたのだった。
「もちろん、開発部署が開発のメインだ。しかし、ユーザの要望を直接聞くのはうちがメインなんだ。そして、そのユーザの声をただそのまま伝えるだけでは仕事としては三流なのだよ。
その要望をどう実現するのか、ユーザと開発の双方に働きかけて、コストやメリットやリスクを勘案し、ベストソリューションを提案するというのが僕らの仕事の一つでもある。それは君の言うところの“デザイン”の仕事でもあるのじゃないか?」
その彼の演説に彼女はすっかりと感動してしまった。そして、“確かにその通りだ。もしかしたら、だからこそ私はここに配属されたのかもしれない”とまで考えたのだった。
もっとも、配属を決めた人事担当者達は恐らくはそこまでは考えていないだろうが。
ただ、その城之内の説明のお陰で、彼女・霧島郁美はその運行部署での仕事に俄然やる気を出したのだった。
“この城之内という技術主任の下でなら、有意義な仕事ができるに違いない”
そう自信を持った。
新人らしい初々しさ。期待と不安に踊る心。謙虚な心は忘れずに、しかし、同時に冒険心も大切にしなくてはいけない。
取り敢えず、この職場で責任感と使命感を持ったエキスパートを目指そう。きっと自分の周りにはそんな先輩達で溢れているに違いないのだし!
が……、
「それじゃ、技術的な事は彼に聞いてくれたまえ」
そう城之内から言われた。
それは技術主任の城之内との感動的なミーティングが終わって自分の課に戻った直ぐ後の事だった。
そう言われて紹介された男は彼女の右斜め前に座っていて、紹介を受けるまで彼女の視界にすら入っていなかった。眠たそうな目、やる気のない動き。猫背で、いかにもむさ苦しい外見をしていて、およそ彼女が考える企業戦士の雰囲気とはマッチしていなかったのだ。
彼の名前は浦田といった。
「はぁ……」
城之内から直々に技術指導を受けられると思っていた彼女はそれで少々落胆した。それはそうだ。自分のような新人がいきなり技術主任に教えてもらえるはずがない。そう自分を元気づけたりして。
「よろしくお願いいたします」
と、社交辞令で浦田に挨拶をする。浦田は聞いているのかいないのか「ん」と言って、それから彼女を見ると「よろしく」とただそれだけを返した。
不愛想な男だ。社交的な城之内とはまるで違う。上手く付き合っていけるだろうか?
彼女はそう不安になった。
それから彼女は席に付いて、パソコンのセットアップの作業をし始めた。手順が確りとまとめられてあってスムーズにそれは進んだのだが、彼女の気分は浮かなかった。そんな様子に気付いたのか、隣の村上という先輩社員がこう尋ねて来た。
「どうしたの? 元気なさそうだけど」
彼女はそれに正直に答えるべきかどうか少し迷ったが、どんな形にせよ自分の要望を伝えるのは大切だと思いこう返した。
「いえ、技術主任の指導を受けられるものだとばかり思っていたものですから、ちょっと残念で…」
ところがそれを聞くと、その村上という先輩は何故か引きつった表情を浮かべて、言い辛そうこんな事を言うのだった。
「え? 主任って城之内さんの? ああ、うん。えっと……、それは……、まぁ、どうだろうね?」
それを聞いた彼女はその意味がよく分からず、怪訝に思った。
もしや、いずれ技術主任の指導を受けられるのか?とも少し考えたが、そんな反応ともちょっと違う。
“……なんだろう?”
浦田という男は技術指導を任されるだけあって、技術力はそれなりにあるようだった。度々、他の社員達が彼に質問をしに来るのだ。そしてその度に淀みなく返している。皆から頼られているようだ。
彼女はそれによって、城之内への信頼を更に厚くした。
“ちゃんと技術のある人を、自分の指導係にしてくれたんだ”
と。
それで彼女は浦田の事も見直しかけたのだが、彼の勤務態度を見て、その気持ちも瞬く間に消えてしまった。
浦田という社員は、他の社員がどれだけ忙しそうにしていてもほぼ毎日定時で上がってしまうのだ。
“普通、手伝うものじゃないかしら?”
優秀で仕事が速いからこそ早く帰れるのかもしれないが、それでも時間があるのなら、大変そうにしている他の仲間達を手伝うというのは自然の発想であると少なくとも彼女は思っていた。
ただし、職場には浦田を責める雰囲気は一切なかった。自分の分の仕事が終わったなら、帰るのは当然の権利。皆はそう考えているのかもしれない。ホワイトな職場という事になるのだろうか。“良い職場だ”と、それで彼女はそう思った。
「あの…… 失礼な話かもしれないのでお伺いし辛いのですが、浦田さん以外の技術レベルの高い社員の方を教えていただきたいのですが」
ある日、霧島郁美はそう城之内に訴えた。
「どうしてだね?」と、それに城之内。すると彼女は即座にこう答えた。
「浦田さんがいらっしゃらない時にどなたに質問をすれば良いかの分からないので、教えていただける人を知っておきたいのです」
本当を言えば、浦田には関わりたくなかったので、彼がいない時に他の人に質問しようと彼女は考えていたのだが。
「なるほど」と、数度頷くと城之内は「この資料を見てごらん」と言って、彼女を呼び寄せて自分のパソコン画面を示す。
「これは私が以前に作った資料なのだけどね」
するとそこには社員の名前が書かれてあって、それぞれバグを生み出してしまった回数が分かるようになっていた。
城之内は一番少なく、浦田も低い方ではあったがそれなりにバグを出している。隣に座る村上は浦田よりも一つ順位が上だった。隣の席の社員の技術力が高いというのは都合が良い。今度からは彼に質問をしよう。そう彼女は考える。
「飽くまでバグを作ってしまった回数であって、それだけでプログラマーのスキルが決まって来る訳ではないが、それでも参考情報にはなるだろう。
特に運行という仕事には安定性が重要だからね」
それを聞き終えると、霧島郁美は大きくお辞儀をしてお礼を言った。
「分かりました! ありがとうございます!」
“やっぱり技術主任は凄い! 一位だなんて!”
そう思いながら。
うんうんとそれに城之内は頷く。
単なる印象ではなく、確りとしたデータで技術主任の実力には裏付けがあるのだ。そう思って彼女は嬉しくなっていたのだ。
そしてそんなある日の事だった。
不意に何やら職場の雰囲気が騒がしくなった。
「これなに?」
と目の前に座っている麻倉という女性の社員が呟く。するとそれに村上が「今、見ています」と反応した。なんの話をしているのだろう? と霧島郁美は不思議に思って、パソコンをちらりと見、メーラーに新しいメールが届いているのに気が付く。
『エラー通知メール』
そのメールのタイトルはそのようになっていた。中を開けてみたが、彼女には何の事やらまるで分からない。ただし、それでも何かまずい事が起こっている点だけは理解した。
「バッチが落ちていますね」
数十秒後に村上がそう言う。
「何の?」
「売上データ送信バッチです」
「原因は?」
「想定外のシステムエラーです。具体的な原因はまだ分かりません。ちょっとソースとデータを追います」
その返しを受けると、麻倉は「木戸さん。売上データだって。時間の猶予はどれくらいある?」と、パソコン画面を見つめながら彼女は隣の男に尋ねる。
「今日中に送ってくれれば大丈夫だね」
木戸という社員はそう直ぐに答えた。予め質問を予測していたのかもしれない。
それを聞いて霧島郁美は時計を確認してみた。時刻は既に18時近くだった。後少しで定時になる。どれだけ時間がかかるかは分からないが、恐らく残業は確定だろう。
「今日中になんとかなりそう?」と麻倉が村上に尋ねる。
頭を掻きむしりながら「いや、ちょっとまだ原因が分からなくて……」とそれに村上は返した。
そのやり取りを見ながら霧島郁美は思っていた。
“これは……、いよいよ城之内技術主任の出番なのじゃないかしら?”
彼女は不謹慎に思いつつも彼の登場を期待していたのだ。
が、
「浦田さん。助けてください!」
村上が助けを求めたのは城之内ではなく浦田だった。彼女は憮然となる。「ん」と返した浦田はどうやら助けを求められるまでもなく既に調べていたようで、パチンとキーボードを鳴らすと直ぐに口を開いた。
「売上日付データが入っていないね。それでヌルポで落ちている。これ、必須項目じゃないの?」
「条件付き必須です。多分、なんかバグがあってチェックが漏れちゃったのじゃないかと……」
「ま、その調査は後にするとして、今は売上日付データのアップデートだな。入力者に連絡を取って入力する日付を聞いて」
そこで麻倉が声を上げた。
「連絡しないで良いわ。待っている時間がもったいないもの。もし、間違っていたら後で対応するから、データの作成日付をそのまま売上日付にしちゃいましょう。毎回、大体、同じなんだし」
それに「ん」と浦田は返す。
「じゃ、後はテスト系にデータを移してきて、アップデート用のSQLをつくってテストして本番系でそれを流してお終いだ。大して難しい作業じゃないよ。
因みに、他に売上日付が入ってないデータはなかったから、それをアップデートするだけでいいはずだ」
そう言いながら浦田は村上を見る。その仕草と表情で霧島郁美は、浦田が後は村上に任せて帰るつもりなのだろうと察した。するとそれを受けた村上はやや怯えたような表情を見せる。
「分かりました。やってみます」
しかしそれでも彼はそう返した。多分、自信がないのだろう。その流れを受けて、彼女は今度こそは城之内が作業を買って出るのではないかと期待した。そしてその期待通り、そこで城之内は立ち上がったのだ。
こちらに向って近付いて来る。
霧島郁美はまるで遅れて登場するヒーローを見つめるかのようなキラキラとした視線を彼に浴びせていた。
ところが、それから彼は真っすぐに浦田の方にまで歩いていったのだ。そして浦田の肩に手を置くと、
「浦田。お前がやってくれ」
と、そう言ったのだった。
それに浦田は顔を引きつらせる。
「いや、城之内。さっき言っただろ? そんなに難しい作業じゃないよ。村上でも充分にできる」
「だが、お前がやるのが一番安全なんだろう?」
「俺の担当じゃないんだぞ?」
それを聞くと城之内は腕を組んだ。「ふむ」と何故かそんな声を上げる。それから、「ちょっとあっちに行こうか」とそう言った。仕方ないといった様子で浦田は席を立つと、城之内と一緒に打合せコーナーに向う。
二人の姿が見えなくなると、小さな声で霧島郁美は村上に尋ねた。
「あの……、どうして城之内さんがやらないのですか?」
それを聞くと村上はキョトンした表情を浮かべて「城之内さんがやるって、もしかして復旧作業を?」と尋ねる。
「はい」
「どうして?」
「今日、城之内さんに見せていただいたんです。バグを起こした件数の資料を。それだと城之内さんが一番バグが少なかったです。一番優秀な人がやるべきなんじゃ?」
それを聞くと村上は呆れたような表情を浮かべて言った。
「あ、見たんだ、あの無意味な資料」
「無意味? 無意味なんですか?」
村上はそれに頷く。
「無意味だよ。だってあの資料、バグを出した数しかなかっただろう? 本来は、バグ発生率を出さないといけないんだよ。多くプログラミングすればバグの数は多くなって当たり前なんだから」
それを聞くと彼女は首を傾げた。
「えっと…… つまり、」
「つまり、城之内さんのバグを出した数が少ないのは、プログラミングしている数が少ないからなんだよ。しかも、あの人、簡単なプログラミングしかしていないし」
「では、浦田さんは?」
「浦田さんは滅茶苦茶いっぱいプログラミングしているよ。しかも、かなり難しいやつを」
その言葉に彼女は軽くショックを受ける。“主任は自分を騙していたの?”。村上はまだ語った。
「多分、もし影響ありの障害になったら、自分の評価が下がるから、浦田さんに仕事を任せたいんだろうさ、城之内さんは。僕でもできるくらいの仕事なのに。
今、打合せコーナーで必死に頼んでいるんだろうな……」
まだ“実は城之内が無能だった”という現実を受け入れられない彼女は、城之内を庇うようにこんなことを言う。
「でも、浦田さんが少し残業すれば安全に復旧できるのでしょう? 城之内さんの判断は正しいと思います。浦田さんは、面倒くさがらないでやるべきなんじゃ…」
ところがそれに村上は「違うよ」と返す。
「面倒くさいからじゃない。浦田さんが毎日定時に帰っているのは、母親の介護の為なんだよ。電話で臨時ヘルパーに頼めばやってくれるらしいけど、けっこー金がかかるらしくってさ。どうやら残業代を貰うよりも遥かに高くつくみたいで」
それを聞いて彼女は何も言えなくなった。
やがてしばらくして浦田と城之内の二人が戻って来る。浦田は強引に説得されたらしく、不満げな表情で「俺がやるよ」と皆に言った。
それから手早く浦田は作業を進め、19時を超えた辺りには大体の作業を終え、報告などの後始末も終えると19時30分には退社をした。
彼が帰ると村上が言った。
「浦田さんには悪いけど助かったな。やっぱり浦田さんがやるのが一番安全で速いから」
心から彼を信頼していることが伝わって来る台詞だ。不思議に思った霧島郁美は尋ねた。
「あの……、浦田さんってそれなりに歳をとっていますよね?」
「うん。城之内さんと同年代のはずだよ。確か一緒の年に入社したんだ」
「なら、どうして、城之内さんが主任で浦田さんには何も役職がないのですか?」
それには麻倉が返した。
「それは簡単。出世するのに必要なのは、技術力よりも政治力だから。自己アピールとかね。あなたが見せられたっていうバグの件数の資料も自分を良く見せる為の城之内さんの策の一つ。後はコミュニケーション力も重要。浦田さん、そういうのないから」
村上はそれに数度頷いた。
「母親の介護の所為で、あまり残業できないって事情もあるかもしれないけど」
その会話を聞いていた木戸が言った。
「いやいや、あの人、そもそも出世とか興味ないでしょう?」
それを合図にするように一同が笑う。
「確かにねー」
と。
それを機に、新入社員・霧島郁美の浦田に対する見方は大幅に変わった。
不愛想だが、皆から信頼されている職人肌の人間。出世に興味ないというのもストイックに感じられ、彼女の中ではプラスになった。そうして、少なからず彼に対して彼女は憧れを持ったのだった。
持ったのだけど……
“介護が必要な母親がいるのよね……”
少し経って冷静になり、こう思う。
“やっぱり、ないわ”




