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「まるで本物みたいだ」
立てかけてある絵を見ながら男は言った。
真っ黒に塗りつぶされたキャンバスの中に、一本の電信柱があった。電信柱に取り付けられた電灯を、多くの虫が囲んでいた。
「まだ途中なのであれですけど」
「これは趣味じゃないよね」
「私、一応美大に通ってて、これは今度のコンテストのために描いているんです」
明るい所で見る物じゃない、と言ったら男は再び電気を消し、絵を照らすための小さな蛍光灯を点けた。
「どうして家で?」
「どうしても暗闇で描きたかったのと、あまり他人に見られたくなくて」
「他人に見られたくない?」
「私の絵、いつも評価が割れるんです。褒めてくれる人は褒めてくれるけど、批判する人はどこまでも批判するし。この絵はそういうの気にせず、自分の思うように描きたくて」
本心では、もうコンテストに応募しなくてもいいとさえ思っていた。
今はただ、この絵を描きたくて描いているだけだった。
「君にとって、描くことが生きることなんだ」
「そうかもしれない」
描かずにはいられなかった。まるで呼吸をするように。
「いいなぁ」
男は電灯に向かって、掌を伸ばす。
このまま男は電灯へと羽ばたいて、引きつけられてしまうのではないかと思った。
「生と死って、常に隣り合わせじゃないですか。でもみんな、それを気付いてるのに気付かないフリして生きていて。私自身もそうなんだけど。だから、生と死がくっきりしている対象があると、ハッとして描き留めずにはいられなくなるの」
男は黙って、ただただ絵を見つめる。
「他の絵もある?」
「作品はみんな学校に置きっぱなしにしちゃってて。スケッチブックでよければ」
目の前にあったスケッチブックを男に渡した。
スケッチブックなんて恥ずかしくて、家族にも先生にも友達にも見せないのに。
男は一枚ずつ、ゆっくり眺めてページをめくる。
一枚の絵で、男の手が止まった。
「これは?」
「あ、これは……」
大学に入学して間もない頃、「生き物」の題で野外スケッチの授業があった。動物園や水族館に行く学生が多い中、結衣は保健所へと行った。
「君らしいね」
「ありがとう」
「この男の人は、保健所の職員?」
スケッチブックに描かれていたのは、高齢の男の横顔だった。悲しいような、冷めているような、どこか眠そうな目で何かを見つめていた。
「うん。これは殺処分の毒ガスボタンを押す人の顔」
男のスケッチブックを見る表情は変わらなかった。
「でも題材が生き物だったから、この絵を本描きにしようとしたら先生に怒られちゃって。結局他の絵になっちゃった」
男は無言でページをめくる。そこには小さく丸まり、上目遣いでこちらを見ている犬の絵があった。
「そう、これ」
「この子も殺処分に?」
「それは分からない。最近はNPOだとか、保護してくれる団体が多くて殺処分になる子は大分減ったって聞いたけど」
「そう。はい、ありがとう」
結衣は男からスケッチブックを受け取った。
男は再び、キャンバスの中の電灯を見上げた。描きかけの絵を、こんなに食い入る様に見られたのは初めてだった。
「結局、長居してしまったね」
しばらくしてから、男は立ち上がった。
「ううん。助かりました。ありがとう」
男は微笑むと、玄関へと歩き出す。
「あの、私コンビニまで送ります」
「道なら覚えているから大丈夫」
「そう……でも、私」
「じゃあ」
男は玄関のドアを開ける。外のひんやりとした空気が入ってきた。
「……じゃあ」
結衣が返すと、事務的にドアは閉められた。
ガチャン。
今まで、目の前に男はいた。男と結衣とを繋ぐ空間が、ギロチンのように切断されたようだった。
結衣はサンダルを勢いよく履き、急いでドアを開ける。
外に飛び出すと、空気は生温く、男の姿はもうなかった。
結衣は走った。サンダルで何度も地面に突っかかり、息が切れ切れになり、それでも全力で走った。大通りに出ても、交差点まで戻っても、やはり男はもういなかった。