【閑話】ハーヴェイ・ラグゼンという男
ハーヴェイ・ラグゼン。
ヴェルムンド王都から南東におよそ二千キロ離れた場所に王宮を構える大国、ラグゼンファード。
その国の現王、サイモン・ラグゼンファードの実の弟の名である。
ラグゼンファードは、ヴェルムンドよりも歴史が長い。
広大で肥沃な土地を持ち、国内に流れるラトゥナ河がその生活を支えている。
年間を通して暑いことが多く、寒さに耐えるのはほんの一ヶ月くらいしかない。
住まう人々は褐色の肌の人が多く、太陽のように明るい国民性を持っていた。
しかし、歴史の長いラグゼンファードとて、その歴史が常に平和かと問われれば違った。
王宮から見て東に、そこそこの国土を持ち、常に南下を目指す国があった。
その国は、東の寒い地域に国を構えており、いつも冷害と戦っていた。
そんな国が、南下した場所にある土地を狙うのも、ある意味では仕方のないことだった。
その国は、ラグゼンファードそしてヴェルムンドに幾度か戦を仕掛けてきたことがある。
狩猟国家のようで、人数こそ少ないが個々の能力が非常に高く、対立したどの国も苦戦を強いられた。
勝敗が付かなかったのは、ひとえに兵糧が保てなかった為である。
ヴェルムンドも、ラグゼンファードも国庫の蓄えが潤沢だったのだ。
その後、戦で疲弊しきった国たちは、和睦交渉を受け入れた。
それがおおよそ、百年ほど前、ヴェルムンドと最後に戦った後のことだ。
それを機に、各国は自国の傷を癒やすために奔走した。
ラグゼンファードとて奔走していたが、ラグゼンファードは国内の諍いの時代となっていった。
ラグゼンファードは、とても大きな国だった。
広大な土地を持ち、河に恵まれ。
それは、他国よりも国を潤わせることに一役買った。
そしてそれらは、人の欲望を増長させてしまうこととなった。
戦争が終わった後、誰もが全盛期に生活基準を戻そうと躍起になった。
そして、それは実る。
前よりも裕福になったのだ。
それによって、一部の人間の欲が増長された。
もっと、もっと資源を、金を、恵まれた生活を、と。
それらは、領地を持つ貴族たちから始まった。
重い税をしき、重労働を課す。
そうすることで、国民が不満を抱くようになっていったのだ。
それは、少しずつ、でも確かに国を腐敗させていった。
サイモン、ハーヴェイの父、先代の王は、悪政を強いる王だった。
税を上げ、国民や貴族の嘆願を聞き入れず、自分の欲の為だけに金を使った。
そんな王に気に入られたいがために、貴族たちも無茶な要望を叶えようと自身の領地から搾れるだけ搾り取ろうとした。
後宮には幾人もの妃たちがおり、色欲に塗れ爛れた生活を王はしていた。
次第に国は荒れ、誰もが王の死を願うようになったころだった。
国庫が傾き始め、心ある官僚が進言したばかりに何人もその命を奪われた。
王の暗殺を企てたものは、見せしめに処刑された。
国民の不満はふつふつを煮えたぎり、今にも爆発しそうなほどだった。
既に、弾ける寸前だったのだ。
そんななか、サイモンがクーデターを起こし自身の父をその手に掛けたのだ。
そして、異母兄弟、姉妹を一人残らず粛清という名のもと屠った。
それは、他の妃たちとて例外ではなく、サイモンは母である正妃もその手にかけた。
国は悪政を強いる王の死に沸いた。
これで、もう苦しい毎日から解放されるのだと。
そうして新たに擁立された王は、見目麗しく王の悪政から解き放ってくれた英雄として、国民に受け入れられた。
―――ハーヴェイは、兄・サイモンの苦悩を知っている。
あの汚泥のような混とんとした王宮の中で、サイモンとハーヴェイは互いが唯一だった。
何人もの異母兄弟姉妹がいるなかで、ハーヴェイとサイモンは成長した。
王子という身分で生まれた彼らは、いつだって大人の悪意にさらされ続けていた。
対外的に正妃の長子であるサイモンが次代と呼ばれていたが、それを気にくわない他の妃や兄弟たちに何度も暗殺されそうになった。
策略と欲望の塗れる場所で、信じられるものが何かわからない状況で、互いのみが唯一信じられた。
正妃の子であるために、王位継承権をもつサイモンとハーヴェイは幾度となくその命を狙われた。
毒を盛られ、暗殺者に襲われ。
それでも生き残ってきた。
―――ハーヴェイは今でも忘れられないことがある。
幼き頃、毒を盛られた。
正妃は狂ったように医者を呼び、なんとか生き残ったのだ。
そして、ある妃が見舞いに来た。
豪奢な扇で口元を隠しながら、ご無事で良かったといった時のその表情は、これ以上ないという醜悪なものだった。
口では身を案じる言葉を吐きながら、心の内では罵詈雑言を吐き捨てていたのだろう。
しかし、それは幼いハーヴェイの心を傷つけた。
生き残ったハーヴェイに、正妃は言った。
貴方は継承権二位なのだから、死ぬのは駄目ですよ、と。
それは、親が子供を心配しての言葉でないことくらい、ハーヴェイにも分かってしまった。
そうして、ハーヴェイは緩やかに壊されていった。
サイモンは、とても良くできた人間だとハーヴェイは思う。
大人になった今ならさらにわかる。
よくもまぁ、あの狂った世界であそこまで人格者と成れたのか。
ハーヴェイには無理だった。
憎くて憎くて、どうしようもなかった。
父である国王は最低であった、それは紛れもない事実だ。
しかし、死だけが贖罪ではないのだとサイモンはハーヴェイに言って聞かせた。
生きて、罪を償うことこそが贖罪なのだと。
そう言う兄が、恐ろしく綺麗なものに見えた。
サイモンは、父に反抗心を持つ者、国の未来を憂うもの、それらを水面下で静かにまとめ上げた。
もちろん、ハーヴェイも手伝った。
この時、サイモンは十七歳、ハーヴェイが十二歳のときである。
ある時、サイモンが一人悩んでいた。
自身の父を手に掛けるのではなく、どうにかして牢獄に入れるくらいで終えられないかと悩んでいた。
死は一時のものでしかなく、生きて償わせることの方が何倍も苦しいことだから、と。
しかし、それでは国民は納得しないだろうということも理解していた。
それゆえに、サイモンは苦悩していた。
だから、ハーヴェイは言ったのだ。
自分がやろう、と。
自分は、父を手にかけることを気にかけていない、だから自分がやろう、と。
しかし、遂に最後までサイモンがその申し出に首を縦に振ることはなかった。
サイモンは、弟の手を穢すわけにはいかないと言って自ら剣を手に取り、そして切り捨てた。
本当は、やりたくなかっただろうに。
出来るのであれば、生きて罪を償ってほしいと思っていただろうに。
それでも兄は、国のために父を切った。
ハーヴェイは、その時の兄の苦悩を目の当たりにしている。
だからこそ、ハーヴェイはサイモンを信じ、敬い、そして絶対とした。
人を殺すことに躊躇いを持ち、それでも絶対的な精神力でねじ伏せることの出来る兄。
あの狂った世界でも、憎しみに捕らわれることの無かった兄。
そんな彼のためであれば、自分は出来る限りのことをしようと。
それが、自分に出来る唯一のことなのだと。
サイモンに愛する妻が出来て、一番喜んだのはハーヴェイだ。
兄は、優しさの人だから。
本当は、一番家族愛に飢えている人だから。
しかし、ハーヴェイはそれを求めようとは思わなかった。
ハーヴェイは、愛を求めてはいない。
そんな不確かなものに、感情を動かされることを良しとしない。
だから、イルミナという少女に目をつけたというのに。
彼女であれば、きっと愛を信じ切ることはできないだろうと思っていたのに。
自分と、同じだろうと思っていたのに。
ハーヴェイは下唇を噛んだ。
兄の為に、何かをしたいのに。
思ったよりもうまくいかない現状に苛立ちしか感じない。
「・・・・・・兄上」
ハーヴェイは、いつだって好戦的な笑みを浮かべる兄を脳裏に思い浮かべる。
――――ハーヴィー、
俺は、お前にも幸せになって欲しいんだ――――
ラグゼンファードを発つ日、サイモンに言われた一言だ。
それを嬉しくも思うし、自分の幸せは兄の幸せ、ひいてはラグゼンファードの幸せなのだと言いたくなる。
それを言って、何度か怒られているのだけれど。
そういえば、クーデターを起こした際、兄の腹心がいた。
彼も、兄と同じように言ってくれていたが、気づいたらその腹心は姿を消していた。
朧げにしか覚えていないその人は、いつだって柔らかい空気を醸し出していた。
そして兄と同じように言うのだ。
ハーヴィー、幸せになることは悪いことではない。
怖がることなんてないんだ。
そう言ってくれたあの人に、自分は何と返したのだろうか。
思いだそうにも、どうしても曖昧な記憶しか出てこない。
「・・・すべては、ラグゼンファードのために」




