ヴェルムンドの双璧の夜
ずっと、ずっと見てきたのだ。
彼女が十の頃から、ずっと。
今でも鮮明に覚えているのだ。
十の少女が、剣を習いたいと言ってきたあの日のことを。
あの、ひたむきな表情を―――。
少女は、家族には恵まれていなかった。
貴族や王家というものを、正確に理解していない自分でさえそう思ってしまうほど、彼女は冷遇されていた。
普通であれば、それによって反抗心が生まれるだろう。
蔑ろにされてひねくれずに育つなど、ほぼ奇跡に等しい。
しかし少女は、その家族のために、国のためにと自身を鍛えることを選んだ。
その選択に、酷く驚いたのを今でも覚えている。
弱音も吐かず、ただひたすらに努力するその姿は、アーサーベルトの目に好印象で映った。
この国も、まだまだ発展する、そう期待させてくれる王女だった。
しかし、長く付き合っていくうちに、彼女のそのひたむきさに心配すらしていた。
自身を追い込むように、生き急ぐようにする彼女は、見ていて痛々しくすらあった。
それからほぼずっと、彼女の傍で彼女を見てきた。
朋であるヴェルナーと共に。
剣術を、政治を、耐性を。
それは少女だった彼女を大人にするには十分な時間だった。
年齢的には子供だが、そのどん欲な意欲と知識量は講師たちすらも唸らせるほどだったと聞いている。
そんな彼女が少しずつ認められていくことに、アーサーベルトは安心と共に歓喜した。
しごいたあの日々から、彼女がもっと他の人から認められ愛されることを一番に望んでいたのは、他ならぬアーサーベルトだった。
日々たゆまぬ努力をする彼女に、生涯の剣を彼女に捧げようと思うくらいには、彼女に傾倒していた。
だからこそ、自分を大切にしてほしかった。
沢山の人に、彼女を認めてほしかった。
この先も、彼女の見据える国を一緒に見たかったから。
しかし。
ある時気付いてしまったのだ。
ヴェルナーが少しだけ強張らせるその表情の意味を。
そんな時は必ず、彼女から少女らしさを喪わせている時や、己の身を顧みずに何かをしようとしている時だと。
そして、そういう風にしてしまった、自分達の罪を認識しているのだと。
そして、怖くなった。
彼女は、いつか、壊れてしまうのではないかと。
一度目は、ライゼルトだった。
どうしようもないことだった。
いくら自分が最強と呼ばれようとも、どうしようもないことだった。
役立たずと、自分で自分を詰った。
彼女の為に何ができるのか、それすらも思いつかず茫然としてしまった。
感情を消したあの笑みを、アーサーベルトは今でも忘れられない。
しかし、泣き顔を見せなかった彼女は、知らない間に一人で立ち上がってしまっていた。
自分の出る幕など、なかったのだ。
二度目は、宰相だった。
今思い出しても、腸が煮えくり返る思いという表現はこういう時に使うのだろうと思うほどだ。
本当に身内とも呼ぶべきものが、あんな・・・。
確かに救出はしたが、彼女はぼろぼろになっていた。
いつも頑張っていた彼女のその姿に、涙が堪えきれなかった。
そんな彼女を支え続けたのはライゼルト辺境伯だった。
そして、彼女はやはり自分達に泣き顔を見せることなく立ち上がった。
そして三度目。
国内の貴族を失脚させるためだけに服毒した。
勝算はあったと思うが、それでも自身の身を躊躇いなく使ったその姿。
そして、愛してほしいと願っていたであろう家族を、自らの手で切り捨てるその行為。
涙を零すことなく淡々と行うその姿に、言葉にできない恐怖を覚えた。
そして。
あの、ラグゼンファード王の弟。
ハーヴェイ・ラグゼン。
あの男は、自分の大切な陛下の傍に居てはならない人物だと直ぐにわかった。
微かにだが感じる、ほの暗い影。
男は、まっとうな道を歩んできていないのが直ぐにわかった。
だからこそ、なおのこと彼女の傍には置いておきたくなかった。
しかし。
自分が傍に居なかったせいで、彼女は追い込まれた。
―――吐きそうだった。
自分が、彼女を守るためにいる自分が。
守れずに彼女を追いこんでいる。
その事実は、アーサーベルトを打ちのめした。
守ると誓っておきながら、なんてザマだと。
自分自身に対する怒りでどうにかなりそうになっていた時。
彼女はやはり自分達に悲しみの涙を見せることなく立ち上がった。
ライゼルト伯を傍において。
もしかしたら、と希望を抱いた。
誰一人として、彼女は人を傍に置こうとしない、その彼女が、ただ一人例外を作ったのだ。
もし、彼女に、唯一ができたのであれば。
そして、彼女が婚約を決めた。
その相手は、グラン・ライゼルト。
―――彼女が、心を許している相手。
そのことを知った時、アーサーベルトは涙した。
嬉しかった。
彼女が、愛する人を求めたことが。
そして、彼女をただ一人として愛してくれるその人がいてくれたことに。
恥ずかし気に頬を染めるその姿は、息を飲むほどに美しく、活力に溢れているように見えた。
いきなり懺悔し始めた自分は、自分に都合のいい人間だと分かっている。
彼女は、自分を責めたりなどしないと。
それでも、自分の中で赦せなかった。
涙を流しながら、いてくれて良かったと言ってくれるその人に、言葉にできない想いを溢れさせる。
胸が熱くなり、みっともなく泣く。
本当に、よかった。
心の底からそう思う。
彼女と出会わせてくれた天に、今なら感謝してもいい。
苦労ばかりではなかったが、それでも幸せかと問われると即答できない自分の人生。
それを、彼女はその存在だけで価値のあるものにしてくれた。
「ヴェルナー?」
イルミナの部屋を退室し、自室に戻ろうとしたすぐその角に、ヴェルナーは立っていた。
仕事があると言っていたが、何かあったのだろうか。
そう考えていると、ヴェルナーは苦痛に満ちた表情を浮かべていた。
「ヴェルナー、どうしたんだ?
何かあったのか?」
彼のそんな表情を見たアーサーベルトは、早足で傍による。
しかし、それから逃げるかのようにヴェルナーは一歩足を引いた。
「・・・どうした」
「・・・陛下は」
ぽつりと零された言葉に、アーサーベルトは目を見開いた。
いつになく消沈したその声音は、今までに聞いたことがないほどだ。
「陛下は、ライゼルト殿といる」
「・・・そうか」
アーサーベルトの言葉を聞いたヴェルナーは、心臓でも痛いのか、ぎゅうと胸元の服を強く握った。
その様子に、アーサーベルトはまさか、と思う。
「ヴェルナー、お前、まさか」
「言わないでくれ」
即答するヴェルナーに、アーサーベルトは衝撃を受ける。
彼の、その姿はまるで。
「頼む・・・言わないでくれ」
苦しそうに言うヴェルナーに、アーサーベルトは何も言えなくなる。
「・・・今夜はもう終わりなのか?」
「・・・あぁ」
「飲もう、ヴェルナー。
喜ばしいことがあったんだ、祝い酒でも」
「・・・そう、だな」
その泣き笑いにも似た表情を、アーサーベルトは脳裏に焼いた。
**************
彼女の存在を認識したのは、いつだっただろうか。
勉学に励み、アーサーベルトという朋ができ、そして鼻っ柱を叩き折られた後だというのは覚えている。
ちゃんと話したのは四阿の時だが、彼女の存在自体はそれよりも前に知っていた。
―――ヴェルムンド国の、陰気な第一王女、という噂話とともに。
しかし、実際に会ってみてなんとかけ離れた噂なのだろうと思った。
だが、人とあまり交流を持っていないせいもあるのだと気付いた。
そうならざるを得なかったのかもしれないが。
彼女は、勤勉だった。
自分も悪くないと思っていたが、彼女はそれとは違う方向で素晴らしかった。
国の為に、あの年齢であそこまで考えられるなんて、と内心では嫉妬すらした。
ただ、正直にいって毒はやりすぎだとフェルベールに怒鳴られた。
長期的にやるものを急ぎ過ぎだ、どうしてそこまで焦るのだ、と。
確かに、焦りすぎた感はあった。
しかし、どんなに辛そうにしていても涙を零さず弱音を吐かない彼女であれば、大丈夫だと思ったのだ。
彼女はアーサーベルトの稽古でも泣くことは無かったと聞いていたから。
しかしそれは違ったのだ。
知らなかった、その言葉はなんて甘美で罪深いものなのだろうか。
しかし、ヴェルナーは知らなかった。
彼女が、虚勢を張っているだけだなんて。
内面は、普通の女の子と何ら変わりがないなんて。
彼女が頑張れば頑張るほど、その異質さを感じた。
本当であれば、泣いてもおかしくないというのに、彼女は泣かない。
文句も、愚痴一つすら零さない。
それが、彼女の歳にしては異常なことだと気付いたのはいつだっただろうか。
一度目に、女王になる夢を絶たれた時のその姿は、悲愴という言葉を体現したかのようだった。
何も出来ない自分に苛立ちを覚え、頼りにしてくれない彼女に憤りもしたのだ。
しかし、泣きも怒りもしない彼女を見て、恐ろしさすら感じた。
そして、こうしてしまったのは自分なのかもしれないと思い始めた。
あの時、子息と第二王女の状況をもっと正確に把握していたのであればと何度思ったことか。
アーサーベルト一人に任せきるべきではなかったのだと。
その後も、毒耐性をつけていたために宰相によって盛られた毒の解毒がうまくいかなかったり。
その目論見を看過できなかったり。
―――自分の無力さばかりを顔面に叩き付けられた。
挽回する機会をくれたのは、公爵たちだった。
彼女がいない間、うまくやれと。
そしてそのあとには、彼女自身が自分に託してくれたものもあった。
嬉しかった。
帰って来た自分の安全を確認して、微笑んでくれた。
その言葉に胸を熱くしたが、それはただの歓喜からだと思った。
彼女が、愛する人を見つけた。
心臓が、何かに刺されたかのように痛んだ。
上手く表情を作れず、急ぎもしない仕事を理由に退室した。
喜ばしいことだ、そう言い聞かせる。
―――なぜ、言い聞かせているのかを考えずに。
一人で黙々と歩いていると、見慣れた四阿に着く。
そして、彼女がいつも座っている椅子の前に立った。
不意に思い出す、色鮮やかともいうべき思い出たちが、ヴェルナーの胸を打った。
人形のように表情の無かった彼女、少しずつ浮かべるようになった笑み。
褒めて少しだけ嬉しそうにする横顔、自分たちだけに向けられる信頼を含んだ笑み。
贈り物をして浮かべた涙、帰還を喜ぶ安堵の表情。
そこで。
そこでようやく、ヴェルナーは胸の痛みの正体に気づいてしまった。
―――――思えば、どうして彼女に自分を頼って欲しいと思ったのか。
それがすべて始まりだったというのに、ヴェルナーは気付かなかった。
気付けなかった。
「―――っ」
今更ながらに、心が鈍く痛み始める。
見てほしい、笑ってほしい、自分を頼って欲しい・・・自分を、好いてほしい。
もう叶わないと分かっていても、そう願ってしまう。
アーサーベルトの昔の言葉を思い出した。
恋は、とてもいいものですと、あの時は笑った。
なんてらしくない言葉をこの男は吐くのだと。
しかし、今ならわかってしまう。
苦しくて、とても、愛おしくて。
報われないと分かった今でも、想ってしまう気持ち。
ヴェルナーは、無意識に彼女の部屋へとその足を戻らせていた。
その姿は、頭脳明晰と誉高い普段の彼からは想像がつかないほど、ふらふらとしたもので。
そして。
「ヴェルナー?」
出てきたアーサーベルトは、自分の表情に気づいて近づいてきた。
しかし、どうしてか体はそれを避けるように後ろへと傾ぐ。
部屋にかの人と共にいると聞き、胸が今まで以上に痛んだ。
「ヴェルナー、お前、まさか」
その言葉で、アーサーベルトに気づかれたことに気づいた。
気付くだろうと思っていたが、どうしてもその言葉だけは聞きたくなかった。
「頼む・・・言わないでくれ」
アーサーベルトの表情が、ヴェルナーの言葉によって痛ましげに変わる。
気付くわけにはいかないのだ。
言葉にするわけにはいかないのだ。
それを、その言葉を一度口にしてしまえば、きっと求めてしまうだろから。
返せないことに、彼女は心を痛めるだろうと分かってしまうから。
だから、言葉にしてはならないのだ。
飲もうと誘ってくるアーサーベルトに、ヴェルナーは無言で頷く。
「今日は良い日だ。
私の大切な人たちが、大切な感情を知った」
アーサーベルトは目元を赤く染めながら言う。
その横で、ヴェルナーはアーサーベルトの用意した琥珀色の液体を流し込むように飲んでいた。
アーサーベルトはそれに苦笑を浮かべながらも、何も言わない。
「・・・でんか」
ぽつりとヴェルナーが零すと、その瞳から涙が零れだす。
「でんか、よろこばしい、ことです・・・、
あなたに、あいするひとが、できて・・・ほんとうに・・・っ」
ぼろぼろと涙を零しながら、ヴェルナーは嬉しそうに言った。
その表情が、これ以上なく悲しげに歪んでいても。
「・・・そうだな、ヴェルナー」
アーサーベルトも、目を潤ませながらそっと同意した。




