女王陛下の約束の日
「―――」
泣きすぎてぼんやりとする頭で、イルミナは不意に今の自分の状況に気付いた。
「・・・」
泣きじゃくっていて気づいていなかったが、いつの間にかグランは机を飛び越え自分の隣、いや、むしろ下にいる。
その彼の膝の上に、イルミナは横抱きで座っている状態だ。
包み込まれるように抱きしめられているため、右頬にグランの胸元があたり、心臓の音が心地よく聞こえる。
「―――!?」
しかしあまりの密着度にイルミナは一瞬で真っ赤になると慌てて離れようとした。
そんなイルミナに気付いたグランは、気遣わし気にイルミナに声をかける。
「イルミナ?
どうした?」
グランの心地の良い低音の声が、するりと耳の中に吹き込むように注がれる。
その瞬間、イルミナの脳裏に先ほどまでのふんわりとした記憶が一気に流れ込んだ。
数えるほどしかしてないグランとの口づけ。
―――以前も思い出した際に悶えるような思いをした。
それはイルミナの頭を一瞬でスパークさせるほどの威力を持っていた。
「・・・イルミナ?」
耳まで真っ赤になるイルミナに、グランは少しだけ楽しそうな声音で問いかけるように声をかけてくる。
「あ・・・そ、の・・・」
グランはいつまでもそんな可愛いイルミナを見ていたいと思ったが、ここからが本題なので表情を引き締めた。
「イルミナ」
「っはぃ!?」
裏返った返事をする彼女に、グランは表情を緩めずに続けた。
「これから正念場だ」
「!」
グランのその言葉に、イルミナの表情も引き締まった。
そう、二人の間では話はまとまっているが、それですべてが丸くなるわけではない。
「・・・ラグゼン公、ですね」
イルミナの暗い声に、グランは一つ頷いた。
「そうだ。
・・・私は、彼の望みは君と婚姻を交わす事だと聞いている」
イルミナは黙り込んだまま俯いていた。
「なぜ、ラグゼンがここまで君に執着しているのか、憶測でしか私は語れない。
イルミナ、君はそれを知っているのか?」
グランの質問に、イルミナは目を伏せながら答えた。
「・・・あの人は、きっと別の道を選んだ私なのです。
彼は、兄王の為に全てを捨て、私は、自分の為に全てを捨てようとしました。
そうして自分たちで選んだ道を違えることなく、進むしかなく、孤独な私たちは寄り添うことなくまっすぐに同じ方向を見続けると、そう思っているのだと思います。
傷の舐めあい、とでもいうのでしょうか。
彼は、愛情という感情を信じていないのでしょう。
そして私が愛を求めていることも知っていて、それでいて信じられないと考えていたのだと思います。
だからこそ、互いに替えの利かない存在になると、そう思っているのだと思います」
イルミナは、冷静に自分とラグゼンの状況をグランに説明する。
そのことに、グランは驚いたように目を瞠った。
「・・・理解していたのか」
グランの言葉に、イルミナは目元をゆるりとさせながら薄い笑みを浮かべた。
「・・・わかります。
あの人は、私に似ている。
きっと、別の道を選んだのであれば、きっと彼の考えを理解し、尊重してしまうくらいには。
それくらい、あの人と私は似すぎました」
「・・・そうか」
「もし、グランがこのようにしてくれなければ、きっと私は彼との婚姻を承諾したことでしょう。
彼の傷をきっかけとして。
それが例え、自作自演の可能性を有していても」
イルミナの言葉に、グランは自分の行動が間違えていなかったのだと心の中で安心する。
もちろん、そんなことおくびにも出さないが。
「でも、私は幸せになりたいと、思ってしまいました。
この国で、グラン、あなたと」
イルミナは一旦そこで言葉を区切ると、グランを見上げる。
「グランは、最初から気付いていたのですね・・・」
イルミナは観念したような笑みを浮かべながら、グランに言う。
「・・・何をだ?」
あえて、それを肯定しないのはグランの優しさなのだろう。
しかし、イルミナははっきりと言った。
「貴方は、私が初めて会った時から求めているものを、知っていたのでしょう?
だから、私に力を貸そうとしてくれた」
「・・・」
「貴方ほどの力を有する方が、どうして私に力を貸してくれるのだろうと考えたことがありました。
あなたは、不思議と私が裏切ることが無いと最初の頃から考えていましたね。
私も裏切るつもりなど毛頭もありませんでしたが・・・。
―――最初から・・・そう、本当に最初から私が愛に飢えていることを、気付かれていたのですね。
得るためだけにしてきた私の努力を知っていたからこそ、あなたは私より私の内面を把握していた。
今更ながらですが、いつ気づかれたのだろうと不思議に思っていたのですよ?」
「・・・それならば、君と少しでも邂逅すれば誰でも理解できるだろう」
「えぇ・・・そうやって隠し切れないのが、私の弱さですから。
それでも、殆どの人はそうとは思わなかった。
グラン、貴方だけでした。
そして、ただ一人の人を求めることを教えてくれたのも」
イルミナは独白するように話し出す。
「・・・本当は、分かっていたのです。
私は、女王になることで人から認められたいのではない、頑張ることで、父上や母上に褒めて欲しかったのだと。
リリアナのことは大好きだけれど、それでも彼女は私が貰えなかったものをたくさんもらっていた。
羨ましくて、妬ましかった。
性格が悪ければ、嫌えたのかもしれない。
それでも、あの子は良い子だった。
・・・だから、私が悪い子なのだと思った。
いえ、そう思わないと、自分の存在すらも汚らわしいものだと思っていた」
イルミナは痛みに答えるかのように目を瞑る。
崇高な気持ちで目指していたその地位。
本当は、欲に塗れた気持ちで目指していたなどと、その気持ちに気付きたい者はおるまい。
「私は、どうしても認められなかった。
女王になることは、私のためであり、国のためだと。
私が、皆に愛されたいから、なるのではないのだと。
・・・けれど、ラグゼン公はそれを無理やりこじ開けた」
ハーヴェイは、恐ろしいほどに真っすぐな男だった。
一つの目的のためにぶれることなく邁進するその姿は、イルミナにとって恐ろしいものですらあった。
そんな状態で、この先も孤独に生きていくのか、と。
自分も、同じように生きて行かなくてはならないのかと。
ひたすら、怖かった。
怖く感じてしまったことに、それがなぜなのかを考えないで。
「あの人は、愛を求めることなく、ただひたすら走ろうとしています。
だけれど、傍を一緒に走ってくれる人は欲しいのです。
切磋琢磨する相手と言えば聞こえはいいですが、私がそれを望んでいなければただの道づれでしょう」
グランはイルミナの独白のようなそれを、ただ黙って聞いた。
「でも・・・私は、一緒に隣で立って、支え合える人がいい」
そう言って、イルミナはグランを見上げた。
グランの深いグリーンの瞳は、柔らかいオレンジ色の光を受けキラキラと宝石のように見えた。
「できるなら、となりにたつひとは、あなたがいい」
イルミナはそう言うと、グランの膝の上から立ち上がった。
「・・・イルミナ?」
イルミナは、グランの真正面に立つと、まっすぐ見つめた。
その表情には、微かだが緊張感すら見える。
「・・・グラン・ライゼルト」
「・・・なんでしょうか。
イルミナ女王陛下」
イルミナは一度だけ深呼吸をすると、グランを強い視線で見つめ直した。
その姿に、グランははっと息を飲む。
彼女は、こんなにも美しかっただろうか。
「私、イルミナ・ヴェルムンドの、婿となり、私の生涯を支えることを誓えますか」
「―――っ」
イルミナの言葉に、グランの相貌が崩れる。
「きっと、私は貴方を一番に考えることではできないでしょう。
私には、私の守るべきものが沢山あります・・・。
それでも、女王として・・・ただの伴侶としても、生涯、支えることを、誓ってくれますか・・・っ」
イルミナは、顔を真っ赤にしながらも必死に言葉を紡ぐ。
そんな彼女に、グランはとろりと笑みを浮かべ、椅子から床に滑り落ちるようにして跪いた。
「我が愛おしの人。
私が貴女を愛したのは、そういうところです。
私、グラン・ライゼルトは、イルミナ・ヴェルムンドを公私に渡って支え、生涯傍に居ることを誓います」
グランはイルミナの小さな手を恭しくとる。
所々にまめを感じるその手は、彼女の頑張った証だ。
グランは、その手がとても愛おしいものに感じた。
これ以上に、愛らしい手はないとも。
彼女のためであれば、今まで自分が培ってきたすべてを使うことも厭わない。
そう思えた。
イルミナを見上げれば、顔を真っ赤にして瞳を潤ませている。
そんな表情をさせているのが自分だと思うと、グランの体に熱がこもる。
「イルミナ、愛している。
私のこの先の人生は、全て君のために」
「っ・・・、私は、女王としてこの先の人生も国のために、使います。
きっとそれを一生変えることはできないでしょう・・・。
でも、ただの、イルミナとしての人生は、あなたに受け取って欲しい」
イルミナはグランの言葉にそう返すと、その手を両手で包んだ。
その手は微かに震えながらも、熱を持っている。
グランは、年甲斐もなく泣きたくなった。
自分の周りには、運よく恋愛での結婚をしているものが多い。
しかし、それが全てではない。
事実、イルミナとて国のための結婚をしようと考えていたことだろう。
他にも、政略結婚を余儀なくされた貴族だっている。
―――そんななかで。
愛する人が、同じように自分を愛してくれることのその、奇跡。
先立たれた妻の時にもその幸福を味わっていたが、それを二度も経験できるなんて、グランは想像をしたことが無かった。
ロゼリアに先立たれた時、この先自分は一生独りでいようと思ったのだ。
グランはイルミナの手を握り返すと、そっと立ち上がった。
「グラン・・・?」
グランはイルミナの声に促されるように、その体を腕の中に閉じ込めるように抱きしめた。
彼女は、きっとこの先も何度も辛い目にあうだろう。
人を、物を、大切な何かを切り捨て多数を取らねばならない。
それが、彼女の選んだ道なのだから。
出来ることなら、自分がそのできた傷を癒やす存在となりたい。
そして、彼女に愛されているという記憶をあげたい。
きっと、グランは先に逝くことになるだろう。
彼女を残して。
それまでに、彼女を、心の底から一切悔いを残さないように愛したい。
―――そのためには。
「イルミナ、これからのことを話し合おう」
「・・・はい」
一緒になると言葉にするのは簡単だが、今のところそれが簡単でないことは分かっている。
今のグランにとって、ハーヴェイ・ラグゼンはその筆頭だ。
正直、他の貴族はある程度取り込めたからいい。
イルミナに他にも候補が上がっているのは知っているが、ブランもアリバルもこちら側にいるから、さしたる障害ではない。
しかし、ハーヴェイ・ラグゼンだけは違う。
彼だけは、何としてでも納得させなければならない。
怪我を理由に女に婚姻を迫ることから、彼も切羽詰まっているのはわかる。
そして切羽詰まった人間は、時に予想もしない行動に出てくれるものだ。
グランは、その鋭い目を細めた。
今はただの貴族の一員とはいえ、ライゼルト辺境伯として馳せたその名。
そして歴代一と謳われたその手腕。
それを今使わないでいつ使うというのだろうか。
グランは、一切手を緩めるつもりなどなかった。
彼には悪いが、勝手に一人で落ちてもらうなり一人になるなりしてもらおう。
それに対する同情なんてものはかけらもない。
少なくとも、愛するものを傷つけた罪は重いとグランは考えている。
グランは頭の中を回転させる。
今回のこと、ラグゼンファードのこと。
そうしてこれから自分がとるべき行動。
「・・・どうするのですか?」
不安そうに見上げてくるイルミナに、グランは思わず唇を寄せた。
「っ!!
ぐ、グラン!いま、そういうことをしている場合では・・・!」
「すまない、つい」
顔を真っ赤にするイルミナを見ながら、グランはくすくす笑った。
案外、自分もまだまだ若いらしい。
ヴァンが聞いたら、生涯現役でしょうね、兄上は、とでも言われそうだが。
「さて、クライスとアーサーを呼ぼうか。
これからのことを話合おう」
イルミナにそう声をかけるとその表情が引き締まる。
「わかりました、すぐに」
するりと自分の腕から抜け出してメイドを呼ぶイルミナに、グランは微笑んだ。
少なくとも今は、彼女と想いを通じ合えた幸福を味わって。




