【閑話】ヴァン・ライゼルト
「―――本気ですか、兄上」
「本気だ」
間髪入れずに戻ってきた答えに、グラン・ライゼルトの弟、ヴァン・ライゼルトはため息を堪えようとして、失敗した。
ヴェルムンドでは、各領に十名ほどの貴族が名を連ねている。
ライゼルト領であれば、その地にいくつもの町があり、そこを代表する貴族がいる。
彼らをまとめ上げているのが、ライゼルト家ということだ。
ちなみに、定期的に城に上がっているのはこの代表の貴族たちである。
そんな中でも、ライゼルトの庇護下にある貴族たちは結束に満ち溢れていた。
森を挟んだ向こうには、セバリアという国があるのだ。
かの国とは良くも悪くも不可侵の状態、さらに森には盗賊や危険な動物だっている。
それらから国を守ることに、彼らは誇りをもっているのだ。
そんな彼らが、口を揃えて今代のライゼルト当主を称えている。
グラン・ライゼルト辺境伯は、歴代の中でも素晴らしい手腕を持っていると。
そのことに、兄は気付いていないのだろうかとヴァンは思った。
だからこのようなことが言えるのだろうかと。
「―――兄上。
いくらなんでも急すぎます。
無理です」
「私の方が無理だ。時間が無い」
こちらのことを一切考えてくれない兄に、ヴァンは殴りたくなる気持ちを抑えて冷静を努めた。
普段冷静で物事をしっかりと考え、見据えてから話しを進める兄にしては明らかに異常な状態だと感じながら。
「そもそもいきなりなんですか?
今までそのようなこと言ったことないでしょう。
あれですか、ウィリアムのことがそんなに堪えましたか」
そんなわけないと考えながらも言ってみる。
ヴァンからして、グランという存在は理想的な領主であり、兄であり、越えられない壁だと思っている。
その彼が一体どうしたと言うのだろうか。
義姉が病で亡くなられた時でされ、ここまで意味の分からないことを言わなかったというのに。
一粒種であった息子が領地に封じ込められたことが、そこまで衝撃だったのだろうか。
「あれが理由ではない、切欠ではあったがな」
「?どういうことですか」
「ヴァン、私は王家に婿入りする」
「・・・は?」
ヴァンの思考は、完全に停止した。
何を言っているのだろうか、この兄は。
待て、王家と言っただろうか、この馬鹿兄は。
第二王女はウィリアムと一緒になる。
となると第一王女だが、彼女は今いくつだったか。
たしか十六になったばかりだと記憶している。
兄はいくつだ。
四十前・・・。
「・・・ろりこん・・・?」
「五月蠅いぞ」
「兄上、さすがに言って良い冗談と悪い冗談がこの世に存在しているのですが、ご存知ですか」
「ヴァン、私がこのようなことを冗談で言うと思っているのか」
「いいえ、むしろ冗談であってほしいと言う願望ですね」
ヴァンは落ち着くために一度紅茶で喉を潤した。
気休めでしかないが。
「・・・で、一体何がどうなったらそのような考えに至ったのです?
パワーバランス的にも問題はないでしょうが、すでに甥っ子が王家に行っているでしょう。
確かに妹姫はエルムストに封じられていますが、結果的に王家にうちの者が入ったことには変わらないでしょう?
兄上までもが行かなくてもいいのでは?
というか年齢的に差がありすぎませんか?
兄上がろりこんとか笑えないのですが。
・・・それで?
もう一度聞きますが、どういうお考えでそこに至ったのでしょうか」
「・・・ヴァン・・・。
私が彼女の隣に居たいと考えているとは、考えてはくれないのか」
グランは弟のあまりにも言いように目じりが下がっている。
我が兄ながら、何て情けない顔なのだろうと思う。
「惚れたとでもいうのですか」
「そうだ」
「・・・」
あまりのあっさりとした肯定に、ヴァンは言葉を失った。
確かに、兄はライゼルトらしいライゼルトだと知っていた。
感情に大切にし、義を重んずるタイプであると。
しかし、それだけでは領主なんてものは務まらない。
それを総て飲み込んだ完成形が、兄だと思っていた。
その兄が。
清濁すべてを飲み込み、今までのどのどのライゼルトよりもライゼルトらしいと、歴代随一と謳われた兄が。
その感情の赴くままに行動しようとしている。
「義姉上のことは」
「愛している。
だが、それ以上に彼女のそばに居たい」
ヴァンは、兄の言いたいことが痛いほど理解出来た。
ヴァンとてライゼルトだ。
話し方こそ一徹して冷たいようにしているが、ヴァンも妻とは恋愛婚なのだ。
貴族でない彼女を迎え入れることを反対するものは多かった。
それでも、ヴァンは無理だったのだ。
彼女が傍にいてくれないと、息すらも出来ない。
だからこそ、兄が義姉を喪った時の喪失感は恐ろしいものだった。
魂が抜けている、と表現しようがないほど、あの時の兄の姿は今でも脳裏に焼き付いている。
それでもなお領主として生きる兄を、哀れにすら思ったのだ。
そして同じことを、自分は絶対に出来ないと感じてしまった。
その兄が。
「・・・きっと厳しいと思いますよ。
我が領地の皆は、貴方という存在に縋っている」
「だがそのままではいかないだろう。
いずれ私も老いて死ぬ。
その前に我らの領地に新たな風を取り入れたい」
「・・・本音は?」
「領主を辞めないと彼女の元へは行けないだろう」
ヴァンは痛くなる頭を押さえた。
幾らなんでも、話しが飛び過ぎている。
「そもそも何で急いでいるのですか?
第一王女はまだ・・・ん?」
「ヴァン、もう第一王女ではない。
彼女は陛下だ」
「・・・陛下」
「そうだ。
今、彼女の元にはたくさんの縁談が舞い込んでいる。
そのなかにはラグゼンファードの王弟もいる。
わかるだろう、ヴァン。
何故、私が急ぐのかを」
そこでようやく、ヴァンは気付いた。
どうして、兄がここまで急いでいるのかを。
第一王女ならまだしも、陛下となることが決まった今、彼女の立場は変わった。
若い彼女を支えるために、誰もが納得するような夫が彼女の隣に立たなくてはならない。
それを満たすのは、兄だけではなくラグゼンファードの王弟も同じ。
なれば国益のことを考えれば、兄でなくもう一人を迎え入れるのが定石だろう。
しかし、兄はそれを許容していない。
許容どころか、自身が隣に立つことを望んでいるのだ。
「・・・陛下は、知っていらっしゃるのですか」
「あぁ、伝えてある」
グランは本気だった。
自分の総てを捨ててもいいと思えるほどに。
「・・・本気の、本気なのですね」
「あぁ、もう、無理なんだ」
ヴァンは、兄の決意に満ちた目を見る。
義姉が亡くなり、一人で息子を育て領地を守ろうとした時と、同じ目。
こうなったら、もう止められないのだ。
「・・・わかりました。
いいですよ、なりましょう。
ですが、たまには手伝ってくださいね」
ヴァンはソファに深く沈み込む。
妻に何て言えば良いのだろうか。
怒られることはないとは思いたい。
「・・・ありがとう、ヴァン」
安心したように微笑む兄に、ヴァンは不意に彼女のことが気になった。
「そんなに、いいのですか?」
ヴァンは、女王陛下となった彼女とは幾度か顔を合わせ挨拶をしたくらいで、会話らしい会話をしたことがない。
噂で聞く彼女は、暗い、陰険な見た目、つまらないと聞いていたが、兄の話を聞くとそれだけではないことがうかがえる。
「・・・とても、良い子だよ。
強くて、弱くて。
それを知っているとても美しい子だ。
彼女の考える未来を、一緒に支えたいと思うし、この先の人生を彼女に捧げたいとすら思う」
「・・・」
ヴァンは絶句した。
自分の兄はこのような甘いことを言う人間だっただろうか。
いつだって冷静沈着で、その笑顔の裏に何を考えているかわからないと他の貴族たちを震え上がらせた兄が、このような穏やかな笑みを浮かべるような相手。
半身を見つけたのだな、とヴァンは感じた。
義姉がそうでなかった訳ではない。
義姉は義姉なりに兄を愛し、そして兄も彼女を愛していた。
穏やかなそれは、いずれ自分もそうなるのだろうかと感じさせるほど、優しい絵だった。
だが、きっとあのときとはまた違うのだろう。
兄とその人が一緒になった時、きっと違う絵になる。
「・・・私も陛下への評価を考え直した方が良いようですね」
グランはヴァンの言葉に苦笑を零した。
「今までろくに表舞台に立っていなかったからな。
そうしてくれ。
きっと、お前でも驚くほど、彼女は才覚に満ち溢れている」
こうして。
ライゼルト兄弟の話し合いは数時間で終わった。
兄であるグランは、精力的な四十前でその座を降りることを決意し、弟であるヴァンは兄の代わりにその座に座ることを決意した。
それがどれほど難しく、困難な道か、知らない二人ではない。
グランは、ただ一つの椅子の為に全てを捨て、身一つとなり。
ヴァンは名高い兄の後を継ぎ、領地を治めねばならない。
こうして考えれば、グランがただ自由奔放にしていると考えるだろう。
しかし、ヴァンは自身の兄にも幸せになって欲しかった。
大切なものを失くし、独りでいることほど、辛いことは無いから。
だからこそ、兄の提案を受け入れた。
ライゼルトは絆を大切にする。
感情を大切にする。
だからこそ、それを選ぶのだ。
大切な家族が、悲しまなくていいように。
自分の大切な人が、泣かなくても済むように。
この話し合いが、のちの彼らの立場を大きく変動させる。




