女王陛下の迷いの日々
欲しいと思っていたものが、実際に手に入った時
そこでようやく気づいてしまうのだ
本当はこれじゃない、と
そして思い知ってしまうのだ
本当に欲しいものが手に入るはずがないと
気づかなかった、自分が悪い
気付けなかった、自分が悪い
そう思わないと、心が悲鳴を上げようとするから
手に入れてはいけない
手に入れることによって生まれる幸福など
———手に入れてしまったら、もう戻れない
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「陛下」
「・・・では、次はこれを」
「・・・陛下」
「それは少し待ってもらえますか?」
「・・・・・・陛下」
「はい、それはそのままで結構です、進めてください。
それと勘定方は・・・」
「陛下!」
いきなり響いたかのように聞こえた大声に、イルミナはびくりと跳ね上がった。
「・・・、ヴェルナー?」
恐る恐る書類から顔を上げると、そこには苦い表情をしたヴェルナーが仁王立ちをしていた。
その表情に、嫌でも見覚えのあるイルミナは肩を縮める。
「陛下。
貴女はいつまでそうしているおつもりですか。
休んでくださいと言っても、寝室に持ち込んでは仕事をし?
気絶するように眠るのは明け方?
気づかれないとお思いですか?
メイドたちが心配していましたよ。
そのみっともない隈をどうにかして欲しいのですが」
ぐさりぐさりと痛いところを突かれ、イルミナは更に小さくなる。
部屋だからばれていないだろうと思っていたが、話からするにジョアンナがヴェルナーに話したようだ。
そうでなければ、自分が明け方に眠っているのを知っているのはおかしい。
そんなイルミナに更に打撃を与えるものが悠々と執務室に姿を現す。
「おや、陛下。
可愛げは元からありませんでしたが、凶悪とも呼べるお顔ですね」
「・・・アリバル、侯爵」
眼鏡をかけた優男が、にっこりと毒を吐きながらやってくる。
イルミナは今すぐここから逃げ出したいと切に思った。
「タジール殿と、グイード殿は・・・?」
「元気ですよ。
今は治水に関する資料をプレゼンする練習をしてもらっています。
・・・それで?
陛下が未だに彼らにお会いにならない理由を伺いましょうか」
「侯爵、それを聞きに来たのですか?」
「そうですよ。
彼らが王都に滞在して、既に二週間です。
戴冠式も終わり、忙しいのは分かりますがそろそろいいでしょう」
「・・・」
イルミナは黙り込んだ。
正直、今、あの二人にそのような顔で会えばいいのか分からない。
あの二人は、イルミナに優しい。
だからこそ、会いたくなかった。
「・・・アリバル、見ての通り、私は執務に追われています。
いきなり上が変わったことで内政が色々と大変なのはお分かりいただけるでしょう?
申し訳ないのですが、もう少しお願いします」
イルミナはそれだけ言うと、もう聞かないと言わんばかりに書類に目を落とした。
そんな彼女の様子を見て、アリバルとヴェルナーは溜め息を吐いた。
あの日。
先代たち、そしてリリアナが王都を発ったその日から。
イルミナの様子はおかしくなっていた。
考えることから逃げるかのように、毎日執務をこなすようになったのだ。
急ぎのものから、そうでないものまで。
とにかく自分の時間というのを持つのを嫌がった。
その割に、ふと見るとぼんやりとしているのだ。
何処を見ているか分からない、紫紺の瞳は、まるで迷子のように心もとない。
いつも浮かべている微笑すら、まるで抜け落ちてしまったのかの様に無表情で。
それを見たことのある人間は、小さいながらも不安を覚えた。
「はぁ・・・」
イルミナは、一人自室でため息をついた。
———本当は、分かっている。
今の自分の状態が皆を不安がらせていることを。
それでも、気付いたらぼんやりとしてしまう。
理由は、考えなくとも分かっていた。
「・・・」
イルミナは、本棚に向かうと一冊の古い絵本を取り出した。
何度も何度も読み込まれたそれは、幾度となく修理した形跡がある。
その絵本は、ヴェルムンドでは一般的にあるものだった。
お姫様が魔物に捕らわれ、それを王子様が救う。
そして、二人は結婚し末永く仲良く暮らす。
そんな、ありふれた話だった。
ぺらり、とめくると、諳んじられるほど覚えた短文たちが視界に入る。
文字も書いてあるが、絵だけ見ても楽しめるように工夫されているから、きっと誰もが手に取るのかもしれない。
そして一枚の姿絵が、そこには挟まれていた。
「———、」
唯一。
そう、たった一枚の、ある家族の姿絵。
まだ、リリアナが生まれる前、王が絵師を呼んで描かせたものだった。
少しだけ色あせたそれは、それでも誰が描かれているかすぐにわかる。
イルミナは、それぞれの顔に指を這わせた。
王は、今よりもっと若々しく、自信に満ち溢れた笑みを浮かべていた。
王妃は、その美しさは瑞々しく、ほんのりと浮かべられた笑みが美しかった。
そんな二人の間に居る、黒髪の赤子がイルミナだ。
とてもうまい絵師に書いて貰ったのだろう。
その色彩は今もなお、時を経たにもかかわらず鮮やかに残っている。
———この時は、愛されていたのだろうか。
———生まれたばかりの、この時の私は、愛されていたのだろうか。
「・・・」
パタン、と本を姿絵ごと閉じる。
その問いの答えを、今のイルミナは聞きたくない。
いつか、聞くことになるのかもしれない。
あるいは、一生聞くことなく終わるのかもしれない。
イルミナは、あの日までこの本の存在を忘れ去っていた。
本当に小さい頃、一度だけ、読んでもらったことのある本。
まだ、自分が陛下を父と呼んでいた頃。
一度だけ抱き上げてもらったことを思い出した。
その時に読んでもらったのが、この絵本だった。
嬉しくて、嬉しくて。
本当は返さなくてはならないのにどうしてもと駄々をこねて、この本を貰ったのだ。
一瞬だけ感傷に浸る。
時間がいつかは癒してくれると、何かで読んだことはあるけれど、今のイルミナはそれを望んではいない。
癒されることが怖いのだと、気付けないまま。
「・・・」
イルミナはチリンとベルを一度鳴らした。
するとすぐに隣の部屋からノックされる。
「・・・失礼致します、御用でしょうか、陛下」
「夜遅くに手間をかけますが、何か飲み物をお願いできますか?」
「・・・陛下、眠れないのでしょうか?」
ジョアンナは気遣わし気にイルミナの顔色を窺う。
ランプの光でもわかるほど、イルミナの目の下には濃い隈が存在を主張している。
化粧でも、もう隠せないだろう。
「・・・陛下、ホットミルクにブランデーを落としたものをお持ちしましょう。
きっと、よく眠れるはずです」
ジョアンナは、それくらいしかできない自分に悔しさを覚えた。
ジョアンナがイルミナのメイドとなったのはつい最近のことだ。
彼女のことを何も知らないと言っても過言ではない。
だから、むやみやたらに聞くこともできない。
———何にお悩みなのでしょうか、と。
難しくないはずの言葉が、こんなにも重いものだとは知らなかった。
助けたい人に手を差し伸べられないことが、こんなにも苦しいことだとは、知らなかった。
しかし、目の前の人はそんなこと気にもしてもいないのだろう。
「・・・それは美味しそうです。
お願いしますね・・・ありがとう、ジョアンナ」
ふわりと微笑みその人の笑顔は、どうしても悲しげに見えた。
イルミナはジョアンナの持ってきてくれたブランデー入りのホットミルクを口にしながらほっと息をつく。
程よい暖かさにされたそれは、ジョアンナの気遣いに溢れていた。
唇についたミルクを舐めた時、ふいにそれに触れた人のことを思い出した。
―――はじめて、だった。
ふに、と自分の指で唇に触れる。
自分では、その柔らかさがよく分からない。
しかし、あの人はうっとりと目を細めながら言ったのだ。
――――とても、柔らかい
「―――!!」
思い出して、一瞬で頬に熱が昇る。
きっと今の自分は真っ赤になっていることだろう。
悶えて転がりたくなる衝動を何とか抑え込む。
耳元で低く囁く言葉。
とても、美しいと。
誰にも見せたくないぐらい、美しいと言ってくれた、あの人。
嬉しかった。
―――はじめての人が、あの人で。
好きだと、思った。
―――思い知ってしまった。
――――だけれども。
すぅ、と熱が下がっていく。
ヴェルナーは上手く誤魔化しているつもりだろうが、何人かの貴族がイルミナの婿について意見しているのを知っている。
一番は、やはりラグゼンだ。
大国であるラグゼンファードとの繋がりは、正直欲しいものでもある。
そこから生まれる利益を考えれば、悩む必要などないはずなのだ。
しかし、グランを推す声もある。
弟君に爵位を譲られ、イルミナの婿になる為だけに全てを捨てられる彼は、きっと民からの人気を集めるだろう。
そうすることによって、国内の意識をまとめ上げる算段をしているようだ。
ただでさえ、何人かの貴族の失脚は民に不安を覚えさせている。
それに、イルミナ以外の王族がエルムストに行ったことに対してもだ。
そういった不安を一気に解消するには、グランのような民からも信頼の厚い人が婿になった方が良いのではないかという声だ。
ヴェルムンドでは、側室を持つことを禁じられていた。
かつて、それのせいで王家が分断しそうになったことがあるからだ。
イルミナは、禁止になっていてよかったと心の底から思った。
もし、頭の弱い貴族がいたら、きっと側室としてどちらかをとれと言うだろうから。
「――――、」
どちらかを婿として迎えても、イルミナは口づけ以上の行為をしなければならない。
それが、女王としての務めの一つだから。
でも、と。
でも、私はグラン以外の人に口づけを出来るのだろうか。
他の人にしたことが無いのでわからない。
ただ、昔誰かが言っていた気がするのだ。
好きな人以外と何かをするなんて、想像するだけで気持ち悪い、と。
本当に、そうなのだろうか。
「・・・考えるだけ、無駄なのに」
気付けば、ミルクは既に冷えてしまっていた。
折角ジョアンナがいれてきてくれたと言うのに。
イルミナは、それを一気に飲み干した。
ブランデーの味が、口腔に残る。
それは甘いような、苦いような。
何とも言えないイルミナの心境を表しているかのように、イルミナの舌に残り続けた。
****************
「夜分遅くにすまないな」
「本当ですよ。
折角妻と子供たちと一緒にいられる時間だというのに」
王都から、そんな離れていない郊外のアリバルの屋敷で、その二人は顔を突き合わせていた。
通された応接室からは、アリバルの趣味の良さが窺える。
「・・・それで?
そこまで本気なのですか?」
カラン、とグラスと氷がぶつかる音がやけに響く。
グランが持ってきた酒は、非常に美味で、どこぞの知り合いと飲むよりかはよっぽど雰囲気があるとアリバルは思った。
「そうだな、自分でも驚くほどに本気だ。
正直、こんなことになるとは私でも想像しなかったよ、リチャード」
「・・・グラン、私は貴方という人を尊敬しています。
そして同様に貴方とは長い付き合いもある。
だからこそ、言いましょう。
陛下は、確かに素晴らしい治世者となる可能性を秘めています。
でも、なぜ、貴方がそこまでするのか、理解できません」
アリバルの言葉に、グランは苦笑を浮かべた。
確かに、今の自分は面白い状況になっている。
爵位を譲り、ただのライゼルトにも関わらず女王陛下の婿になるべく伝手という伝手を使おうとしている。
「・・・ジェフから聞いたが、お前は私と陛下が結ばれればいいと考えていたのではないのか」
「そうですが・・・ただ、あくまでも一つの考えですよ」
「・・・そうか、言ってなかったか。
アリバル、私は、陛下の側にいたいわけでは無い」
「・・・は?」
「私は、イルミナの側にいたいのだよ」
アリバルは、そこで気づいた。
どうして、彼がここまでしているのか。
まさか、とも思った。
あの時は、グランの大人な空気がイルミナを守り、制して育ててくれるだろうと考えてそう発言しただけだが。
「・・・二十ほども離れているのに、落ちてしまったのですか」
「・・・あぁ」
グランの肯定の言葉に、アリバルはついに何も言えなくなった。
「・・・なれば、協力致しましょう。
その方が、きっとあの方の為にもなる」
―――リチャード・アリバル。
彼は、ヴェルムンド内でも稀に見る愛に生きる人の名である。