初めての
今まで、何が欲しいと、聞かれたことはなかった。
だから、自分が欲しいものが出来たとき、どうすればいいのかわからなかった。
手を伸ばしても良いのか。
それとも、駄目なのか。
一度伸ばした手は、振り払われた。
二度目に伸ばした手は、忌避された。
そうなると、怖くて仕方なくなった。
欲しいものに手を伸ばしても、絶対に手に入れられないと、そう思わされてしまった。
それほどまでに、手痛いものだった。
だから、本当に欲しいものをつくることをやめた。
どうせ手に入らないのだから、欲しがるだけ無駄だと言い聞かせた。
欲しがって、手に入らなかった時の落胆の方が大きいことを、早いうちに知ってしまったから。
でも、もし。
本当に欲しいものが、向こうからやってきたら?
自分は、いったいどうするのが正解なのだろうか。
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イルミナは、その言葉に呆然とするほかなかった。
「・・・今、なんて・・・?」
一切の表情を落としたイルミナに、グランは苦笑を浮かべる。
「・・・私は、もうライゼルト当主ではなくなる。
ただのグラン・ライゼルトとなる」
「!!
ライゼルトは、領主としての立場はどうされるのですか!?
貴方が簡単に辞められるはずが・・・!」
イルミナは震えながらグランを見る。
男は、不思議と落ち着いていて、それが更にイルミナに恐怖を与えた。
どうして、彼はそんなにも落ち着いていられるのだろうか。
「すまなかった、イルミナ・・・。
何も言わないでこちらが先走ってしまった。
でも、どうしても君と一緒になりたかったんだ」
グランの真摯な言葉に、イルミナは涙を零しそうになる。
どうして、今更そんなことを言って来るのだろうか。
どうして、あの時に、そのことを言ってくれなかったのだろうか。
なぜ、今なのだろうか。
「・・・グラン・ライゼルト・・・」
イルミナは、幽鬼のようにぼんやりとグランを見た。
その頬は、涙に濡れてはいない。
しかし、その心が泣き叫んでいるとグランは感じた。
グランは信じていた。
イルミナが自分の手を取ってくれると。
そうして、二人でヴェルムンドを良くしていくのだと。
「・・・、その件は、保留にさせて下さい」
「イルミナ!?」
グランは茫然とするイルミナを覗き込むように体をかがめた。
そして、彼女の表情を見て凍り付いた。
「・・・、っ、」
イルミナの顔は真っ青だった。
寒くないはずなのに、唇は真っ青で血の気が引いている。
グランは、どうしてイルミナがそのような表情をするのかわからなかった。
「、イルミナ、一体、なにが、」
「・・・どう、して」
イルミナがかすれた声を出す。
あまりにも小さな声だったので、グランはイルミナの口元に耳を寄せる。
「―――、どう、して・・・いまなの・・・。
わたしが、女王になると・・・きめたのに、どうして・・・」
「何が、あったんだ、イルミナ」
その言葉に、イルミナはぼろりと涙をこぼした。
そして次々と真っ青な頬を滴り落ちていく。
イルミナは、きゅ、と唇と結ぶとふらりと立ち上がった。
グランの手を借りぬままに。
「・・・ライゼルト。
私は女王になると決めました。
国の為に、一番良い伴侶を見つける必要があります。
ラグゼンは、その筆頭です。
もちろん、貴方の言葉もとても嬉しい。
しかし、既に私の一存で決められるものでは、ないのです」
表情を強張らせたまま、イルミナは続ける。
「万が一、私が貴方以外と婚約したとしても、ライゼルトには戻れるよう言っておきます。
貴方の名は、そうそう簡単に不要になるはずがありませんから」
「イルミナ!
待ってくれ!」
「退室を。
話は十分に聞きました。
後日追って知らせます」
イルミナはそれだけ言うと執務室から出ようとした。
しかしそれをグランは止める。
細くなってしまった手首を捕まえて。
グランは、イルミナと想いが同じだと思っていたが、それは勘違いだったのだろうか。
そんなはずはないと、自分の勘が叫ぶ。
イルミナは、言葉にせずとも自分に想いを寄せてくれているはずだと。
イルミナは捕まれた手首を見た。
大きな手のひら。
自分より体温の高いその手に、いったい何度助けられただろうか。
この手を、離したくないと。
ずっと傍に居て欲しいと、何度願っただろうか。
「・・・グラン」
イルミナは、この場で初めて冷静にグランの名を呼んだ。
いつものように。
想いを込めて。
「グラン、ずっと言っていませんでしたが・・・。
私も貴方のこと、お慕いしています。
きっと、貴方以上にこの感情を持つ人は現れないだろうとすら、思います」
「なら!!」
「でも、ダメなのです」
イルミナは緩く頭を振った。
まるで何かを追い払うかのように。
「それは、私の願いです。
女王の願いではありません」
「・・・どういう・・・」
イルミナは掴まれた手首をそのまま、グランに向き直った。
そして、視線を落としながら話す。
「・・・、本当は。
あの時、グランにライゼルトを捨ててとは言えないと言ったしまったあの日・・・、捨ててくれれば、って願ってしまった私がいました。
女王の為では無くて、私の為に捨ててくれさえすればって・・・。
そうしたら、私は貴方に想いを告げられるのに、って。
・・・そして、そう考える自分に吐き気すらしました。
王に、啖呵を切っておきながら、自分の望みを叶えようとする私に、私自身が絶望したのです。
それでも、出来るなら、って・・・出来ることならと願う自分がいるのを否定できませんでした。
貴方以外を想うことなんて、したくないと思ってしまいましたから。
・・・でも、女王になった今は、それはできません」
イルミナはそこで一息入れると、一気に吐き出すかのように言葉にし始めた。
「私は、もうただのイルミナではありません。
私は、ヴェルムンドの女王となりました。
たくさんのものを犠牲にして、望んだその地位に。
女王になったからには、国を良くするために全てを使わなくてはなりません。
自分の身ですら、使えるのであれば使います。
それに一番有効なのが、婚姻でしょう?
ラグゼンと結婚すれば、大国であるラグゼンファードと繋がりが出来ます。
それは、ヴェルムンドにとって大きな利益になる可能性を秘めているのは誰が見ても分かることです。
女王である私は、それを見過ごすわけには、いきません」
そう言って、イルミナは唇を噛みしめた。
できるなら、これで自分に落胆して欲しい。
好きだと言っておきながら、その様なことをするのかと憤って欲しい。
そして、離れていって。
そうでないと、自分は、弱いから。
すぐに彼に支えてもらおうとしてしまう。
独りで歩くと言ったその道に、彼を連れて行こうとしてしまう。
「・・・イルミナ」
グランの低い声に、イルミナの肩がびくりと震える。
そして。
「――――、ぐ、らん?」
イルミナは、何度も包まれたことのある温もりに、包まれていた。
何度も嗅いだ、香水のほのかな香り。
広い肩幅。
背に回される、熱い、手。
何度も、何度も。
数え切れないほどに、その手に助けられた。
きっと、彼はそのことを知らないだろう。
「イルミナ、すまなかった・・・」
「・・・、な、にが、ですか」
喘ぐように、掠れた声で話すグランに、イルミナはくらくらとした。
どうして、彼が謝るのだろうか。
むしろ、自分が謝らなくてはいけない方だというのに。
「・・・君に、全てを任せっきりだった。
一度は思い知ったはずなのに・・・、君の気持ちを考えなくてはと、思い知ったはずだったのに、一緒に、考えてから行動すればよかったものを・・・、私も浅はかだった」
イルミナは、グランの言う事が少しも理解できない。
彼は、一体何を言っているのだろうか。
「君を独りにして、そしてそこまで、思い詰めさせた・・・。
イルミナ、本当にすまない。
これでは、私を選んでほしいなんて言えないな・・・」
苦笑すら浮かべていそうな声音に、イルミナの背筋がぞわりと泡立つ。
そして、彼の言った言葉に、血の気が引くような思いすらした。
―――選んでほしいなんて、言えない。
それは、つまり。
「グラン、」
何かを言おうとするイルミナに、グランは強く抱きしめることでそれを防ぐ。
「・・・待っていてほしい、必ず、君が私を選ばざるを得ない様に、するから。
・・・もう、独りで頑張らせたりなど、しないから」
それを、どう意味で捉えたらいいのか、イルミナにはわからなかった。
期待してしまうような内容でも、それでも怖い。
もし、彼を信じて。
それで裏切られたら。
今度こそ、自分がどうなってしまうか分からない。
「・・・、いつまで、待てばいいのでしょう?
私には、そんなに時間がありません」
イルミナの腕は、いまだにグランに回されることはない。
そうしてしまえば、もう後戻りはできないような気がしたから。
「・・・、二カ月」
ぼそりとグランは言った。
「二カ月、待ってほしい。
それまでに、なんとかする。
誰もが、イルミナの夫が、私でなければ駄目だと、言わせてみせる」
「―――、っ、」
その言葉に、イルミナは十分だと感じてしまった。
もう、大丈夫だと。
もし、これでその言葉が守られなかったとしても。
それでも、彼のこの一言で自分は頑張れる、と。
この先。
数年、何十年になるかわからない、氷上の上を、独りで歩く自分の人生。
歩いた足跡が、血で真っ赤になろうとも。
苦しくて、眠れない日々が続こうとも。
――――それでも。
「・・・っ、二カ月、待ちます・・・。
しかし、それを過ぎた場合、貴方が外れることもあることを、了承して下さい」
震える声で。
溢れる涙で。
必死に、吐息のようにイルミナは言った。
それが、精一杯だった。
「・・・必ず、守ろう」
「―――っ」
もう、無理だった。
どう足掻いても、無理だった。
「っ、グランっ・・・!」
イルミナの、だらりとした腕が、ゆるゆると動く。
そして縋る様に、グランの背に回った。
「イルミナ、」
吐息のようなグランの声に、イルミナの涙腺が崩壊したかのように滂沱たる涙を押し出し始める。
「ぐらん、ぐらんっ」
弱弱しく縋りつくようなイルミナの腕は、グランの名を呼ぶ毎に力が込められていく。
まるで、助けを求めるように。
二度と離さないと言わんばかりに。
本当は、グランが夫でもきっと問題はないだろう。
イルミナは、それを知っていた。
それでも、恐かった。
もし、彼が傍から居なくなったら。
両親のように、自分を厭うようになってしまったら。
もし、そうなってしまったら、イルミナの世界は崩壊する。
きっと、二度と立ち上がれなくなってしまう。
それが、この上なく、恐い。
恐ろしくて恐ろしくて、たまらない。
唯一を作ってしまうことの怖さを、知ってしまった。
だから、グランは駄目だと思った。
彼は、イルミナにとっての唯一になってしまうから。
なのに。
「―――イルミナ」
グランの手が、イルミナの頬に添えられる。
胸元に埋めるようにしていた顔が、グランの手によって上向きにされる。
鼻の頭も、目も、真っ赤になっている。
しかし、グランは愛おしいとしか思えなかった。
ここまで追いつめられるほどに、自分を想ってくれていた。
非道かもしれないが、それでも、心に溢れそうなほどの歓喜をくれる。
「―――イルミナ」
愛する人の名が、こんなにも甘い響きを持つなんて、グランは知らなかった。
年など気にする余裕もなく、飲み込まれるように、落ちるようにする恋など、知らなかった。
グランの大きな手は、イルミナの頬と耳を覆うように添えられる。
「ぐらん、」
舌足らずに自分の名を呼ぶ彼女が、愛おしい。
その紫紺の瞳が、鼻が、薄い唇が。
そして何より、彼女のその心が。
すべてが、いとおしい。
「イルミナ、愛している」
グランはイルミナの顔に自分の顔を寄せた。
――――そして感じた、初めての唇は




