第一王女のこころ
その姿が、そこにあって、嬉しい。
その姿が、そこにあって、悲しい。
「―――っ」
イルミナは、ひゅ、と息を呑んだ。
聞こえるはずのない、その声の主。
聞こえてはならないはずの、その人の声。
いるはずが、無いのに。
どうして。
「イルミナ」
こんな、甘い声音で呼ばれていいはずが、無いのだ。
ゆっくりと振りかえると、そこには愛おしい想いを抱くその人がいた。
若芽のような明るいグリーンの瞳は、暗い為によくわからない。
栗色の髪は、同じくはっきりとまでは分からないが、いつものように肩辺りで緩く結ばれている。
親子ほども年の離れたその人は、四十になるかならないくらいだっただろうか。
だが、鍛えられたその身体が、空気が、それ以上に彼を若く見せている。
だからといって、若々しく見えるだけではないその人。
彼を見ているうちに、イルミナは気付いたことがあった。
彼は、基本的に冷たく笑うことが多いようなのだが、本当に微笑むと目じりに皺が寄るのだ。
細まった目に、何度愛情を感じただろうか。
そして、今も。
「・・・ぐらん?」
呆然と、その人の名を口にする。
これは、夢なのだろうか。
もしかしたら、あのまま自分は眠ってしまったのだろうか。
わからない。
だけれど、その人の微笑みにイルミナは涙を零したくなった。
「イルミナ、寒いだろう。
こちらにおいで」
そう言って手を差し出してくれる彼に、イルミナは縋りつきたくなる。
夢の中でなら、縋ってもいいのかと問いそうになる。
しかし。
「・・・いえ。
だいじょうぶです」
夢の中かも知れないとはいえ、それは出来ない。
―――いや、夢だからこそ、してはならない。
ぎりり、と手を握り締める。
力を入れ過ぎたせいで、手が真っ白だし、痛みがあることからもしかしたら傷がついているのかもしれない。
夢にしては、なんて生々しいのだろう、イルミナがそう感じていると。
諦観した気持ちでぼんやりとしていると。
「!」
手を思い切り引き寄せられ、そのままグランの胸に鼻を激突させた。
夢なのに痛みを感じるなんて、なんて酷い夢なのだろうか。
現実感にあふれた夢は、イルミナの傷ついた心を慰撫しようとする。
―――本当に、なんて酷くて、優しくて、嬉しくて、悲しい夢なのだろう。
「っ、すまない、
大丈夫か?」
痛みに呻いているのが聞こえ、グランは慌ててイルミナの顔を見る。
そしてその頬の冷たさに驚きの声を上げた。
「いったいどのくらいここにいたんだ・・・!
いくらなんでも冷たすぎるぞ・・・!」
鼻は打ったから赤くなっているが、頬は真っ白だし、唇に至っては青ざめている。
こんな風になるまで一人でここにいたなど、グランは信じられなかった。
とりあえず、自分のコートの中にイルミナを入れる。
ぶるりと、体が震えた。
まるで、冬を抱き込んでいるかのようだ。
「ぐらん、
だいじょうぶですから」
余りの寒さに、呂律もうまく回っていないことにどうして気付かないのだろうか。
グランは、イルミナの自分自身への執着心の無さに、憤りすら覚えた。
彼女が、幸せになってくれれば良かった。
女王になることで、それを手に入れられるのであれば、それでよかった。
彼女の幸せは女王になることか、ただ一人を見つけること以外叶うことが無いのだから。
なのに。
これからの未来へ思いを馳せて、部屋でゆっくりしていると思ったのに。
どうして、イルミナはここで独りで凍えている?
これでは、まるで。
自分を戒めているようではないか。
「イルミナ」
声を低くして名を呼ぶと、イルミナはびくりと肩を震わせた。
一体、何が彼女をこうまでに頑なにするのだろうか。
「イルミナ。
自分が、幸せになってはならないとでも、考えているのか」
「っ、」
息を呑む彼女に、そうかと嘆息する。
どうして、そのような考えに至ったのか、分からなくはない。
きっと、ベナン達のことで気に病んでいるのだろう。
というより、ベナン達を投獄したことによって、困る人たちを想って。
ベナン達とて、貴族だ。
それ故に色々な人を雇っていたりした。
しかし今回の一件で、彼らは職をなくした。
当たり前だ。
仕えるべき主がいなくなったのだから。
だからといって、彼女がここで独りでいるにはいまいち理由が薄い気がした。
そして一つだけ、彼女が直接打撃を受けるだろうものを思い出した。
「・・・見に行ったのか」
微かに震えるイルミナを感じて、それが当たっていることを知る。
グランも、一度会いに行った。
フェルクは自分を見るなりガタガタと震え、イルバニアはその場で倒れた。
そしてベナンは、ひたすら呪詛のような言葉を吐き続けていたのだ。
それは、きっと十六のイルミナに大きな傷を与えたことだろう。
「・・・なぜ、何も言わない」
今まで、イルミナは一度として愚痴やなんかを言ったことはない。
それは、他の面々とも心配していることだった。
人は、溜め続けていればいずれ壊れる。
だからこそ、イルミナには吐露する場所を得てほしいのに。
この頑固な第一王女はそれすらも嫌悪している。
「・・・ひどい、ゆめだわ・・・。
なにを、いえばいいの・・・?」
夢だという彼女の頬には、涙は一切流れていない。
一言、言ってくれれば・・・。
怖かったと。
理不尽な言葉だったと。
そう言えばいいのに彼女は全てをその薄い胎の内に抑え込もうとする。
グランはため息をつくと、イルミナを抱き上げた。
その軽さに、何回抱き上げても驚きを隠せない。
さらに今回は毒のせいで一時ベッドの上の住人だったせいもあるのだろう。
前に抱き上げた時よりも、更に軽く感じられた。
「・・・どこに・・・?」
「部屋に行く。
ここは冷えるから」
そうしてグランは、イルミナを連れてイルミナの応接室へと足を向けた。
「とりあえず、これでも飲みなさい」
グランから差し出されたのは、琥珀色をした液体だった。
同じのを飲んでいるようだが、彼の方が色は濃い。
匂いを嗅ごうにも、あまりの寒さで分からなくなっている。
何なのかわからないまま、口にすると。
「っっっ!?」
喉が焼けそうなほどに熱を持った。
毒を盛られたのか、と混乱する頭で彼がそんなことをするはずないと考える。
鼻に抜けるその香りが、一気に身体に熱を持たせた。
そしてようやく、それが何なのかがわかる。
「ん?
まだ早かったか?」
渡してきたグランは、平然としている。
というか、悪びれてすらいない。
もちろん、イルミナが飲んではいけないということはない。
だが、せめて一言欲しかった。
「上物のウィスキーだが、
イルミナのものには水を入れてあるから大丈夫かと思ったのだが・・・」
・・・、一応彼なりに配慮はしてくれていたようだ。
イルミナは、一気にぼんやりする頭に何とか抵抗しようと試みる。
氷のように冷たかった手足は、一瞬で熱を発するほどまでに暖かくなっている。
イルミナは、アルコールを飲んだことがほとんどない。
ヴェルムンドでは成人してからの飲酒となっており、実際イルミナも嗜む程度では口にしたことがある。
しかし、そもそもそういった場に長居することがほとんどなかったので口にしても一口二口ぐらいだった。
なので、今の状況が酔っている状態なのだということも、イルミナにはわからなかった。
目は勝手にうるんでくるし、心臓が早鐘のように打っている。
心配したグランが、イルミナの脇に立ち様子を見ようとする。
「っ、ぐらん・・・」
イルミナは、それだけを言った。
「・・・どうした?」
「ぐらん、ぐらん、・・・っ、」
傍に来たグランの服の裾を掴みながら、イルミナは必死になって何かを言おうとしているとグランは感じた。
その証拠に、彼女の唇はわなわなと震えている。
正直、酔った勢いで話してくれればいいと邪な気持ちが無かったわけではない。
しかし、ここまでうまくいくとは思わなかった。
想像以上に彼女の酒の弱さにも驚いたが。
「イルミナ、どうした・・・、何があった」
グランはイルミナの足元に跪いて、彼女を見上げる。
その紫紺の瞳には、今にも零れそうなほどの涙が浮かんでいる。
涙は光に反射して、きらきらとまるで宝石のようだ。
「・・・っ、う・・・っ」
何かを言おうとして、しかし手がイルミナの口元を抑える。
まるで、言っては駄目とでもいうように。
そんな手を、グランは優しく取って自身の手に絡めた。
「イルミナ。
ここには、私しか、いない」
目を、覗き込むようにして言う。
ここには、グランしかいないのだと。
だから、第一王女でなくてもいいのだと。
ただの、十六歳のイルミナでいいのだと。
イルミナは、目を大きく見開いた。
「―――っ、
こわい・・・、
どうしようもなく、こわい・・・」
「・・・何が、怖い?」
「ぜんぶ・・・。
女王に、なるために、いろんなひとを、つかった・・・。
だから、もう、だいじょうぶだと、おもったのに・・・!
あの人をみると、こわいの・・・!」
イルミナの言うあの人とは、きっと王たちのことだろう。
彼らは、イルミナの深層心理にまで深く食い込んでいるのだから。
「っ、あのひとは、やっぱり、わたしをみてくれない・・・!
もういやなのに・・・!
っ、でも、きたいするじぶんが、いちばんいや・・・!」
ひくりと嗚咽を漏らしながら、イルミナは話す。
「ほんとうは、わかってるの・・・、らぐぜんと、けっこんしたほうがいいって・・・。
でも・・・やなのっ、どうしても、やなのっ」
ぼろぼろと滝のような涙を流しながら、幼子のように話すイルミナに、グランは問うた。
「何が、嫌なんだ?」
「あのひとと、けっこんするのや!!」
「誰なら、いいんだ?」
「っ、―――が・・・」
「ん?」
「―――、ぐらんがいいっ・・・」
その一言を言ったイルミナは、絶望したかのように一切の表情を抜け落とした。
そのあまりの代わりように、グランは浮かれる間もなく慌てる。
「どうした・・・!?」
イルミナは瞬きもしないまま、呆然とした表情で話した。
見開かれた目から、ほろほろと涙が零れ落ち、イルミナのドレスに染みを作る。
「だめ、なのに・・・、ゆめでも言ったら、だめだったのに・・・、どうして、わたしはこんなにっ」
そしてグランに握られていた手をそっと放すとその手のひらを見つめる。
その手は、貴族の、ましてや王女にあるまじき手だった。
節々は固く、切り傷の跡が沢山ある手。
先程強く握りしめた為、爪の丸いうっ血の跡が、それぞれに四つずつある。
イルミナはその手で、自分の顔を隠した。
そしてソファーの上で縮こまろうとする。
見られたくない、とでもいうように。
「ごめんなさい、ごめんなさい・・・。
言っちゃ、だめだったのに・・・」
謝り続けるイルミナに、グランは焦燥感すら覚える。
どうして、こんなにも自分を追いつめているのだろうか。
「イルミナ、どうして、そう思うんだ」
懇願するかのようなグランの声音に、イルミナはゆっくりとその手を放した。
そして、涙に濡れた顔で、苦しそうに、言ってはならないと戒めた言葉を、言った。
「私は、グランに、
私の為に家をすててとは言えない」
「!!!!」
その時初めて、グランはイルミナが何に苦悩しているのかを垣間見た気がした。
イルミナは、ずっと気にしてくれていたのだ。
自分のことを。
そして、自分には守るべきものがあるという、最初の言葉を忘れずにいた。
だから、言えなかった。
そんな中、色々なことがあり。
イルミナは自分が好きな人と結ばれて、幸せになることに対して恐怖を覚えたのだ。
他人を不幸にした自分が、幸せになってもいいのか、と。
さらに、ラグゼンファードからの求婚。
女王として取るべきものは決まっている。
それでも、選べなかった、イルミナの柔らかい心。
そうしたものが、イルミナを苛んでいた。
そしてそれに、グランは気づけなかった。
好きだと言っておきながら、彼女の心を考えていなかったのだ。
これでは人のことを言えない。
「・・・イルミナ・・・?」
グランが呆然としていると、気付けばイルミナは眠りに落ちてしまっていた。
その頬は、涙で濡れている。
グランはそっとイルミナを抱き上げた。
そして、奥の寝室へと連れていく。
注意は払っているが、どうやらイルミナの眠りは深く、起きる気配はない。
「・・・」
グランは、その額に唇を落とした。
そうして上げた表情は、何かの決意に満ちていた。
「・・・、すまなかった」
その日から、グラン・ライゼルトは城へと来なくなった。