第一王女の苦悩
かつりかつりと、ヒールが石畳を打つ音が廊下に響く。
石造り故か、凍えるように寒かった。
「―――!!」
奥から、叫び声が聞こえる。
何を言っているか、最初は分からなかったが、近づくとその音が明確な言葉となって聞こえてくる。
「―――おぼえていろ、おぼえていろ、このうらみ、わすれてなるものかああ!!」
怨嗟の声が、廊下にわん、と響く。
その声が、呪縛のように体を縛っていく。
気付けば、手足は氷のように冷たくなっていた。
悲鳴と、怨嗟の声は未だ止まらない。
呪縛を振り切るように、ぎこちなくもしっかりとした足取りで来た道を戻る。
「わすれない、わすれるわけがない」
そういうイルミナの唇は真っ青に震えていた。
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「これで、ようやくあいつを降ろすことができる。
ありがとう」
ハーヴェイは用意されていた書類に目を通すと、ほっとしたように笑った。
そして肩の荷が下りたとでもいうように、ぐるぐると肩を回し始めた。
「いいえ、
こちらこそ礼を言わなければなりません」
イルミナも微笑みながら返した。
執務室には、イルミナ、グラン、ハーヴェイ、そしてアリバルがいた。
ヴェルナーは事後処理と通常業務で。
アーサーベルトは騎士団の訓練で席をはずしていた。
「それはそうと、私との婚姻は考えてくれたのか?」
グランとイルミナが、一瞬固まった。
「・・・その件でしたら、当分の間返答は控えさせていただくと以前にもお伝えしたと思いますが・・・?」
イルミナはすぐさま立て直し、いつもの笑みを浮かべながら言う。
グランは、何事もなかったかのように紅茶を口にしていた。
「私の国には来れないからって?
それだけが理由なのか?」
含み笑いを浮かべるハーヴェイに、イルミナは嫌な予感を覚えながら答える。
「それが最もな理由にはなりますが・・・」
その言葉を聞いたハーヴェイは、笑みをさらに深める。
「なら、私が君に嫁ごう」
「・・・はい?」
今度こそグランが固まったのを、アリバルは目撃した。
そもそも嫁ぐとは女性が使う言葉だと認識していたのだが。
「正直、王位継承権を放棄しても勘ぐって来るやつらはいてな。
大公という地位はもらっているが、そこまでの執着はない。
それより、イルミナ姫の側にいる方が、きっと楽しい」
「・・・それを、ラグゼンファードの王は許すのですか?」
「もちろん。
兄は私の幸せを願ってくれている。
こちらに来たとしても大きな問題にはならないだろう」
イルミナはぐうの音も出そうになかった。
正直、彼の言っていることはヴェルムンドにはいい条件のみの話だ。
勘繰らざるを得ないほどの。
いずれ、イルミナは結婚をし、子をもうけなければならない。
そうしなければ、王家の血が途絶えてしまう。
それはいずれは決めなければならない話だと、イルミナは考えていた。
こんなすぐに決めることだとは思ってもいなかったのだ。
だからこそ、ハーヴェイの申出は驚きを隠せなかった。
女王になる身としては、ハーヴェイ程釣り合う人もなかなかいないのは理解している。
強国の王弟であり、ラグゼンファードとも繋がりができる。
ハーヴェイの人柄も、悪くない。
自国の為に何でも出来るあたり、イルミナと同じ方向をみて進むことができる。
ある意味同志と言ってもいいのかもしれない。
ただ。
ただのイルミナとしては、どうしようもなく嫌だった。
グランがいるこの場で、そのような話はして欲しくなかった。
いつか、しなければならないのは勿論分かっている。
だけど、彼と一緒になれないと知った傷は、まだ癒えていないのだ。
「・・・、」
答えは、本当であれば決まっている。
彼の話を受ける以外、選択肢はない。
だけれど。
「・・・少し時間を下さい。
まだ、こちらは落ち着いてはいないので・・・」
逃げるようにイルミナは言った。
それしか、言えなかった。
ハーヴェイは、大人な笑みを浮かべながら了承し、国へと帰っていった。
実際、彼にも国でしなければならないことがたくさんあるのだ。
せっかく得た情報を生かすためにも、これ以上の滞在は無理をきたすだろう。
しかし、別れ際に彼は言った。
「次、来るときには答えを欲しい」
イルミナは、それに無言で了承した。
「それで?
殿下はどうなさるおつもりなのですか?」
アリバルはハーヴェイが去ったあと、すぐに核心をついた。
「・・・それは、今言わなければなりませんか」
イルミナは、アリバルの顔を見ずに返す。
そんな彼女に、アリバルはため息をついた。
そして、先程から一言も発しない男に対しても。
「・・・わかりました。
正直、まだ不安定なところが多いですからね。
ですが、必ず決めてください。
イルミナ殿下、ご自身で」
アリバルはそれだけ言うと、颯爽と部屋を出ていく。
残されたのは、妙な沈黙とグランだった。
「・・・どうしたのですか、グラン。
貴方も、戻らなくていいのですか」
イルミナはそれだけを口にした。
それ以上、何も言えなかった。
「・・・イルミナ」
どくり、とイルミナの心臓が脈打つ。
そうして思い知るのだ。
彼の事が好きだということを。
だからこそ、駄目だった。
「グラン、私はこれから王のところに行かなければなりません。
他に何か用ですか」
自分でも驚くほど、平坦な声がでた。
その声音に、グランは息をのむ。
「・・・いえ、私もこれで」
執務室を出ていくグランの背を、無言で見つめる。
―――その背に、縋りつく事ができたのであれば、どれだけいいだろうか。
しかし、イルミナはその自分の欲を抑え込んだ。
それをすることは、駄目だと。
茨の道を歩くと決めた自分には、してはならないことだと言い聞かせる。
そうでもしないと、涙が零れ落ちそうだった。
「陛下」
王は、王専用の応接間にいた。
王妃の姿は見えない。
きっと臥せっているのだろう。
「・・・なんだ」
王は、厭そうな声音でイルミナを迎える。
そのことに、イルミナは苦笑した。
自分は、そういった態度にも、慣れてしまっていたらしい。
・・・前であれば、傷ついていたその対応も。
「・・・私がここに来た理由を、お分かりになられているのでしょう。
そろそろ宣言を」
ベナン達が投獄された今、それを指示したのはイルミナだということはすぐに知れてしまうだろう。
それに、貴族たちが王のことに感づき始めている。
そして、リリアナの状況も。
決めなければ、国の貴族や上層部が揺れる。
そうなって、何も起こらない保証などない。
だから、一気に片を付けてしまいたいのだ。
ベナン達が不祥事を起こし、それをイルミナが摘発。
そんななか、王は病床につく。
それを心配したリリアナはウィリアムと共に、王の静養先へとついていくことを表明する。
その件と、今回のイルミナの功績を考え、イルミナを女王にすることを発表。
それが、イルミナが考えた一番スムーズな交代だと考えている。
というより、イルミナにはそれ以外考えつくことができなかった。
これであれば、王への不信感もある程度は緩和されるだろうしリリアナへの不評も回避できるかもしれない。
それは、イルミナが家族へ出来る最後の思いやりだった。
「・・・こんなに早くか・・・?」
渋る王に、イルミナは現状を伝えねばならないのかと心の中でため息をつく。
「以前ご了承して下さったでしょう・・・?
・・・リリアナが、引きこもってしまったことによって、貴族たちは彼女に不満を覚えています。
そしてブラン公爵たちは、リリアナが女王になったのあれば領地に戻るということを公言し始めています。
かつての王家にも、いましたね。
病死してしまわれた、御方たちが・・・」
その噂が広がり続ければ、リリアナに危険が及ぶ。
経緯はどうであれ、結果が全ての世界でもある。
女王になると宣言されておきながら、結果的に何もしていないリリアナを貴族は認めることはできないだろう。
そのまま放置すれば、国に残るのは何だろうか。
無能な統治者は、影の統率者に消されることだってあり得るのだから。
「!! っ、わかった・・・!!」
王の態度に、イルミナは一瞬だけ泣きそうになった。
自分だと、きっとこうはならない。
そんなこと、とうの昔に理解している。
もう、父として見ていないのに。
そのはずなのに、どうして。
どうして、心は痛むのだろうか。
「・・・英断です、陛下。
では一週間以内に、出来るよう、手配いたします」
イルミナは熱くなりそうな目頭を必死に抑えて、それだけ言った。
決めてしまったという思いと。
やっと決まったという思いがイルミナの心をかき乱す。
ついてきてくれたハザには、独りにするように伝え、騎士舎へと帰らせようとした。
渋るハザだったが、四阿に行くのだというとその前まで、とだけいってついてきた。
イルミナのお気に入りなこともあって、そこには常に衛兵がいるためだ。
これが、王家なのだ。
一人で行動することなんて、あるはずがない。
今までがおかしかったのだな、とイルミナは思った。
月明かりに照らされる四阿は、いつもより寂しく見えた。
吐く息は白く、指先からジンとした冷たさが伝わる。
月はまんまると太っていて、いつもより大きく見えるような気がする。
イルミナはぼんやりとしたまま、いつもの場所に腰を下ろした。
火も何も用意していないから、凍えるように寒い。
それでも、今は、その場に居たかった。
もしかしたら、その場しか居る場所が無い、の間違いだろうか。
―――――悲しくなんてない、筈だ。
自分は、あの人をもう父としては見ていない。
だから、気にしていない。
そのはず、だ。
なのに、この胸に走る痛みは、なんなのだろうか。
いや、本当は分かっている。
自分が言っても、なかなか了承しなかった王は、リリアナのことを話した途端、了承した。
リリアナの命がかかっていると知って。
―――自分の毒耐性の時には、何もなかったのに。
それが、全てだと、分かっている。
イルミナは弱い自分が嫌になった。
貴族たちの前で啖呵を切ったくせに、こんな些細なことで揺れてしまう自分が。
女王になると決めたはずなのに、小さなことで傷つく自分が。
どうすれば、強くなれるのだろうか。
どうすれば、何者にも侵されない自分というのが出来るのだろうか。
強くなったら、悲しまなくて済むかもしれない。
何物にも侵されないほどの精神力をもっていれば、何事にも動じなくなるのかもしれない。
そうすれば、こんな小さなことで泣きたくなることも、なくなるのかもしれない。
そう考えたくなってしまうほどに、イルミナは自分の心の弱さが嫌になっていた。
しかし、心動かされない女王となれば、それはただの独裁者でしかない。
いつもの状態であれば、それに気付けただろう。
しかし、今のイルミナにはそれに気づく余裕がなかった。
気付けるほどの、心の余裕は無かった。
心に残る、その人を呼ぶ。
「―――――、ぐらん」
小さな声で、呼ぶ。
たすけてほしい
あまやかしてほしい
なぐさめてほしい
ベナンを投獄した時、イルミナは自分に幸せはあってはならないと考えてしまった。
誰かの人生を狂わせた自分なんかが、幸せになってはならないと。
誰かがイルミナの考えを知ったのであれば、それは違うと言ったことだろう。
そんな烏滸がましいことは、考えてはいけない、と。
そもそも、ベナンの場合は自業自得でしかないのだと。
しかし、イルミナは誰にも言わなかった。
その烏滸がましいともいえる考えを、自分の中で抱え込んだのだ。
それが、どれだけ痛ましいことかを知らずに。
「―――、ぐらん・・・」
いないのなんて、分かっている。
傍にいないのなんて、知っている。
それでも。
「っ、ぐらん」
「―――やっと、呼んだ」