第一王女の救出
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
いや、むしろ日々なのか、月日なのか。
日が上がっては沈んでいき、月が登っては消えていく。
もう何度目かなんて覚えていないし、数えてすらいない。
部屋は常に甘ったるい香りで充満しており、イルミナの思考を奪っていく。
それは、麻薬というものだということを、イルミナは知らない。
イルミナは、ただただ人形のようにティンバーに大切にされていた。
自分の名前を呼ばれることなく。
「マリー、マリーネア。
今日は君の好きなお菓子を持ってきた。
ハルバートでよく飲んだ紅茶も取り寄せたんだ・・・。
またあの時のように色々な話をしよう」
皺でいっぱいの顔を、少年のように綻ばせるティンバーに、イルミナは何の感情も抱けない。
そもそもそれ以前に、イルミナはティンバーのことをよく知らないのだ。
いくら彼がマリーネアと交流を持っていたとしても、それはイルミナではない。
宰相ということは知っている。
そして、ヴェルナーの上司だということも。
そして、長年王に付き添い、そして祖母であるマリーネアに懸想していた。
しかし、それ以外は何も知らない。
何が好きで、何が嫌いなのか。
国のことをどう思っているのか。
「・・・さ、い・・・しょ・・・」
イルミナがティンバーを宰相と呼ぶと、ティンバーは烈火のごとく怒った。
マリーネアが自分のことをそう呼ぶな、と。
殴られることはなかったが、それでも恐ろしかった。
それから、イルミナは宰相のことを呼ばなくなった。
どこの屋敷かまではわからないが、結構な年数が経っていると気づいたのはいつだっただろうか。
たまに。
本当に偶にだが、甘ったるい香りが薄くなることがある。
その時、ぼんやりとした視界は少しだけクリアになり、考えることも出来るようになる。
そういった時に、身体を動かすことはできないものの、イルミナは目で周りを確認していた。
屋敷には、多くでメイドが二人、だろうか。
そして宰相本人と、男が一人。
部屋に扉は一つ、そして格子張りの窓が一つだ。
可能であれば、逃げ出したい。
いくら自分に意味が無いのだとしても、ここで終えたくはない。
だが、ぼんやりとする頭では何も考えられない。
イルミナは無為な日々を送らざるを得なかった。
宰相にとっては蜜月でも、イルミナにとっては地獄のような日々だった。
砂糖菓子で包むように大切にはされている。
しかし、イルミナであることを否定される。
マリーネアと呼びかけられ、自分というものが分からなくなってくる。
いっそのこと、と頭の片隅で考えてしまうのも仕方のないことだろう。
しかし、そんな日々も長くは続かない。
宰相は、仕事を全て放棄していた。
ヴェルナーに任せると一言、書置きを残して。
どんなに頭脳明晰とて、人生をかけても欲していた存在を手に入れた宰相は、もはや国のことなどどうでもよくなっていたのだ。
しかし、それは国の高官として許される行為ではない。
宰相、ティンバー・ウォーカーはすぐに秘密裏に指名手配された。
―――――――――――そして。
「―――殿下!!!!」
扉が壊された。
甘い香りが、少しだけ薄れる。
しかし、イルミナは何も言わずに宙を眺めるだけだ。
その状態のイルミナを一番に見つけたのは、アーサーベルトだった。
アーサーベルトは己を恥じていた。
そして、自分の無能さに絶望すらしていた。
少し、ほんの少しだ。
自分が目を離した隙に、イルミナは攫われたのだ。
しかも、それを知ったのはグラン達に言われてからだ。
ヴェルナーと共に、日夜問わずにイルミナと宰相の痕跡を探す。
持てる権力全てを駆使し、二人は探し続けた。
しかし、大事になるわけにもいかず、グランやブランの指示の下、表面化しないようにしながら。
そうしてやっと見つけた主は、見るのも耐えられぬくらい酷いありさまだった。
「で、でん、か・・・」
呼んでも、イルミナは微笑まない。
信じられない気持ちで、イルミナを見る。
いつもであれば、呼べばこちらを振り返って下さるはずなのに。
なぜ。
アーサーベルトに続いて入ってきたハザは、団長の戸惑いを感じながらも、慌てて扉を潜り抜けた。
そして目に映る、その人の姿に、アーサーベルトの困惑を理解し、匂う甘ったるい香りに、顔色を変える。
「団長!!!!
これ麻薬です!!
急いで殿下を出さないと!!」
悲鳴のような言葉に、アーサーベルトは涙を堪えながらイルミナの下へと駆け寄る。
そして、その体をガラス細工のように優しく持ち上げると、医師を呼べと激を飛ばした。
堪えたはずの涙は、知らぬうちに頬を伝った。
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「・・・、これは・・・。
少なくとも命に別状はないじゃろう・・・。
しかし、薬を抜くために安静にせねばならんだろう」
フェルベールはイルミナをそう見立てた。
その言葉に、安堵の息をつくのはヴェルナーとアーサーベルトだ。
しかし、逆にグランやアリバル達は顔を顰めた。
「・・・フェルベール、それは殿下が耐性を持っていることを加味しての内容か?」
ブランが問うと、フェルベールは顔を歪ませる。
「・・・それを入れると、どれくらいの期間安静にせねばならんのか・・・。
わしには見当もつかん」
「っな、」
「そもそも、今回の麻薬は元より命に係わるものではない。
しかし、長期的に吸えば思考能力を低下させ、酷い時じゃと廃人にもなることがある代物じゃ。
解毒薬はあるにはあるが即効性はない。
ないよりはましじゃがな・・・。
しかし、イルミナ殿下は多数の毒に対して耐性を持っておられる。
となると、本来よりも効きは悪いじゃろう・・・。
ヴェルナー、お主なら殿下の記録を持っておるじゃろう、
そこから確認しておこう」
話を振られたヴェルナーは、唇を噛みしめすぎて端から血が出てる。
表情は苦悶一色だ。
「馬鹿者、責めておるわけではない。
あの時はそうせねばならんかっただろうが。
本来であれば一月ほどで改善されるが、殿下の場合はもっとかかってしまうやもしれん」
フェルベールはそう締めくくった。
「どうする、グラン」
ブランはグランに問うた。
「・・・今下手に城にいると余計に危ないだろう・・・。
どこかの離宮でもと考えたのだがな・・・。
しかし王の許可なしにそれも出来ん、というより危なくない保証がない。
我が領地はいくら何でも遠すぎるしな・・・」
ベッドに横たわるイルミナを横目で見る。
イルミナは、眠ることもせずにただぼんやりとしている。
その瞳には何も映してはいない。
それは、酷く痛々しくグランの目に映った。
「とりあえずラグゼン公には一度国に戻って頂こう。
今の状態の殿下だとお会いしても意味は成さんだろう」
「そうですねぇ。
正直リリアナ殿下にもあまりばれたくはないですから・・・。
療養を兼ねてアウベールに視察に向かった、ということにでもしましょうか」
アリバルはそう提案する。
「あそこであれば、今常駐している騎士やらも多いですし、
自然が多いですからね。
それに城からそこまで離れていませんし・・・。
私の所のジョンもいますから、何かと都合は良いでしょう」
それに同意したのはブランだ。
「そうだな、どうせならグランも一緒に行ってこい。
お前のところの執事は有能だろう?
少しぐらい任せても問題はなかろう。
・・・クライス、アーサーベルト」
呼ばれた二人は弾かれたように顔を上げた。
その表情は舌鋒に尽くしがたいほどの苦悶に歪んでいる。
「・・・なんて顔している!!
殿下はこれからもっと辛くなるのかもしれないというのに!!
それを支えようとは思わんのか!!」
ブランの怒声が室内に響く。
大声に反応したのか、イルミナの細い肩がびくりと揺れた。
「・・・ジェフェリー」
咎めるようなアリバルの声。
いくら喝をいれたかったとしても、ここにはイルミナがいるのだ。
「っ、すまない。
・・・とりあえず、イルミナ殿下のことはグランに任せておけ。
グラン程名が通っているやつもそうそうおらんだろう。
お前たちには、城を任せることにする」
怒鳴られた二人はのろのろと顔をあげた。
「しろを・・・?」
「そうです。
宰相のことと、王のこと。
そしてリリアナ殿下のことなどです。
ヴェルナーは殿下と一緒に政策を考えていたのでしょう?
帰ってくるまで、止めておくなどできませんからね。
貴方主体で出来る限りのことをしておきなさい。
もちろん、全部とまではいきませんがある程度は協力しましょう。
いいですね、ジェフェリー」
「・・・あぁ」
アリバルは、イルミナが帰ってくるという前提で話を進めた。
正直、こんなことで潰れられても困るのだ。
彼女の政策は、魅力的だった。
将来、自分の子や孫のことを考えれば、是非とも成功させてほしかった。
しかし、彼の立場上、手放しで手伝うわけにはいかない。
グランの様に自身の子を婚姻にという考えは最初からなかった。
そもそも我が子は、まだ生まれたばかりだし、娘だ。
いや、息子だとしてもやるつもりなどこれっぽっちもないが。
入れ込む気などなかった。
成功してからでもいいかと考えていた。
しかし、この今の状況ではそうも言ってはいられない。
「では、頼みますよ」
アリバルは介入することを密かに決意した。
「・・・・・・ま、りぃ・・・あ」
不意に、イルミナが虚ろの状態で呟いた。
それに一番に反応したのはグランとヴェルナーだ。
「イルミナ!!」
「っ、殿下!!」
「・・・、」
誰もが、息を飲む。
少しの期待と、恐怖を抱いて。
そして。
「・・・だ、れ・・・か、」
イルミナはそれだけ言うと目を開いたまま涙を零し始めた。
涙は止まることなくイルミナの頬を滑り、そして枕に吸い込まれるようにして消えていく。
「っ、殿下、殿下!!
ヴェルナーです・・・!
ここに、ここにいます・・・!」
ヴェルナーはイルミナの手を取ると、縋りつくようにその手を自身の額に当てた。
祈るように、届くように。
しかし、イルミナが表情を変えることはなかった。