王と貴族たち
ぼんやりと、何もかもが霞む。
全てが現実感がなく、ヴェール越しにものを見ているようだ。
そういえば、ここはどこなのだろうか。
今、自分はどうなっているのだろうか。
「殿下、殿下、
もう何も、気になされなくてよろしいのです」
考えようとすると、その声はいつも響いた。
まるで、イルミナを囲うように。
優しく、甘く響いた。
甘い香りが、鼻をつく。
これは、あの花の香りではない。
ぼんやりとする頭でそれだけ理解する。
むしろ甘ったるく、鼻につく香りだ。
「長かった・・・。
今日という日を、どれだけ待ち望んだことか・・・」
声は、感極まるかのように時折水気を含んでいた。
どうして、そんな声を出すのだろう。
どうして、そんなにも嬉しそうなのだろう。
「あの忌まわしきハルバートという国が、国王が、私からあの御方を奪った・・・。
その血を継いだあの王妃なんぞ、消えてしまえばいいと思っていたのだがな・・・。
しかし、あんな王妃でも殿下を生んでくださった・・・。
そこだけは感謝せねばならない」
嬉しそうに笑うのが、空気を通してわかる。
それにしてもあの御方とは、いったい誰のことだろうか。
何かが引っかかるはずなのに、なにも考えられない。
そして、乾燥した手がイルミナの頬を撫でた。
まるで宝物を扱うかのように。
「殿下、
イルミナ殿下・・・。
もう安心してください、
もう誰も、貴女を傷付けることはありません、
そして、もう二度と、私から離れないようにしますからね・・・。
そう・・・もう二度と、嘘など言わなくてもいいのですよ・・・、
あの憎き王もここにはいない、
そうだ、ここには、あそこのように二人だけなのだから・・・」
言葉に狂気が宿る。
それは、酷く歪で引きつっていた。
そのことに、イルミナは気付けない。
「あぁ、あぁ・・・。
やっと、私のものになって下さるのですね・・・。
マリーネア・・・」
まりーねあ・・・。
その名は幼いころから何度も聞いたことがある名だった。
そして最近も。
王妃の母であり、ハルバートを見事に支え、賢妃と名高いその人。
そんな彼女は、若くしてこの世を去っているため、イルミナに面識はない。
ただ、似ているとだけしか言われたことはない。
宰相は、祖母と面識があったのだろうか。
むわり、と一段と煙が濃くなる。
甘ったるい香りは、イルミナの思考回路をぐずぐずに溶かしていく。
考えなくては、ならないのに。
「マリーネア、私の愛しいマリーネア・・・。
もう私達を邪魔するものはいないよ・・・」
イルミナは違うと叫びたかった。
自分はイルミナで、マリーネアではない、と。
しかし、全身が倦怠感に包まれ指一本動かすことが出来ない。
誰か、気付いてくれるだろうか。
助けに、来てくれるだろうか。
そうして、助けを求める自分に気付き、嘲笑がこぼれた。
王は、自分を宰相に降嫁するつもりだった。
もし、これで正式に発表すれば。
お披露目式など、宰相が一言イルミナが体調が悪いとでもいえばやらないだろう。
体調の悪い娘に一目会おうなどと、あの人たちが思うはずもない。
むしろ王たちからすれば、会わずに済むのだから願ったり叶ったりかもしれない。
ヴェルナーたちは、気付いてくれるだろうか。
いや、気付きはするだろう。
だが、相手は宰相。
そう簡単にはいかないだろう。
第一、イルミナの存在意味などあるのだろうか。
女王にもなれず、政策だってまともに一つ完成させていない。
愛されたいと駄々を捏ねて、最終的には全部が無駄だったと知る、ただの我儘な子供のイルミナを。
そうして、イルミナはひとつずつ諦めるように目を伏せた。
無意識に涙が零れたが、それに気づくことはない。
だって、疲れてしまったのだ。
頑張っても頑張っても。
望みは叶うことはない。
それを知って生きていけるほど、イルミナは強くはなれなかった。
「マリーネア、私のマリー・・・」
洗脳するかの如く、宰相の言葉が耳から流れ込んでくる。
自分はマリーネアではない。
でも。
マリーネアになれば愛してくれるのだろうか。
イルミナは、見えない泥沼に沈み込んでいくように、少しずつ意識をなくしていった。
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「陛下!!」
謁見室を、グランの低い怒鳴り声が響く。
その声に、王はびくりと肩を揺らした。
「な、なんだ、グラン・・・。
王に向かって無礼な・・・」
確かに、本来貴族であるグランが王に向かって怒鳴るなど許されるものではない。
しかし、それを気にすることが出来ないくらいに、グランは心の底から激怒していた。
「・・・どういうことですか・・・。
この国の第一王女を、誰の断りなく、自身の勝手な一存で、宰相に降嫁するなど・・・」
グランの隣には、ハーヴェイ・ラグゼンも無表情のまま立っている。
「そうです、ヴェルムンド王。
いくらなんでも早計すぎです。
こうしてラグゼンファードから、私が求婚しに来ているというのに」
ハーヴェイの言葉に、王は軽く目を瞠る。
しかし。
「すまない、ラグゼン大公。
第一王女は既に宰相の下へといっておってな・・・。
体調も崩したらしくそのまま屋敷に居るとのことだ。
代わりと言っては何だが、わが国の貴族の令嬢を何人か当たろう・・・。
きっと気に入られるものもおろう」
その言葉は、二人の男の怒髪天を突いた。
いくらなんでもおかしいだろうということに、なぜこの王は気付かない。
何がそこまで彼をそうさせるのだ。
グランが口を開こうとした瞬間、謁見室の扉が重い音をたてながら開かれた。
「・・・、ブランに、アリバル・・・?」
そこには、熊のような男と、眼鏡をかけた優男がいた。
熊のような男、ブランはむっつりとした表情を。
眼鏡をかけた優男、アリバルは柔和な笑みを浮かべながら歩み寄ってくる。
二人がいるからこそ、グランは王都を気にせずに領土の防衛を考えられたといっても、過言ではない。
「久しぶりですね、グラン。
前に会った時は挨拶しかしていませんでしたね。
それに・・・これは、ラグゼン大公・・・。
こうしてお会いするのは初めてですね」
アリバルは、その緊張感溢れる空間に似合わないほど穏やかな挨拶をした。
反対にブランは鋭い目つきで王に視線を向け、腕を組んでいる。
どう見ても王に対する態度ではなかった。
「先日ぶりですね、陛下」
「っ、そうだな、アリバル。
して、今日はどのような要件だ?
私は面会の約束などは聞いていないが」
王のその言葉に、ブランは小さく鼻で笑った。
「ジェフェリー・・・。
失礼、陛下。
いえ、どうしても聞きたいことがありまして」
眼鏡の奥の目は、一切笑っていない。
そのことに気付いたのは王以外の全員だ。
「そこまで、マリーネア様を嫌っておいでですか」
にこり。
そう言うに相応しい笑顔でさらりと言った。
その瞬間、王は凍ったかのようにぴたりと静止した。
「な、にを・・・」
「私が知らないとお思いでしたか・・・。
陛下ともあろう方が・・・。
では、宰相のことも何も知らないのですね」
なぜここで宰相が出てくる?
王の表情はそれをありありと語っていた。
「私も、こうならなければ分かりませんでしたよ・・・。
本当に、あの男は小賢しい・・・。
陛下は、宰相がハルバートにかつて短期で留学していたのはご存知ですか?」
「・・・知って、いるが・・・」
聞いただけだが、と王は続ける。
ブランは内容を知っているのか、表情を一切変えない。
「結構。
かつて宰相は、ハルバートに単身で勉学の為留学をしておりました。
もちろん、簡単なことではありませんでしたが、彼は貴族のコネというコネを利用して行ったのです。
そして、ある女性に恋をした。
彼女の名前はマリーネア様。
そして、次期王妃候補として名高いお方でした」
グランはそこでようやく気付いた。
どうして、宰相がイルミナの降嫁を願い出たのか。
「若き彼は、王妃教育で泣く彼女をどうしても助けたかった。
だから、彼女を妻にしたいと言ったそうです。
しかし、マリーネア様はそれを断わられた。
そしてハルバート王妃となり、わが国の王妃と他に子供を授かり生んだ。
その知識と見事なまでのカリスマで、彼女は王を支え、王亡き後も国民を思い続けた。
ハルバートでは一番素晴らしい王妃は誰だと聞けば、皆がマリーネア様を上げるほどには。
そして、賢妃と名高かった彼女は、それ故に暗殺された」
冷たい視線が、王を射抜く。
王の表情からするに、知らなかったようですらある。
「さ、宰相が・・・あの人に・・・?」
信じられないと言わんばかりの言葉に、ブランは今度こそ嘲笑した。
「王よ、
貴方は知らないのだろうが、マリーネア様は私が知る中でも一番素晴らしいお方でした。
王妃が泣かされたと言っていましたが、それは王妃の問題です。
王妃教育を嫌った彼女に厳しく当たるのは仕方のないことでしょうが。
そもそも、かの方は王妃を国内の貴族に嫁がせようとしていた。
当たり前だ、王妃は、マリーネア様と亡き王の一粒種だったのだから。
しかし、それを貴方が横取りした。
反対するのも当然だ」
アリバルがさらに続ける。
「しかも、この国には宰相が居る。
もし、娘に自分と同じような子が・・・そう自分に似た孫が生まれた場合のことも考えていたのですよ」
王はわなわなと震え始める。
知らない、そんなことは、聞いていないとその口はかたどる。
そんな王を見て、ブランとアリバルは呆れたようにため息をついた。
よくもまぁ、このような王でよくここまで保ったと言わんばかりに。
「そもそも、リリアナ殿下を女王にするように進言したのは宰相でしょう?
なぜ、不思議に思わなかったのですか、
どう考えても、イルミナ殿下の方が適任でしょうに」
きっと、ここまで自国の王に物申す貴族は居ないだろうとグランとハーヴェイは思った。
それくらい、切りつけるかのような言葉だった。
しかし、だからと言って王に同情はしない。
王は、気づかなければならなかったのだから。
「で、イルミナ殿下はどちらにいらっしゃるのですか、
宰相との婚姻なんぞ、誰が許すものですか。
そんな王族の癖に、国の為にならないことを・・・」
アリバルの言葉に王は力なく項垂れた。
そしてぼそりと呟いた。
「しらん・・・、
宰相も、居所がわからぬのだ・・・」