愛する人
リクエストです。
ご期待に添えれば幸いです。
「泣くな、イルミナ・・・」
手はもう、上げることが出来ないくらいに弱っている。
それが、とても悔しい。
「っ・・・」
それに気付いたのか、自分の手を取り自らの頬を寄せるその人。
紫紺の瞳からは今にも零れそうなほどの涙が溜まっている。
出来るのであれば、それを拭ってやりたいというのに。
「・・・イルミナ、昔のことを、話して、くれないか・・・」
「っ・・・、っく・・・。
わ・・・私と、貴方が、初めて会ったのは・・・」
グランの脳裏に、イルミナの言葉と共に映像が流れる。
そう、イルミナという少女に最初に出会ったあの頃が。
************
イルミナは覚えていないだろうが、一番最初に出会ったの時、彼女はまだ幼い少女だった。
既に城の中で冷遇されていた、哀れな娘。
いつも控えめにしていた、美しい子供だった。
二度目に会ったのは、彼女に会う為にライゼルト領から馬を飛ばした時だ。
彼女の寄こした政策が、とても魅力的に見えて、どうしても会いたくなった。
そして久々にあった彼女は、利発的な少女へと育っていた。
辺境伯として恐れられている自分を前に、微笑みを絶やすことなく話をする彼女。
そんな彼女の将来が、とても楽しみに思えた。
そんな彼女であれば、この国はさらに良くなるだろうと思わせてくれた。
そうしてウィリアムと引き合わせ、己が親として、人として未熟だったことを知った。
いくら辺境伯と恐れられていても、結局一番大事なところで失敗したのだと。
そして夜中に謝りに彼女の元を訪れた。
月明かりの下。
彼女は妖しいまでに美しかった。
その頬は乾いていて。
泣いていれば、慰める方法などいくらでも思いつくのに。
自分は彼女の頬を撫でるだけで精一杯だったといったら、彼女は驚くだろうか。
ウォーカーに嵌められ、家族に切り捨てられ。
それでも、その気高いままの心に、自分がどれほど心配し、心奪われたのか。
あぁ、アウベールでの蜜月。
何もできない彼女を、親鳥のように守るのは、心満たされる思いだった。
自分がいなければ何もできない、そんな彼女を手元に置くという夢のような話に、自分は本気だったと知れば、彼女はどんな反応をするだろうか。
君は、自分の家族をエルムストに送ったとき、酷く辛そうな顔をしていた。
他人がなんと言おうが、私にはわかった。
だって、君は情の深い人だから。
そうでなければ、もっと早くに全てを行っていただろうから。
そんな君の心を、私は少しでも守れただろうか。
ラグゼンの時は、本気で焦った。
彼ほど、自分を焦燥に駆らせた存在はない。
彼女が、イルミナが。
自分でなく他の人の手を取るという考えに、眠れない夜があったといって、彼女は信じてくれるだろうか。
自分を好いているのだと知って、浮かれた自分の失敗も。
貴族を黙らせるために平気で自分の身すら使う彼女に、私がどれほど絶望したか。
恐ろしかった。
愛する彼女が、そういった方法を簡単にとることについて。
また、喪うのかと。
――――握られた手が、とても暖かい。
そうして、彼女が自分の愛を受け入れてくれた時。
そして、彼女がそれに返してくれた時。
私がどれほど天に上る気持ちだったか、君は知っているか。
初めて口づけた時も、愛おしさのあまりどうにかなりそうだったが、それ以上に満たされた気持ちになった。
正直、君の潤んだ瞳を見て、何度か理性が飛びそうになった。
このまま、手に入れてしまおうかと思ったことは、一度や二度ではない。
あの夜。
あの、梔子に囲まれたあの場所で。
私が君にプロポーズをしたとき、酷く緊張していたといったら、君は笑うのだろうか。
笑って、私もだと言うのだろうか。
――――手に伝う雫が、とても熱い。
今でも鮮明に思い出せる。
自分の為だけに着てくれた、真っ白なウエディングドレス。
あまりの美しさに、女神かと思ったほどだった。
もう二度と、放しはしないと、あの時誓った。
そしてその晩は、まさに天国だった。
あぁ、この話をすると君はいつでも照れる。
その表情も愛しくて、ついしてしまった。
思ったより早くに懐妊したとき、私が一人で涙を流したと言ったら、君は怒るだろうか。
それとも、仕方のない人と言うのだろうか。
エドガーが生まれてくる日、私がどれほど挙動不審だったか。
メイドたちから聞いた君は、少しだけ困ったように、でも嬉しそうに微笑んでいた。
初産で大変だっただろうに、産んでくれたことを神に感謝した。
出来るなら代わってやりたいと何度思ったことか。
生まれてきた我が子たちは、等しく可愛かった。
エドガーは君の瞳を。
エルリアは君の両親の色を。
ダレンは、君そっくりで。
君は、エドは髪が。
エルリアは瞳が。
ダレンは、顔立ちがそっくりだと、そう言ってくれて、どれだけ私が嬉しかったことが。
――――掌に感じる、唇。
本当に、幸せだった。
喧嘩したこともあった。
怒ったことも、怒らせたこともあった。
でもいつだって、君は私の傍に。
私は君の傍にいた。
政策が上手くいかず、泣いた日に傍にいれて良かった。
エドが甘えてくれないと悲しんだ時、一緒に話しあえてよかった。
エルが反抗期になり、うまく愛せていないのだろうかと絶望したときに傍にいられてよかった。
ダレンが旅に出るとき、相談を受けられてよかった。
イルミナ。
私の愛する人。
――――「グラン、グラン」
君の声がする。
本当を言えば、もっと一緒にいたい。
胸がずきりと痛む。
もっともっと。
出来るなら、君が逝くまで。
自分の体のことを知ったとき、泣いた。
年甲斐もなく、泣いた。
もっと遅くに生まれていれば。
そうすれば、もっと一緒にいられたのだろうか。
・・・わかっている。
そんなことを考えても無駄だと。
でも、それでも考えてしまう。
迫りくる死の恐怖に怯えて、君に縋りついて泣いたとき。
君も泣いていた。
どうしようもない時の流れに、無情さを感じた。
嫌だった。
愛する子供たちを、君を、置いて逝くのが。
年上だと言うのに、なんともみっともないと思いながらも、どうしても無理だった。
そんな私に、君はもっと思い出を作ろうと言ってくれた。
あの時、私が言ったように。
私が愛された記憶を持ち続けられるように、と。
本当なら、次に愛せる人を探せと言うべきなのだろう。
だが、どうしてもできなかった。
どうしても、それだけは言えなかった。
――――「グラン、私の唯一・・・」
あぁ、なんて、悔しい。
この世に未練しかない。
もっと、もっと。
できるならずっと、傍にいたいというのに。
************
「・・・君は、相変わらず、美しい、な」
「貴方、こそ・・・」
互いに年を取り、皺も増えた。
髪には白いものだって混じっている。
それでも、二人は互いを一番だと思った。
イルミナはベッドに横たわるその人の手を握りながら、一生懸命泣くまいとする。
しかし、自分の意志とは裏腹に、その紫紺の瞳からは次々に涙が零れ落ちた。
本当は、泣いてしまいたい。
置いて逝かないでと、独りにしないでと、泣き縋りつきたい。
でも、それはグランも一緒だと知っているから。
自分を置いて逝く彼のほうが、もっと悔しく思っていることを知っているから。
「・・・ねぇ、グラン。
私、幸せだわ」
「・・・ほん、とう、か」
「ええ、貴方に出会えて・・・。
かわいい子供を三人も授かって・・・。
何より、貴方は私の傍にずっといてくれた」
十五で出会ってから、その倍以上の時間をグランはイルミナと共にいた。
嬉しかった日も、悲しかった日も、怒った日も、泣いた日も。
隣にはずっとグランがいた。
彼が自分の余命を知ったとき、イルミナに泣き縋った日。
神はなんて酷いのだろうと思った。
でも、彼と出会えたことも、神に感謝したのだ。
「わたし、の、ほうこそ・・・、
しあわせ、だったよ・・・イルミナ・・・」
ぐっと、眉間に力を入れる。
「君に、出会って・・・私は、幸せ、ものだ・・・」
「・・・私のほうが、幸せよ・・・。
泣いちゃうくらいに、幸せ・・・」
ほろほろと。
手の隙間から残りの時間が流れ落ちていくように感じる。
止めたいのに、止められない。
「・・・なくな、とは・・・いわないよ」
「っ」
「でも、さいごの、君は・・・笑顔のほうが、うれしい、かな・・・」
「~~~っ」
泣くな泣くなと、イルミナは自分に言い聞かせる。
笑って、お願いだから。
彼の望みを、叶えてあげたいの。
しかしイルミナの涙腺は壊れたように涙を零し続ける。
それをグランは、眩しそうに、仕方ないなとでも言うように見る。
「・・・す、まない・・・、もう、ぬぐって、あげられない・・・」
「っ・・・いいの、だいじょうぶ、よ。
すぐ、とまる、から・・・っ」
イルミナの心が、悲鳴を上げそうになる。
いやだ、つれていかないで、と。
「・・・イルミナ」
「っ・・・、な、に、ぐら、ん・・・」
ぼろぼろと涙を零し続けるイルミナに、グランは優しく声をかける。
ずっと聞いてきたその声。
そして、あと少ししか聞けない声。
「―――ずっと、あいして、いるよ・・・」
「ひっく・・・わ、わたしも、よ、グラン・・・」
そしてイルミナは横たわるグランの唇にそっと自分のを重ねる。
自分の想いが、伝わるように。
「・・・あぁ・・・もっと、きみと、口づけを、して・・・いたい、な・・・」
「わ、たしも、よ・・・」
そして二人は何度も唇を合わせる。
ただ合わせるだけのそれだが、深い愛情に満ちていた。
境界すら見えない距離で、二人は見つめ合う。
「私の心は、君ととも、に・・・」
「私の心も、あなたとともに・・・」
グランはその言葉に嬉しそうに微笑んだ。
「・・・笑ってくれ・・・イルミナ・・・私の、愛する、ひと・・・」
イルミナは、泣きながら笑った。
グランの頬に手を添え、愛おしくてたまらないと笑った。
その笑みを見たグランは、安心したように息を吐く。
「・・・少し、やす、む、よ・・・」
「・・・わかったわ」
「・・・ぉやす、み・・・私の、ゆいい、つ・・・いる、み・・・な・・・」
そしてグランのオリーブグリーンの瞳は、瞼に閉ざされる。
息が徐々に細くなるのを、イルミナは感じる。
涙が、止まらない。
眠らないでと、叫んでしまいたい。
起きてと。
置いて逝かないで、私も、連れて行って、と。
「っ・・・ぐ、ら・・・」
グランは聞こえたのか、その口元に笑みを浮かべる。
そして。
「・・・母上」
「・・・どうしたの、エド」
先日、女王の夫であるグラン・ロンチェスターがこの世を去った。
国は喪に服し、鐘の音は物悲しく王都に鳴り響いた。
「大丈夫、ですか?」
長男のエドガーは、両親の仲睦まじさを知っているだけに、母が壊れてしまうのではないかと心配する。
しかし、母であるイルミナは黒いドレスを身にまといながらも微笑んだ。
「ありがとう、エド・・・。
悲しいけど、大丈夫よ。
あの人の心は、私と共にあるってことを、知ってるから」
少しだけ悲しそうに、でも美しく微笑む母に、エドガーは何とも言えない気持ちを持つ。
自分には、わからない。
父がいなくなった実感も、まだない。
最後の時は、両親は二人だけでいたから。
「・・・お母さま・・・」
エルリアもダレンも、心配そうに母を見る。
遠くには、目を赤くしたアーサーベルトとヴェルナーがいる。
「・・・心配かけて、いけない母ね・・・。
でも大丈夫よ、貴方たちがいるから」
「僕たちが?」
「そう。
あの人がくれた、大切で愛しいあなたたちが」
そういって母は、綺麗に笑った。
きっと悲しいだろうに。
泣き臥したいだろうに、それを見せない。
エドガーには、まだその気持ちが分からない。
だって、自分は泣いてしまいたいのに。
笑えないのに。
「おいで、三人とも」
そう言って母は自分たちを抱きしめようとする。
でも、三人の子供たちは既に大きく、その細い腕は到底回りそうにもない。
そしてエドガーは驚いた。
ずっと大きな存在だと思っていた人の、その小ささに。
「・・・エド、エル、ダレン・・・。
後悔しないように、生きなさい」
「・・・」
「私は、後悔していないわ。
愛する人がいて、貴方たちを授かって、国を良くするための力もある。
・・・いつか人は、別れるものよ。
泣いてしまうけど、悲しいけど、否定しては駄目。
受け入れるのに時間はかかるわ。
・・・でも、思い出を愛しなさい。
その人がいてよかったと、幸せだったことを思い出しなさい」
「母上・・・」
ヴェルムンド女王は、そう言って微笑みを浮かべた。