はなのなまえ
春はその盛りを終え、夏へと季節は移ろい始める。
木々は青々とした葉をつけ、太陽は燦々と大地へと降り注いだ。
鼻孔を擽る緑の香りは、若々しさを感じさせる。
抜けるような空の青さは目に痛いほどで。
たまに浮かんでいる真っ白な雲は、重そうな見た目に反して悠々と空に浮かんでいる。
時折降る雨は大地を潤し、作物を育てるのだ。
そして秋となり、収穫されたそれらは冬の為の備蓄へとなる。
寒い冬を越え、そしてまた春がやってくるのだ。
ヴェルムンドでは、今年の冬は一大イベントが待っていた。
女王たるイルミナの結婚式、それが開かれるのだ。
寒い時期に行わなくてもと思う者はいるものの、イルミナの十八の誕生日に合わせて行われるそれは彼女が成人になるのと合わせてのことと知って、納得し手を動かす。
国民は、イルミナと元辺境伯であったグランの恋物語に夢中だ。
元辺境伯は亡き奥方を想って独り身を貫いていたが、それを溶かしたのが不遇の第一王女。
そして彼女の為に全てを捨てたグランは、女性からすれば夢見る相手だった。
人とは現金なもので、妖精姫と愛された第二王女は話題にすら上らなくなっている。
陰険で暗いと評された第一王女が、国の為に尽くしているのを知ったとき、人は簡単に第一王女への関心を高めた。
世間の話を集め定期的にグランに報告している密偵ですら、その変わり身の早さに苦笑を零すほど。
しかし、いい傾向だとグランは思った。
第一王女が不遇でありながらも、優しさを忘れず王族としての役目を果たし続ける限り、民がイルミナへと牙を剥くことはない。
確かに、国として恐ろしいのは他国に侵攻されることだが、それ以上に恐ろしいのは自国の民の反旗だ。
民はいつだって厳しい目で上の人間を見る。
自分たちが治められるに値する人間なのか、従っていて大丈夫なのか。
だからこそ、貴族や王族は常に気を張っていなくてはならない。
目が届かなかった、なんていうのは言い訳にすらならないのだ。
いつぞやの、アウベールのグイードは、真理をある意味ついていた。
民は、上の人の顔なんて気にしない。
自分たちを守ってくれるのか、無体なことをしないのか、それが全てなのだ。
だから、先王が退位したと聞いても、なんとも思わないのだ。
だって、何も変わらなかったから。
人に惜しまれる王とは、どの国の長い歴史を探してもそうそういない。
しかし、一度現れれば必ず人の記憶に残り、その名は愛され続ける。
イルミナが目指す王がそこにあると知っているグランは、そのあまりの道の険しさに眉根を寄せることすらある。
自分の半分も生きていない彼女が、それを目指したことを素晴らしく思い、そして同時に、棘の道を選ばざるを得なかった彼女のことを思って。
「グラン様」
「・・・あぁ」
それでも、彼女の傍を離れようとは思わない。
たとえ彼女が、歴史の流れに負け、その身を滅ぼそうとも、自分だけは彼女の傍にいようと決めたのだ。
それが、グランにとっての愛情表現だった。
呼ばれたグランは、席を立つ。
愛する人が進むと決めた道を、支えるために。
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「そうですか・・・。
試験などを入れて、国家として認めたほうがいいのでしょうか?」
「そうですね、一つの職業として認めるのであれば、そうしたほうが後々いいでしょう」
「だとすれば、今考えられるだけでも薬師、治水・・・他にもありますか?」
「治水は建築関連に纏めたほうがよろしいかと。
分割しすぎると管理が面倒です。
農業関連もあってもいいですが、どのようにするかが問題ですね」
イルミナは上がってくる報告書を見ながら、ヴェルナーと相談していた。
学び舎はまずまずのようで、少しずつではあるものの民やそのほかの貴族にその必要性を認められつつある。
識字率を上げるということは、国の生活水準にも関係してくる。
出来るだけ早い段階で各領地に学び舎を浸透させたいのだ。
だが、学び舎で学んだだけでは、人によってはそれを認めないこともある。
昔ながらの薬師などは、経験から全てを学んでいる。
そういった人たちが認めるようにはどうすればいいのか。
一つの職業として扱うにしても、学び舎を出ただけでは心もとない部分もある。
だとすれば、国が認めればいいだけの話だが、そう簡単なことでもない。
「年に何度か、国が試験を開催しそれに合格した者が正式な者として認める、というのは?」
「いいですが、時間がかかります。
新たに設立する教育部に委任することになりますが、人が足りません」
「・・・そうですね。
内容もどうするかが問題になってきますし」
「とりあえず、アウベールがある程度落ち着いたら教師陣の一部を呼び戻しましょう。
彼らの力なくしては無理ですね」
「わかりました。
年内にはこちらの構想だけでも作っておきましょう」
イルミナはさらさらと紙に今後考えるべきをことを纏めていく。
結構な量のそれは、国の政策や今後議論するかどうか迷っているものをすべて書いたものだ。
「陛下、そろそろ休憩にしましょう」
ヴェルナーが書類を纏めながら言う。
「そうですね、ある程度話も進みましたから」
と、二人が席を立とうとしたその時。
「陛下、ドルイッド様がお見えです」
「ドルイッドが・・・?
ヴェルナー、すみませんが私はそちらに行きます」
「わかりましたが・・・あとでちゃんと休憩は取ってくださいね。
ナンシーには言っておきますから」
ヴェルナーのじとりとした視線に、イルミナは苦笑を浮かべる。
以前までのイルミナならば、休憩を取らずに仕事をしようとしていたが、今ではそうではないというに。
心配性を発動した彼は、どうしても信じ切れずにいるようだ。
「もちろんです。
そうでないと、貴方も休めないでしょう?
ドルイッドは応接室に案内してください、すぐに行くので」
「かしこまりました!」
イルミナは疑わしそうな視線を向けてくるヴェルナーを背に、執務室を出る。
財政官であるドルイッドがここに来るのは問題ないが、正直にいって荒れたこの部屋をあまり見られたくはない。
見た資料をそのままにすることが多いので、どうしても紙が多い。
ヴェルナーは、最初からこの状態を知っているので見られてもなんとも思わないが、そのほかの人には出来るだけ見られたくはなかった。
「待たせましたね、ドルイッド」
「ご機嫌麗しゅうございます、陛下。
この度は急な来訪、失礼いたしました」
「構いません。
でも珍しいですね、貴方がこちらにくるなんて」
ドルイッドの表情を、イルミナは注意深く観察する。
強張っている様子は特にない。
ものすごく悪い話ではなさそうだが・・・。
「それで、どうかしたのですか?
財政管理になにか問題でも?」
「あぁ・・・そのことなのですが、こちらを」
「?」
イルミナは渡された紙を見る。
それは、イルミナが即位する前と即位後の財政の動きだ。
イルミナが即位する前、公費は先王、先王妃、そしてリリアナへと主に使用されていた。
防衛、維持費、その他を見ても大した問題はない。
ただ、国庫の備蓄に回している分が少し少ないくらいだろうか。
そしてイルミナが即位後のを確認する。
以前より、公費の使用量は減っている。
行事に使用された分を見ても、そこまでの金額ではない。
税の徴収率にも問題はなさそうだが。
「・・・?
何を言いたいのか、よくわかりませんが」
「結果的に言うと、現在、国庫が予想以上の速さで潤っています。
公費が減ったのと、陛下が見直しをされて不要分を切り捨てたのが大きいのでしょう。
・・・ですが、このままだと貯まりすぎます」
「貯まりすぎる、というと?」
貯まるのはいいことではないのかと言いかけて、イルミナは気づく。
「そういうことですか・・・。
国が持ちすぎているのですね」
「そうです。
先代たちは公費で結構な金額を使用されていたので、その分が民へと使用され還元されていたのですが、陛下は使用しなさすぎです。
国庫が潤沢になればなるほど、民へと還元されていないことが明白です。
戦争をしていれば話は別ですが・・・現状を考えれば必要以上はないほうがいいでしょう」
持ちすぎる、というのはいいことではない。
特に、国ほどの規模になればなおのことだ。
国が金を使用することで、その金は国民へとまわり、その国民がさらに使用する。
そうすることで、経済は周り、潤うのだ。
今の状態では、国が金を抱えすぎている、ということになる。
「・・・わかりました。
こちらでも確認しておきます。
出来るだけ早い返答をしますので、待っていてください」
「申し訳ありません・・・、お手を煩わせることになってしまいまして」
「いいえ、私がそのようにしたのですから・・・。
知らせてくれてありがとう、ドルイッド」
ドルイッドはまだ仕事がありますので、と一礼し、応接室を後にした。
その後ろ姿を、イルミナは微笑みを浮かべて見送る。
そして扉が閉じた瞬間、ため息をついた。
圧倒的に、やらかしてしまったという後悔が胸中を占める。
早めに手を打たねばならないだろう。
だからと言って、税率を下げることはできない。
過去の数値から見て決めたものだ、そう簡単に変更出来るものではない。
学び舎にも十分な投資をしている。
ただ、各領地などに設立する場合のことも考慮しなければならないだろう。
イルミナはドルイッドが置いていった書類を見比べた。
「―――」
公費の使用量が落ちているのは当然のことだ。
そして、一部の貴族の更迭により、彼らの個人的な財産はそのまま国預かりとなった。
その部分も大きいのだろう。
「・・・治水と学び舎の建築費の割合をあげるか・・・、
それとも教育者への給与を上げるか・・・」
使おうと思えば、どこにでも使えるだろう。
だが、それをずっと行うつもりなのか、一時的なものなのかで話は変わる。
そのことも念頭に入れておかねばならないだろう。
先王時代、公費はドレスや舞踏会に使用される割合が大きかった。
それに食事も、珍味などを取り寄せることもしていた。
今も、国庫には先王妃やリリアナが買った宝石が多数眠っている。
しかしイルミナはそういったことにはほぼ使用しない。
先王たちに使用する公費も出来るだけ抑える様にしてある。
その浮いた分で、学び舎建設などをする予定だったが、想像以上に余っているらしい。
「・・・ふぅ・・・。
ヴェルナーとマルベールとも要相談ね」
ヴェルナーには自分の考える以外の方法を。
キリクには、防衛で必要になるものの確認をするのが今のところ一番良い手だろう。
防衛にはいくら金を使っても使い過ぎということはないだろう。
今有り余っている分で、出来るだけ強化をしておけば後々役立つことがあるかもしれない。
もちろん、ないのが一番だが。
「とりあえず、休憩を取らなくては・・・」
そろそろ頭が限界を訴え始めている。
考えすぎて、頭痛すらしそうだ。
それにお腹も空腹を訴えている。
イルミナはその書類をまとめ、一度執務室に置いてから温室に行こうと決めた。
「陛下、どちらに?」
「少し、温室で休憩を取ります。
ジョアンナか誰かにそちらに軽食とお茶を頼んで置いて貰えますか?」
「かしこまりました。
では私が温室まで」
「ありがとう。
・・・あぁ、ついでにアーサーが来たら私が温室にいることも伝えておいてください」
「かしこまりました!」
イルミナは扉前に立つ二人の内一人を連れて、温室へと足を向ける。
温室は、先王妃が先王に頼んで作らせたものの内の一つだ。
ガラス張りのそれは、その当時の最高峰の技術を以てして作られたという。
中は先王妃―――イルミナの母が気に入った花や木々を植えてある。
数えるほどしかいったことのないそこだが、決して嫌いというわけではなかった。
「―――綺麗」
温室前で待機するといった近衛兵に礼を言い、イルミナは一人温室へと足を踏み入れた。
暖かい地域の草花の為、しっかりと暖房管理も行われているようだ。
「・・・おや、お久しぶりですな・・・陛下」
「あなたは・・・」
そこには、本当に久しぶりに見かける庭師がいた。
しわくちゃの顔に、泥の付いた手は、今の今まで仕事をしていたことを伺わせる。
「本来であれば、このように話しかけるのもいけないのじゃろうが・・・、ご即位、おめでとうございます」
「ありがとう。
ここは、あなたが管理をされていたのですね」
「はい。
もう年ですからな・・・、わしの孫には表を頼むようになりましたが、ここだけはわしがやらせていただいております」
「そうでしたか。
忙しくなければ、色々と教えてもらえませんか?」
イルミナの言葉に、庭師はくしゃりと笑う。
その嬉しそうな笑みに、イルミナも無意識に微笑みを浮かべた。
「わしでよければ、もちろん」
その笑みは、不思議とタジールを思い出させた。
いくつかの花の名前を教えてもらいながら、イルミナは何時かまた会ったら聞こうと思っていた質問を庭師にした。
「・・・そういえば、あの花の名前は、分かったのですか?」
あの小さな四阿。
イルミナにとっては全ての始まりであり、そして色々なことを一人で飲み込んできた場所。
ハーヴェイから貰った香水は、グランが難色を示したためイルミナの執務室の机の奥深くに眠っている。
「あぁ、ラグゼンファードの。
以前ラグゼンファードの方々が来たときに聞いておきましたよ、”くちなし”というそうじゃ」
「くちなし・・・なんだか、少し怖い名前ですね」
「あぁ、じゃが・・・」
庭師が続けようとしたとき、入口の方面からアーサーベルトの声が響いた。
「アーサー、私はここです。
・・・折角調べてくれたのにごめんなさい、行かなければ」
イルミナは庭師に一度礼を言い、すぐにアーサーベルトの元へと向かう。
「陛下!
温室と聞いてメイドが食事を持ってきたのにお姿が見えないと焦っていましたよ?
どちらにいらっしゃったのです?」
「あぁ、悪いことをしましたね。
少し奥の方で花を見てぼんやりとしていました・・・」
「ご無事ならいいのです。
ですが、そろそろお戻りになられないと・・・、食事は執務室にお持ちしましょう」
「手間をかけます。
お願いしますね」
イルミナは慌ただしく温室を後にする。
きっと、既にヴェルナーがいるのだろう。
そういえば、あの庭師は何を言おうとしたのだろうか。
気になって一度だけ温室を振り返る。
何もかもを内包するような大きなそれは、先王妃が大切にしていたものの一つだ。
―――また、聞けばいい。
イルミナはそう考え、アーサーベルトと共に執務室へと向かった。