エルムスト
はぁ、と息を吐き出すと、それは真っ白になった。
鼻先は冷たく、報告によればアウベールでは既に雪が降っているらしい。
もうしばらくすれば、雪に閉ざされることとなるだろう。
エルムストへ向かったアリバルとグイードから、道中に問題がないと鷹が送られてきた。
休み休みの道のりの為、時間はかかっているが概ね予定通りだと。
そのことに安堵の息を漏らしたが、同時に胸に何かが突き刺さったかのような痛みを覚える。
―――グラン殿が、エルムストへと向かわれました。
イルミナがその報告を受けたのは翌日の事だった。
行くとは聞いていたが、まさか翌日に出立するとは思ってもおらず、ヴェルナーからその言葉を聞いたとき思わず筆を落とした。
詳細を知らないヴェルナーは、怪訝そうな表情を浮かべてイルミナの様子を見ている。
イルミナは取り繕うように、一度だけ頷くと落とした筆を拾った。
「―――陛下?」
筆を拾う体制のまま固まったイルミナに、ヴェルナーは何か変だと思い、再度声をかける。
しかしイルミナはそれに返すことなく執務へと戻った。
「陛下」
「アーサー、どうかしましたか」
休憩中、傍に待機していたアーサーベルトは、いつになく様子のおかしいイルミナに声をかけた。
なんというか、生気が目に見えて無くなっているような気がするのだ。
そう、ヴェルナーからの報告を受ける前から。
そしてその理由が、グランにあるだろうこともアーサーベルトは勘でしかないが気づいた。
彼女をここまで弱らせることのできる存在は、いまのところグラン以外有り得ない。
「グラン殿をがエルムストへと向かわれたのは、陛下の指示ではないのですね」
「っ」
カップを持つ手が一瞬震えたのを、アーサーベルトは見逃さなかった。
「どうされたのですか、陛下。
グラン殿と何かあったのですか?」
「な、にもありません。
グランがあちらに向かったのも、先王たちの様子をその目で確認するためです。
先日、ウィリアムからきた手紙の内容が気になったようで」
そうだとしても、イルミナの様子はおかしいとアーサーベルトは考える。
もしそうだとして、ヴェルナーの報告の様子から見るに、イルミナはグランの出立を知らなかった。
だが、何故行ったのか、思い当たるところはある。
「・・・陛下、グラン殿と喧嘩でもされたのですか」
「!
いいえ、そんなことは、していません」
尻すぼみになるイルミナの声に、アーサーベルトは喧嘩に似たようなものをしたのだと気づいた。
そしてイルミナが、何かしらに対して罪悪感に似た感情をグランに思っていることを。
「・・・陛下、良ければお話しください。
今の陛下は、今にも息絶えてしまいそうです。
私が無理であれば、メイド長でも・・・」
「いいんです!!」
いつになく語気を荒げるイルミナに、アーサーベルトは眉間に皺を寄せた。
「陛下、私は・・・、
私たちは、そんなに頼りない存在ですか?」
「!?」
かっと目を見開き、アーサーベルトを凝視するイルミナに、アーサーベルトは何となしに気付いた。
きっと、これがきっかけだっただろうと。
「陛下、私は以前・・・そう、陛下が殿下だった時に申し上げました。
もっと頼ることを覚えるべきだと。
貴女はもう独りではないのだと。
しかし今の貴女は、どうでしょうか」
「っ・・・」
唇を噛み締めるイルミナを前に、アーサーベルトは止めようとはしなかった。
彼女は、きっと何度も何度も同じことを繰り返す。
その度に周りを傷つけ、そして自身も傷つくのだ。
アーサーベルトは、いまやイルミナの為だけに存在している。
だからこそ、彼女が傷付こうとも必要なことは伝えねばならないと確信している。
「陛下、貴女は一人で国を動かすおつもりですか?」
「そんなわけ・・・!」
「でも今の貴女を見ているとそう感じます」
「―――っ」
「陛下、今のヴェルムンドには貴女しかいません。
貴女以外、王家を存続させることは出来ないのです。
確かに多大なる圧力を感じることでしょう。
しかし、それをなぜ相談しようとしないのですか。
なぜ、誰かを頼ろうとなさらないのですか」
イルミナの表情が歪んでいく。
今にも泣き出しそうなそれに、アーサーベルトの心も痛んだ。
しかし、自分の主はここまで言わないと理解してくれないのだ。
「・・・グラン殿も、きっと同じ気持ちなのでしょうな」
「!!」
アーサーベルトはそう言い、部屋の前で待機していると伝えると、何かを言おうとするイルミナに背を向けた。
冷たいと言われるかも知れない。
しかし若い今のうちに、彼女は学ぶべきなのだ。
力だけでは、気力だけでは人はやっていけない。
折角生涯の伴侶もいるというのに、それを頼る術を知らないまま年を経ることのほうが問題だ。
残されたイルミナは、じくじく痛む胸をぎゅ、と握った。
そして固く目を閉じ、一度深呼吸をするとまた筆を手にとった。
―――エルムストへは、あと数日で到着します。
何か、お伝えしたいことはありますか。
イルミナはルージュが持ってきた手紙を見て、少しだけ考えこんだ。
そして筆を手に取るとさらさらと何かを書いてはぐしゃりと握りつぶす、という行為を三度ほど行った。
今更彼らに伝えたいことなどない。
イルミナのなかでは彼らは未だ過去となっておらず、時折心にじくじくとした痛みを思い出させるのだ。
イルミナがアリバルに伝えたいことがあるとすれば、それはグランのことだ。
アリバルからの手紙に、グランのことは一度として出てきていない。
合流していないのか、それとも合流したこと自体を伏せているのか、イルミナにはわからない。
調べようかとも思ったが、なぜかそう手配することはなかった。
グイードも順調にマナーなどを学んでいる様で、いまのところ大きなへまをしでかさない限り大丈夫だろうとアリバルは言っている。
だが、彼らにあったとしても大丈夫だろうとは言い切れない。
グイードは、イルミナの為に城のものに対して怒ってくれた友人だ。
その彼がその筆頭たる彼らに対して、冷静でいられるのかどうかすらわからなかった。
「陛下、失礼いたします」
考え込んでいると、リヒトが新たな書類を持って入室してくる。
前よりかは少ないそれに、イルミナはそっと息を吐く。
「陛下、後ほどドルイッドさんがこちらに来るそうです。
そろそろ書類も揃ったことでしょうから、来年の税率についての話をしたいと」
「わかりました」
「それとベネディート伯爵から手紙が届いています」
「ありがとうござます、そこに置いてもらえますか?」
イルミナは次々と言われる内容を頭の中に叩き込みながら対応する。
そして。
「あ、それとグラン様からの手紙も届いていますよ」
「!」
イルミナは書類を見ていた顔を即座にあげた。
グランが出立して五日。
彼の速さであれば既にエルムストへ到着していてもおかしくはない。
イルミナはグランからの手紙だけを直ぐに受け取った。
「では、私はこれで。
あとそろそろお昼の時間ですので、メイドたちが待っています」
「・・・ありがとう、もう少ししたら休憩を取ります」
リヒトがいなくなり、一人になったイルミナは恐る恐るグランからの手紙を開いた。
何が書いてあるのか、想像もできないが読まないことには何も始まらないだろう。
―――イルミナへ
いきなり勝手なことをして悪かったと思っている
しかし、私はどうしても君の憂いを払いたい
アリバルたちとは落ち合っていない
今のところ、その予定もない
先王たちに会って、何を言うべきなのか、正直に言ってわからない
だが、どうしても向かわずにはいられなかった
帰ったら、話したいことがたくさんある
あの日君を傷つけたことを、後悔しているが、きっと私は何度でも同じことを言ってしまうだろう
だから、話そう
リリアナ殿下の問題が片付いた後に
グラン
走り書きのそれは、イルミナが思っていたほど酷いものではない事に、イルミナは安堵のため息をついた。
―――嫌われて、いない
それだけがイルミナの唯一の救いだ。
彼が、グランがいったい何を思ってエルムストへ向かったのか、わからない。
本人も書いている通り、彼に何が出来るのだろうか。
好きだが、それとこれは別問題だとイルミナの冷静な部分は言ってくる。
彼に、リリアナを止めることなど出来はしない。
お花畑に住んでいるといっても過言ではないリリアナに、現実を教えられる人物なんて限られている。
きっと、そのうちの一人はイルミナだ。
しかし、今のイルミナにはリリアナと会う度胸はない。
会って、言葉を発することすらも覚束なくなりそうだと思っている。
正直に言おう。
イルミナは、リリアナが怖い。
可愛く、愛おしい妹だと思っても、それ以上に怖いのだ。
何も考えないで、自分のことだけを考える妹のことを、イルミナは理解できない。
どうして同じ親から生まれて、こうも違うのか。
愛され、真綿に包むように育てられたが、それにしたって理解に苦しむ。
もし、それが前よりも顕著になっていたら?
イルミナは、大切に思っている妹を詰ってしまうだろう。
唯一、昔の自分が誇れた感情を、自ら踏みにじるのだ。
―――だから、会いたくない。
いつかは、会わなくてはならないのかもしれない。
だが、それは今ではないとイルミナは思う。
しかし、それはあくまでもイルミナの意志なだけであって、運命とはどう転がるか、誰にも分からないものだ。
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「―――お久しぶりですね、先王陛下」
「・・・あぁ、アリバル。
そなたも息災の様子だな」
「えぇ、忙しいには忙しいですが、充実した日々を送らせていただいておりますよ」
穏やかに返答するアリバルに、先王は瞠目した。
いつだって目の前の彼が自分に謁見する時は、冷たい笑みを浮かべていたというのに。
こちらを値踏みするような視線に、一体幾度苛立ちを覚えたことか。
「・・・随分と、変わったようだな」
思わずそう口にすると、アリバルは目を少し見開くと、薄く微笑んだ。
「えぇ・・・。
私も以前のように無茶な収集というのを控えましてね。
その代わりに別のことを始めたので、そちらで忙しくしているのです」
その言葉に、先王は予想外で一瞬息を詰まらせる。
自分の知るアリバルという人物は、いつだってどんな些細な情報でも手に入れようとしていた。
そうすることで守ろうとしていた、中々登城させない奥方と生まれたばかりの娘を。
だが、今見る限りでは前ほど必死にはなっていないようだ。
「・・・そうか。
そして今回は何用だ。
私は見ての通り大人しくしているぞ」
先王は本題を聞く。
アリバルから事前に来訪するという旨の手紙は貰っていたが、その理由は記されていなかった。
大きな問題を起こした記憶はないから、様子見だろうとみている。
「あぁ、いえ、お元気かと思いましてね。
それと陛下に、私の養子になるかもしれない者を紹介しようと思いまして」
「あぁ、そのようなことも言っていたな。
村人、だったか・・・?
本来であれば面会などしないが、今の私は前ほどの力も何もないからな・・・。
面会を許そう」
「ありがとうございます」
先王はそうは言ったものの、きっとアリバルであればごり押ししてでも自分と会わせようとするだろうと考えた。
そうでなければ、アリバルが連れて来るなんておかしいと思うからだ。
―――先王の中で、アリバルという人物は冷静沈着で、いつだって効率を重要視する人物だと思っていた。
それは確かに間違いではなかったが、それが正解でもなかった。
「では、ナタリー、グイード」
隣の部屋で待機させていた二人を呼ぶ。
「お久しぶりでございます、先王陛下」
ナタリーは優雅に一礼して、先王を見る。
「っ、お、初に、おめにかかります、グイードと申すものです」
緊張でがちがちに固まったグイードも、何とか挨拶をする。
先王の周りではなかなか見ない赤銅色の髪は、先王の目を引いた。
「よい、楽にせよ。
久しいな、アリバル夫人。
息災だったか?」
「はい、ありがとうございます、先王陛下」
「うむ。
グイード、といったな。
リチャードの養子になると聞いている。
よくよく頑張りなさい」
「あ、りがとうございます」
アリバルは挨拶を終えたのを確認すると、先王に声をかけた。
「では陛下、宜しければナタリーは先王妃様のもとへと行かせても構わないでしょうか。
グイードは・・・差し障りなければウィリアム殿と」
「あぁ、構わない。
ここは時が止まったような場だからな。
外からの客人にあれも喜ぶだろう」
「ありがとうございます。
そこの騎士、ナタリーとグイードを案内してもらえますか」
「はっ!」
そしてナタリーとグイードは、騎士に連れられその場を後にした。
「・・・では、本題に入りましょうか、先王」
「・・・やはりそうなるのか」
「当たり前です。
彼らの前では話せない事もありますから」
アリバルはそう言い、用意されていた椅子に許可を取ることなく腰かけた。
「それで、話とはなんだ?」
「リリアナ様のことです」
「―――何を言いたい?」
一瞬で険呑な雰囲気になる。
アリバルはその先王の言葉に、彼も気づいているのだという事を知る。
「先王、このままでは、リリアナ様がどうなるのか目に見えていますよ。
それでよろしいのですか?」
「―――っ」
言葉を失う先王に、アリバルはそれも気づいているのだと考える。
そして知っていながらも、何も手を打っていないのだろうとも。
「先王、何を考えているのですか?
貴方が王位を捨ててでも大切にしているリリアナ様の危機ですよ?
どうしてそのようにしていられるのですか?」
アリバルは、もし自分が同じような状況になったとしたら、発狂するだろうと思う。
まだ小さい我が子、愛おしくて言葉に出来ないほど、愛らしい。
その愛しい子が、もし危機にさらされていると知ったら、何をしてでも守ろうとするだろう。
しかし、先王は何もしていない。
それがアリバルには理解できなかった。
「―――・・・た」
「はい?」
「話したのだ・・・リリアナと・・・。
だが、私の言葉も聞こうとしない・・・、正直、どうしていいのか、わからないのだ・・・」
頭を抱える先王に、アリバルはため息をついた。
それは良くも悪くも、子育てに苦悩する父親の姿だった。