男二人
「・・・ライゼルト卿」
「ラグゼン公ですか」
――――――それは、食事会が開かれる日の、夜明けとも呼べる時間帯のことだった。
「お怪我の程は?」
「悪くない経過だ。
まぁ、ほぼかすり傷と言ってもいいくらいか?
私生活には何一つとして問題はない」
「左様でしたか。
それはよかった」
その日、グランは朝早くに目が覚めてしまい、一人で散歩をしていたところだった。
衣装や準備もある関係上で、グランは王都郊外にある屋敷ではなく城に泊まっていた。
未だ太陽は登ってきている最中なのか、空は明るいがその姿はまだ見えない。
白い息が、その寒さを物語っていた。
内々ではイルミナの婚約者だと認められているグランは、ライゼルト領の引継が終わり次第、城へと居住を移す。
イルミナの婿となれば、グランはあくまでも王配でしかない。
王配となれば、グランの今までの貴族としての力はなくなる。
今まで培ってきた人間関係などはそのままだろうが、貴族としての付き合いではなくなる。
今まではライゼルト辺境伯として時折城に来ていたが、王配となれば今までのように力ある貴族としての振る舞い方は許されない。
ばんやりと考えてきたそれが、やっと自分の中で形となっていくのを感じながら歩いていた。
たまたま庭に出ていたハーヴェイ・ラグゼンと鉢合わせたのは、そんな時だった。
「・・・少し、構わないか?」
「・・・もちろん構いませんが、
護衛の者はどうされたのです?」
「あぁ、今は一人にしてほしくてな・・・。
庭までを条件に外してもらっている」
「そうですか」
ハーヴェイは鼻先と目元をうっすらと赤くしながら庭の奥へと足を進める。
グランはそれに気づきながらも、何も言わずにただついていった。
着いたのは、離れの四阿だった。
ハーヴェイが四阿を訪れたのは数えるほどでしかないが、イルミナの近況を調べさせていた侍従から、彼女がここを殊更気に入っているようだとの報告は受けている。
簡素ともいえるそこは、なるほど派手をあまり好まないイルミナ好みなのだろうとハーヴェイは思った。
落ち着いた色合いは、冬の寒さのせいか冷たく目に映り、近寄りがたさすら感じる。
初めてイルミナに会った時は、あの花が咲き誇って甘い香りを漂わせていたが、今はただただ寂しさだけを感じさせる。
―――勝手な感想でしかないが。
ハーヴェイにとって、あの花の香りはイルミナとの最初の思い出のものだ。
だからあの香水を贈ったのだが、今となっては別のものを贈るべきだったとも思ってしまう。
「・・・こうして、貴方と話すのは何度目になるのだろうか」
「・・・そんなに回数は重ねていなかったと記憶しておりますが」
グランのばっさりとした物言いに、ハーヴェイは苦笑を浮かべる。
しかしそれも仕方ないと言わんばかりに肩をすくめた。
「・・・ライゼルト・・・。
貴方と俺では、何が違ったのだろうな」
「?
何を仰りたいので?」
ハーヴェイは薄く靄のかかっている庭を見た。
葉は全て落ち、本格的な冬に備えるその姿は、ラグゼンファードでもなかなか見れない。
故郷は、いつだって極彩色に溢れており、このような寒色に染まるなどひと月もないのだ。
その色合いを見ると、ここが自分の故郷ではないのだとハーヴェイに痛感させた。
「俺も、イルミナが欲しかった」
「・・・」
グランはハーヴェイの言葉に何も返さなかった。
それに構わず、ハーヴェイは考え付いたことをぽろぽろ口に出した。
「はじめは・・・、同志が欲しかった。
言い方は悪いが・・・、彼女はこの城で愛されずにいただろう?
だから、愛を知らない、いや・・・信用していないのだと思った。
だとすれば、俺と同じだと思っていたんだ。
俺は、愛なんて信じられなかったから」
グランはハーヴェイの身勝手ともいえる思いの吐露を、黙って聞き続けた。
「あの冷たい、欲望と愛憎、裏切りなどが渦巻く王宮が、俺にとっては全てだった。
外に目を向けることも、変えようとする力を得ようとも思わなかった。
ただ、俺を認めてくれた兄上の為だけに生きられればいい、そう思うようになっていた。
自分の結婚さえも、兄上の為になればと・・・。
兄上の治める国の為になる、そんな俺の伴侶を探すのは大変だった。
縁談自体はいくつもあったのだがな、どれもいまいちで全て断っていた。
そんな時だ。
不遇の王女がいると聞いたのは。
・・・初めて見たイルミナは、とても脆くて、弱くて。
それでいてたった一つの願いの為に邁進するその姿は、俺の目には・・・自分の手で変えることが出来る何かだと思ったんだ。
・・・あぁ、言い方が悪いな、自分の言うとおりに出来ると思い込んだんだ」
ハーヴェイはそこまで言うと、胸の内に滞っていたように感じた息を吐き出した。
吐いたとしても、少しだって胸の内が軽くなることはないのだが。
「本当に、俺は身勝手だった・・・。
貴方にも、彼女にも・・・申し訳ないことをした」
そう言ってハーヴェイはグランを真正面に見た。
グランは、口を堅く結んだまま何も言葉を発しない。
「色々と、掻き乱してしまったのは理解している。
国として謝罪することはできないが、俺個人としては間違えたことをしたと・・・やっと気づいた。
・・・言われるまで気づけなかった、大馬鹿者だがな」
「少し、失礼してもよろしいでしょうか」
そこでようやく、グランは口を開いた。
「あぁ、構わない。
無礼も気にしない、今ここには俺と貴方しかいないのだからな」
「では、失礼して」
グランはそこでいったん言葉を切ると、深呼吸をした。
「子供にもほどがある、王弟ハーヴェイ・ラグゼン」
「っ」
「私と貴方の違い?
そんなもの、決まっている。
彼女を、彼女という人そのものを愛しているかどうかだ。
表面しか見ていない貴方は、どう頑張ってもイルミナの内面に入り込むことはできなかった。
そうすれば、いずれは破綻しかなかっただろう。
共倒れの可能性だってあったな。
それを、彼女は薄っすらとだがわかっていた。
だから、貴方を選ぶことをしなかった」
グランは冷たく光る瞳でハーヴェイを見据えた。
それに、ハーヴェイは何も言わない。
「正直、貴方の存在に翻弄されたことは確かだ。
そして、そのことに関してはあまりいい感情は持っていない。
貴方の個人的な感情に、我々を巻き込まないでいただきたいというのが本音だ。
変えることが出来る何か?
馬鹿にするのも大概にして欲しいところだ。
貴方は、彼女のことをかけらも理解していない」
「っ・・・」
言われると分かっていたが、歯に衣着せぬ物言いにハーヴェイはぐさりと心のどこかが刺されたような気がした。
「確かに、貴方の境遇というものに同情し、許すのが大人の在り方なのかもしれない。
しかし、私は私の愛する人の心を傷つけた人を、そう簡単に許すことはできない。
たとえ、イルミナが貴方を許したとしても、だ」
「・・・それも当たり前だな」
グランは、個人的にハーヴェイが許せなかった。
年を重ね、感情を暴発させることなどないと思っていたが、案外自分も若かったらしい。
あの、二人の話し合いを陰から聞いていたときに、イルミナがハーヴェイを許したことを理解した。
明確な言葉があったわけでも何でもない。
ただ、そう感じたのだ。
それは、まるで二人の間に入り込めないある種の絆のようなものすら、グランには感じられた。
その瞬間、自分の胸の内にどろりとした何かが湧き出たのがわかった。
―――嫉妬だ。
まさか、自分がそのような感情を持つだなんて、思ってもみなかった。
彼女はまだ若く、自分は随分と年上だ。
もちろん、異性としての愛情はあるが、自分がまるで若造のような感情を持つなんて思いもしなかったのだ。
予想外の自分の感情に戸惑いを隠せないでいたが、よくよく考えてみてわかった。
考えてみれば、イルミナに対してそのように行動をとってきたのはハーヴェイだけだった。
クライスはそもそも自分の気持ちにすら気付いておらず、グイードは、言っては悪いがあまりにも現実的ではなかった。
グランにとって、ハーヴェイは初めて出現した危機感を覚えるライバルだったのだ。
身分も、年頃も全く問題の無い相手。
グランとて力を持っていた自負はある。
しかし、歳の差だけはどうしようもなかった。
だから、焦ったのだ。
もし、彼女がグランではなく、目の前の男を選んだとしたら。
そう考えるだけで吐き気と頭痛がした。
前妻を亡くしたとき以上の、虚無感がグランを襲ったのだ。
しかも、理由が兄の為。
彼女を愛しているからでも何でもない。
ふざけるなと怒鳴ってやりたいほどだった。
少なくとも自分の弟であるヴァンは、兄であるグランの為にそこまでしない。
そもそもグランだって、それを望んでいない。
きっと、ラグゼンファードにいる王も同じ気持ちだろうと思う。
話に聞く限り、ラグゼンファード王は弟に幸せになって欲しいと考えている。
だとすれば、弟のしていることは全くの無駄だ。
自分も、彼も、”弟”に危ない橋を渡り歩いて自滅して欲しくなどないのだから。
だからこそ、それをまともに受け入れようとせずに他者を引っ掻き回すハーヴェイが気に入らなかった。
勝手に堕ちるなり成長するなりしてくれて構わないが、”巻き込まないで勝手にしていろ”がグランの本音だ。
ハーヴェイの兄には悪いが、ここまで放置した彼にも問題があるとグランは思っている。
中途半端に力を与え、腹心の部下をつける。
過保護過ぎだとグランは鼻で笑ってやりたかった。
「―――愛し方を、愛情表現の仕方を貴方方二人は間違えていたのだろうと私は思う。
大切だからこそ、手を出してはならない時があることを知らない。
大切だからこそ、してはならないことがあることを知らない。
・・・全くもって、いい迷惑だ」
「っ!」
グランの冷たい言い方に、ハーヴェイは言葉を詰まらせた。
「公、貴方は知らなさ過ぎた。
そして逃げ過ぎた。
本来であれば成長と共に学ぶであろう愛情や、思いやり、そういった感情から逃げ出して、育てることをせず、受け入れようともしなかった。
さらには、それらを望む彼女から遠ざけようともした。
腹立たしいこと、この上ない。
貴方を一時でも選ぼうとした彼女に、怒りすら覚えるほどだ」
グランはふつふつと煮えたぎる感情の赴くまま、言葉を垂れ流した。
本来であれば、王弟である彼にそんな口の利き方をすれば不敬と言われてもおかしくない。
分かっていても、グランは止められなかった。
それくらい、グランは怒っていたのだ。
しかし、これ以上は駄目だとも理性が言っていた。
「・・・言い過ぎました。
しかしご理解いただきたい。
私にとって一番大切なのは彼女です。
彼女を傷つけるものから、出来るだけ遠ざけたいというのが本音。
・・・そしてその筆頭が貴方だというのは御理解頂けているものといたします。
・・・ラグゼン公、願わくば二度とこのようなことを起こさないでいただきたい」
グランはそう言うと、頭を下げた。
「・・・そのような礼は不要だ。
確かに言い過ぎではないかとも思う部分が多々あるが、それくらい言いたくなるほどの事を俺はした。
もう、二度と彼女には手を出さない」
ハーヴェイは疲れたように微笑みながら言った。
そのハーヴェイの表情に、グランは無表情ながらも頷いて一礼し、その場を後にしようとするその背に、ハーヴェイが声をかけた。
「ライゼルト卿!」
「何でしょう」
「以前、聞かれたことがあったな。
その答えだ。
あの花は―――――――――」
その姿がハーヴェイの視界から消えた瞬間、ハーヴェイは詰めていた息をゆっくりと吐きだした。
色々な修羅場を潜り、自分も中々だと思っていたがまだまだだということを思い知らされた。
ハーヴェイの周りには、グランのように物申すものはほぼいなかった。
兄も、アルマも、誰一人として諫めたり感情的に怒ったりしなかった。
敵対する人物が逆上することはあっても、あのようにハーヴェイ個人を淡々と攻撃してくる人はいなかったのだ。
自分に非があることを理解していたが、正直に言ってあそこまで言われるとは想像もしていなかった。
仮にも自分は王弟だ、そこら辺の立場を踏まえた発言をするのだろうと考えていたのだが。
「・・・恋は人を盲目にする、か」
グランの様子を見た限りでは、盲目というほどではないだろう。
しかし、大切な人を傷つけられたことに対する憤怒は見て取れた。
萎縮なんてするはずもないと思っていたが、なぜかグランの言葉、威圧にハーヴェイは言葉を紡げなくなっていた。
「ハーヴィー」
「・・・アルマか」
物思いに耽っていると、背後から慣れた声が聞こえた。
いくら待っても戻ってこない自分を心配した侍従が、アルマに声をかけたのだろう。
「言われっぱなしだったが、大丈夫か?」
「聞いていたのか」
どうやら最初から隠れていたらしい。
アルマの言葉に、ハーヴェイは苦笑を浮かべる。
言われっぱなし、そう言われても不思議と腹は立たない。
若干苦い思いだけが、ハーヴェイの胸中に広がる。
「まぁ、俺がやり過ぎたからな。
あれくらいは甘んじて受けておくさ」
「そうか」
アルマは、ハーヴェイにそれ以上何かを問うことはなかった。
そして寒いから戻ろうと声をかける。
本当に、今更気づくなんてとハーヴェイは胸中で自嘲する。
どうして、イルミナに婚姻を申し込んだのか。
どうして、イルミナを手に入れようとしたのか。
兄への盲目的なまでの思いだけで、ちゃんと考えずに全てを見ていた。
ちゃんと考えていれば、ちゃんと気づけていれば。
―――全てはもう遅い。
ハーヴェイは、気づけなかった。
もう、笑うしかないだろう。
「―――さようならだ、私の初恋」
―――ツキリ
ハーヴェイは、一瞬傷んだ胸に、気づかないふりをした。