前夜
ハーヴェイが去り、グランとアーサーベルトは速足でイルミナの元へと向かった。
イルミナは紅茶を口にしながら二人を迎え入れる。
「もう、大丈夫でしょう」
「大丈夫・・・?
もう手を出してこないということですか、陛下?」
信じられないように問うアーサーベルトに、イルミナは頷いた。
「えぇ、
彼には手を出すだけの理由がなくなりましたから」
「どこからその根拠が出てくるんだ?」
不思議そうに問うグランに、イルミナはそれもそうだと心の中で頷く。
彼らは、ハーヴェイと直接では話していない。
イルミナとハーヴェイにしかわからないあの感覚を、二人は知らないのだ。
ましてや、イルミナの中ではある意味ハーヴェイを信用している部分もある。
何故問われても、勘としか言いようがないそれは、女王としては話にならない。
だが、そうとしか言いようがないのだ。
似た者同士である二人は、あの時確かにお互いを理解しようとした。
理解出来たところもあっただろうし、出来なかったところもあった。
しかし、互いに互いを、もしかしたらあったかもしれない未来だと知ってしまったから。
「・・・そうですね。
ハーヴェイ殿が兄である王と話をする、と言ったからでしょうか」
ともあれ、目の前の二人には勘だと告げても理解は得られまい。
そう考えたイルミナはそう言った。
「は?
そ、それでけですか・・・?
それではあまりにも・・・信用できる要素とは思えませんが」
驚きに言葉を詰まらせながらも言うアーサーベルトに、イルミナは頭の中で考えながら話す。
「話を聞いた二人であれば、公がどれだけ兄であるサイモン殿に傾倒しているかお分かりいただけたことでしょう。
公にとって、兄は絶対で唯一なのです。
その彼が、自身の過ちを認め、兄と話すとまで言ったのです。
それにアルマ殿もいますからね、これ以上私に手を出そうとすることもないでしょう」
イルミナの言葉に、男二人は本当にそうだろうかと怪訝な表情を浮かべる。
イルミナとしても、彼らがそう簡単に信じるはずもないと考えていたが。
「何かあれば、サイモン王が出てきます。
それは双方にとってあまり良くない事態となるでしょう。
それに公が何かしようとすれば、その前にアルマ殿が対応することになるでしょう。
アルマ殿も、これ以上公にしでかして欲しくないと思っているでしょうから」
イルミナはそれだけ言うと、話は終わりと言わんばかりに席を立った。
噎せ返るような甘い香りに、頭の芯がじんと痛む。
リリアナが好きであっただろう薔薇の香りを、イルミナは好きになれないと思いながら部屋を出た。
確かに、短時間であればいいのかもしれない。
しかし、イルミナの好きな香りはあの白い花の香りなのだ。
「この後の予定は?」
「ありません、執務室に戻って少し仕事をしたら部屋に戻る予定です。
二人は?」
「は!
私はキリクのところへ少々用事がありまして。
終えたら一度伺います」
「遅くなるようでしたら、明日の朝で構いません。
では明日はお願いしますね」
「かしこまりました、陛下。
ではグラン殿、私はここで」
「あぁ」
アーサーベルトはそう言うと、颯爽と肩で風を切りながらイルミナとグランの前から姿を消した。
「・・・グラン、貴方は?」
「そうだな・・・。
ヴァンとも領地についての話はほぼ終わっている。
良ければ、執務室までお供しても?」
グランはそう言いながら左腕をイルミナに差し出した。
「・・・ありがとうございます。
では、よろしくお願いしますね」
イルミナは少しだけ恥ずかしそうにしながらも、その顔を綻ばせてグランの腕に自身の手を置いた。
「ありがとうございました、グラン。
明日のことは前に話した通りでお願いします」
執務室の前まで来ると、イルミナはそっと置いた手を離しながら言った。
仕事が溜まっているわけではないが、できるだけ確認はしておきたい。
少なくとも、食事会の前後は執務をする時間がなかなか取れなくなるだろうから。
自分がいなくても大丈夫なものはあるが、まだ新米としての自分はできるだけ国政に関わりたいというのもある。
確認して何もなければ、自室に戻るだけの話だが。
「・・・仕事はそんな時間がかからないのか?」
「わかりません、確認してみないとわかりませんけど・・・、
何かありますか?」
イルミナの質問に、グランは一瞬口を噤んだが言った。
「いや、
少し時間を貰えたらと思ったんだが・・・。
重要な話とかではない、ただ、少し話したいだけだ」
いつになく目的をはっきりとしないグランに、イルミナは少しだけ驚きながらも頷いた。
「・・・わかりました、
少し待っていてもらえますか?
緊急のものがないかだけ、確認してきますので」
「わかった」
イルミナはグランを執務室の中にある椅子に案内すると、ベルを鳴らした。
「お呼びですか陛下?」
そうすると隣室からリヒトが顔を出した。
下っ端であるリヒトがどうしてイルミナの対応をしているか、それはほかの者たちは仕事に追われてイルミナの鳴らすベルの音に気づかなさすぎるためだった。
イルミナも忙しいのであれば仕方なしと考え、自らがドアを潜ることもあったのだが、政務官たちの使う部屋はあまりにも混沌としすぎていて、女王陛下には見せられたものではない。
だからベルの音にいち早く気づくリヒトが指名されたのだ。
まぁ、男だらけの仕事場だ。
いくら綺麗にしてもすぐに汚くなるのはある意味仕方ないのかもしれない。
「お疲れ様です、リヒト。
先日は休めましたか?」
「はい!
お蔭さまで上司たちの機嫌がいい・・・すみません!!
何かございましたか、陛下?」
いつものごとく気の抜けた言葉を言った瞬間、グランの存在に気付いたリヒトは慌てて取り繕うかのように背筋を伸ばした。
「いえ、
急ぎのものは来ていないかの確認をしたかったのですが」
「そうでしたか、
少しお待ちください、念のため確認してきます」
リヒトは即座に一礼すると、隣室へと消えていった。
「・・・随分砕けた様子の政務官だな。
それに若い」
「そうですね。
政務官の中でも若い方ですね・・・どうかしましたか?」
「いや・・・なんでもない」
一瞬グランが嫉妬をしたなんてことを、イルミナはわからない。
そしてグランもそれをイルミナに見せようとはしなかった。
「・・・そうですか」
「お待たせしました陛下!」
一瞬微妙な空気になりかけた瞬間、リヒトが入室してきた。
急いで確認してくれたのだろう、先ほどより少し髪が乱れている。
「、いえ、待っていませんよ。
どうでしたか、リヒト」
「確認いただきたいものはいくつかあるにはあるそうですが、急ぎのものないそうです。
どうされますか、陛下?」
「そうですか・・・。
では申し訳ないのですが本日はここまででお願いします。
明日からは予定通りにお願いします」
「かしこまりました!
ではそのように伝えておきます!」
リヒトはそう言うと、グランに一礼して部屋を出る。
「・・・だそうです。
ここではなんですから、私の執務室で構いませんか?」
「あぁ。
ついでに何か飲み物を頼んでおこうか」
「深酒は駄目ですよ、グラン」
苦笑を浮かべながら言うイルミナに、グランも微笑みを返す。
「寝酒程度だ。
少し付き合ってくれないか、イルミナ」
片目を瞑りながらそう言うグランに、イルミナも笑みを浮かべる。
「・・・少しだけですよ」
そうして二人は来たときと同じように手を添えさせながらイルミナの執務室へと足を運んだ。
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「では、お願いしますね、ジョアンナ」
「かしこまりました、陛下」
ジョアンナは一礼するとドアを少し開いて退室した。
いくら周知の事実でイルミナとグランが恋仲とはいえ、そういったところはしっかりとせねばならない。
今回も、あまり遅い時間帯まではいないということで許可が下りている。
さすがに夜の遅い時間までは認められないとジョアンナは言っていた。
もちろん、婚約したからといって婚前交渉などあってはならない。
数年をかけて結婚式に至るのが王族の通例ではあるが、グランの歳のこともあるのと一刻も早く世継ぎを得てほしいという貴族たちからの要望もあって、イルミナとグランの結婚式は婚約発表後、一年となっていた。
「外は寒そうだな」
グランは外を見ながらそう零した。
執務室の暖炉では、薪が時折パキリパキリと音を立てながら燃えている。
もう暦では本格的な冬に入る一歩手前だ。
王都では冬が降ることは滅多にないが、ライゼルト領の北の方では積雪もある。
「そうですね、
明日の大広間の暖房もしっかりとしておかないといけませんね」
イルミナはそう言いながら、暗くなりつつある空を窓から見た。
日は沈みかけ、赤とも黄金ともいえる雲が絵画のように美しく空を彩る。
そこから、藍色とも取れる夜空が白く輝く星々を連れてきているようにイルミナは見えた。
「陛下、お待たせいたしました。
ご所望の物をお持ちいたしました」
イルミナとグランが、二人して外の風景を見ているとジョアンナが頼んでいたものを持ってきた。
「ありがとう、ジョアンナ。
そこに置いてもらえますか?」
「かしこまりました」
ジョアンナはてきぱきと用意すると、そのまま部屋を退室する。
そして室内にはイルミナとグランだけになった。
「―――ついに、明日だな」
「えぇ、そうですね」
その言葉には、たくさんの思いが詰まっていた。
「初めて会ったとき、私はなんて勤勉な王女なのだろうと思ったよ」
グランは懐かしむように遠い目をしながら、用意されたグラスに琥珀色の酒を注ぐ。
「私こそ、なんて力を持った貴族なのだろうと思いました。
それと同時に、貴方の助力を得られればとも」
イルミナも微笑みを浮かべながら用意されたミルクに少量のブランデーを垂らす。
二人はカップを傾け中身を口にすると、同時にほう、と息をついた。
室内の明かりは出来るだけ落としており、暖炉のオレンジ色の光が、二人の横顔を照らす。
「―――本当に、私と一生を共にしてくれるのですか」
イルミナはぽつりと言った。
不安に思っていないわけがなかった。
年の差もあり、ましてやイルミナはグランの一人息子を封じるように指示を出した。
二人の間に距離を作ったのは、間違いなくイルミナなのだ。
さらに、自分との婚姻の為に、今まで総てを使って守ってきた領地の当主の座を降りた。
その言葉の通り、グランはイルミナの為に全てを捨てたのだ。
「私は、貴方にたくさんのものを捨てさせました。
なのに私にあげられるものなんて、私個人の感情と時間しかありません。
本当に、後悔されていませんか・・・?」
その言葉に嘘はない。
だが、全てを捨ててでも自分を選んでくれたとイルミナは思っている。
そのことを嬉しく思うと同時に、少しだけ恐怖すらも覚える。
自分一人の為に、人ひとりの人生を狂わせた。
本当に、自分にそんな価値はあるのかと疑問を持ってしまう。
不安になり、グランを真正面から見ることが出来なくなったイルミナは顔を俯かせた。
「―――それが、私の望みだよ。イルミナ」
「!!」
イルミナはグランの言葉に俯いていた顔をばっと上げた。
グランの表情を見ても、嘘を言っている様には見えなかった。
「・・・そんなに不安に思わせていたのか・・・。
イルミナ、私は今の自分に一欠けらも後悔をしていない。
何度だって、今と同じ選択をするだろうとも言える。
・・・イルミナ、私はイルミナを愛しているんだ」
グランはそう言い、琥珀色の液体を一口口にした。
「・・・確かに、君から見て私は全てを捨てたと思うだろう。
確かに、事実そうだ。
だがね、イルミナ。
私は一つとして後悔はしていない。
なぜか、君を、愛しているからだ」
「っ・・・」
グランは座っているイルミナの足元に膝まづいた。
「ウィリアムが私に何も相談をしないでああいったことをし、そして封じられたとき、確かに後悔はした。
ちゃんと見ていなかった自分が悪かったのだと、そして相談できるような関係性を築いていなかったと気づいたとき、もっと見てやればよかったのだと。
だが、それ以上にイルミナとウィリアムの婚姻が成立しなくて、ほっともした。
・・・最低な父と罵られても文句は言えないな。
イルミナが先代に見捨てられたとき、私がその傷を癒してあげたいと思った。
君が、毒を飲んで倒れたと聞いたとき・・・生きた心地がしなかった・・・!」
ぐ、と握りしめられた拳のその強さに、イルミナは言葉を失った。
グランが心の内を語ったのは初めてではないが、こんなに激情は籠っていなかったとすら思う。
イルミナは何を言ったらいいのかわからずに、はくはくと口を開閉させた。
「あの時、見舞いに来てしまえば私はきっと君を詰っただろう。
年甲斐もなく、君を怒って、泣き言を言っていただろう。
―――”君までも、私を置いていくのか”と」
「!!」
グランの寂しげな笑みに、イルミナは何も言えなくなった。
あの時、自分には勝算があった。
しかし、それをグランには伝えていなかった。
きっと、言葉にできないほどの恐怖だっただろう。
彼は前妻を、病で早くに亡くしているのだから。
「ご、ごめ、ごめんなさっ・・・!!」
イルミナは、どうして今までそのことに思い至らなかったのだろうかと自分を叱咤した。
自分だって、グランが似たような状況になれば、息も出来なくなるというのに、どうしてそれを人に強いることが出来たのだろうか。
顔を真っ青にしながら謝るイルミナに、グランは諦めたように微笑んだ。
きっと、彼女は何度だって同じ選択をしてしまうのだろう。
国の為といって、自分をすべて犠牲にすることを厭わないのだろう。
それも含めて、グランはイルミナを好ましく思っているのだ。
―――それでも。
「イルミナ、一つ、約束してくれ」
「・・・っ?」
それでも、
もう、置いて行かれるのはごめんだった。
「―――一人で、いかないでくれ。
いくときは、私をつれていってくれ」
ほろりと、グランのグリーンの瞳から涙が零れ落ちた。