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梔子のなみだ  作者: 水無月
女王時代
102/180

大公の涙




今更、どうしろというのだ。


どうして、今更そんなことを言ってくるのだ。


なぜ、今なのだ。


どろどろと汚泥のような感情が、胸の内に溜まっていく気がする。


頭はガンガンと鐘が鳴り響いているかのようで。


視界は定まらず、ぐらぐらと揺れている気がする。


目の前のものですら、見えない。


吐き気が、する。




アルマの言葉は、言葉にできないほどにハーヴェイの心を抉った。

ずっと、考えないようにしていたそれは、本人ですら気づいていないもので。

唯一自分を認めてくれた兄、サイモンだけが、ハーヴェイにとっての全てだった。

魑魅魍魎が跋扈する城で、唯一安心して息ができたのは兄の傍だけだった。


希望を捨てず、いつかはと夢見て。

叶えられることのない、自分の望みを捨てきれずにいた幼きあのころ。

しかし、幾度となく命の危険に晒されたときに、その思いも消え去った。

自分の望みが叶うことがないと知ったとき、ハーヴェイから幼さは失われた。


王も王妃も、他の妃たちも、異母兄弟たちも。

ハーヴェイにとっては何一つ意味を成さないものへと変わっていった。

彼らは、ハーヴェイにとってただの記号でしかなくなった。

それと同様に、自身ですらも記号のように感じるようになっていた。

自分という存在は、ハーヴェイという名の人であるだけで、個人の性格などは何一つ意味を成さないものなのだろうと考えてしまった。

人としての感情が薄れていき始めたころに、ハーヴェイはサイモンと出会った。


サイモンは言った。

自分の唯一の弟が、ハーヴェイでよかったと。

ハーヴェイが弟であってくれてとても嬉しいと。

それがどれだけ自分の荒んだ心を救ってくれたのか、きっと知らないのだろう。


そのころだった。

自分の全ては、兄の為だけに使おうと決めたのは。

自分という個を認めてくれた兄だけの為に、自分は存在するのだと。

息をするかのように、サイモンという存在はハーヴェイの中で浸透していったのだ。


幸せだった。

兄が自分を必要としてくれているだけで。


兄が、義姉が、自分にも一人の男としての幸せを知って欲しいと思っているのは気づいていた。

唯一を見つけ、自分たちと同じように幸せになって欲しいと思っていることも。

しかしそれはハーヴェイにとっての幸せではない。

ハーヴェイにとっての幸せは、兄が自分を必要としてくれている限り続くものだと思っていたから。


悪魔と罵られようが、兄の為に、兄の必要とすることをする。

そうしている限りは、自分は兄に必要としてもらえるのだ。

兄はきっと、自分を手放せない。

ずっと、ずっと必要としてくれる。

兄の為に自分は、後ろ暗いことをやっているのだ。


だから、大丈夫だ。

そう思っていた。


アルマに、言われるまでは。








「・・・っ、どうして、どうして今更そんなことを・・・!!

 俺には、兄上しかいないのに!!

 どうして・・・!!」


錯乱したかのように頭を抱えながら嘆くハーヴェイを、アルマは冷静な目で見ていた。

傷つけたのは理解している。

でも、そうでも言わないと、きっと理解してもらえないと思ったのだ。


ハーヴェイのサイモン至上主義は、筋金入りだ。

だからこそ、今まであったいくつもの縁談を、何の感情もなく切り捨ててこれたのだろう。

きっと、その令嬢たちの中には本気でハーヴェイが好きで心配して言った人もいる。

憶測でしかないが、彼女たちはハーヴェイの闇に気づいていたのだ。

しかし、誰一人としてハーヴェイの心のうちに入ることはできなかった。

ハーヴェイは頑ななまでに、たった一人を作ることを拒否したのだ。


「ハーヴィー、今更だなんて言うな。

 きっと、ずっと思っていたことだ・・・。

 でも、これから、きっと変われるんだ」


アルマの、ハーヴェイの侍従としての最後の仕事は、ハーヴェイに気づかせることだった。

必要とされること(・・・・・・・・)に、打算的なものは不要なのだと。

いつか捨てられるという恐怖は、要らないのだと。


本人ですら気づいていないようだが、アルマにはハーヴェイの心の内を正確に把握していた。

幼きころに認められなかった個。

そして唯一それをサイモンだけが認めた。

それによって、ハーヴェイは個を認められる心地よさを知り、それと同時にそれを失う恐怖も知ってしまった。


だから、ハーヴェイはサイモンに捨てられないようにするために汚い仕事を一手に引き受けた。

そうすれば、サイモンはハーヴェイを捨てないと考えたから。


それでは、いつか壊れてしまう。


それがサイモンの心配したことだった。

サイモン、そしてアルマとて可愛い弟であるハーヴェイに壊れてほしいわけではない。

しかし、いつか変わるかもしれないと希望的観測のみで様子見だけをしたことは悪手だった。

結果、ハーヴェイは歪なまま育ってしまったのだから。


「俺は、ラグゼンファード王の弟だ、

 今までも、これからも・・・!

 そのためにこの身を使うことが、悪いことなはずがない!」


「もちろんだ。

 だが、お前はサイモンに依存しすぎている。

 それくらいわかっているだろう?」


「依存・・・?

 そんなはずはないだろう。

 今だってこうして離れているじゃないか・・・!

 兄上には悪いが、イルミナ女王には俺から誠意を願っておこう。

 兄上は気づいていないのだ、彼女の知識は必ずラグゼンファードの役に立つ」


「ハーヴェイ!!」


アルマの抑え目な怒声に、ハーヴェイの肩が一瞬だけ跳ねた。

しかしそれでもその瞳には諦めの色は宿っていない。


「アルマ、お前だってわかっているだろう、

 彼女の考える新たな政策は、ラグゼンファードにも必要だ。

 それを手に入れるためだけに、あんな危険な真似をしたのだぞ。

 兄上の為なのだ、理解しろ」


それで話は終わりだと言わんばかりに立ち上がるハーヴェイの背に、アルマは鋭く言った。


「彼は、回復する。

 そのための知識を、俺が教えた。

 今回の件も、既に女王には露呈している」


「―――、

 ・・・裏切ったのか?」


アルマの言葉に、ハーヴェイは低い唸り声のような声で問うた。

信じられないものを見るような視線に、アルマは動じることはない。


「違う。

 交渉した。

 治療法を教える代わりに、責任を問わないでいてもらう」


しかし、ハーヴェイはアルマの言葉が聞こえていないかのように首を横に振った。


「アルマ、お前俺を裏切ったのだな?」


「違う!

 聞け、ハーヴェイ。

 あの件についての犯人は、いずれ分かることだった。

 状況証拠が揃いすぎているんだ、向こうが俺たちを勘繰るのは当然だ。

 ・・・それに、お前と女王が一緒になってなんになるというんだ。

 確かに、場合によってはラグゼンファードは成長するだろう。

 でも、お前の犠牲の上で成長しろと、お前はサイモンに言うつもりか?

 ・・・それに俺が何も知らないと思っているようだが、婿となったとしても政策に関われる可能性だって不明だろう。

 俺を出し抜こうとしても無駄だぞ、ハーヴィー」


「・・・」


「ハーヴィー、もういいんだ。

 サイモンも、俺も・・・、お前には幸せになって欲しいだけなんだ。

 確かに、お前のその性格は小さいころに色々とあったせいだというのはわかっている。

 でも、もう成長しなければならないんだ。

 俺も、お前も、サイモンも」


「言っている意味が分からない」


「ハーヴィー・・・」


頑ななハーヴェイの様子に、アルマは諦めたかのように項垂れた。

できることであれば、こんなことは言いたくなかったと小さく漏らして。


「ハーヴィー・・・ハーヴェイ、

 ・・・あわれなこども(・・・・・・・)


アルマの雰囲気が、一瞬にして変わった。

先程のまでの親しげな感じは一瞬にして霧散し、代わりに出てきたのは見下したとも取れるような冷たい覇気だった。


「!!」


「言いたくなかったよ、こんなこと。

 だが、必要なことだと思うからこそあえて言わせてもらおう。

 ―――お前の人生に、サイモンを巻き込もうとするな」


その瞬間、アルマから圧倒的というほかない重圧をハーヴェイは感じた。

そう、ハーヴェイの侍従をしていたとしても、何かしらで暗躍をしていたのだ。

ましてや、アルマは他国にですら名を知られるほどの人物。

幾度となく自らの力を以てして死線を越えてきたアルマと、巻き込まれて死線を越えてきたハーヴェイとは圧倒的に経験が違った。


「サイモンは、これからも王として表の道を歩み続けるだろう。

 アナスタシアという人生の伴侶を迎えて。

 俺はそれを陰日向から支えるつもりだ。

 ・・・だが、お前はどうする?

 陰から一方的に支えて、都合が悪くなったら捨てられる存在にでもなるつもりか?」


「兄上はそんなことをしない!

 兄上が俺を捨てることなんてありえない!!」


「わからんぞ。

 サイモンは王だ。

 ラグゼンファードという大国のな。

 俺は言ったぞ、お前も幸せになってほしいと。

 ・・・もう潮時なんだ、ハーヴェイ。

 いつまでサイモンの陰に隠れているつもりだ?

 お前を認めてくれる人なんて、たくさんいるのに・・・どうしてそれを見ようとしない?」


アルマの氷のような言葉は、ハーヴェイの心を容赦なく傷つける。


「・・・それに、お前は本当にサイモンの為に全てをしているのか?

 本当に?

 お前が、サイモンの傍にいるための口実ではないのか?

 本当は、全部、お前自身の為(・・・・・・)ではないのか―――?」


ハーヴェイは、アルマの言葉に傷ついたかのように目を見開いた。

そんなことを、言われるとは夢にも思っていなかった様子のハーヴェイに、アルマは表情を変えないまま痛む心を押し殺した。







――――わかっていた。


 自分が、依存していることなんて。


 兄がいないと、生きていけない。


 兄だけが、唯一自分を裏切らないで傍にいてくれる存在だと思った。


 ちがう、兄だけが俺を守ってくれると思ったのだ。


 みんな、みんな俺を裏切った。


 母も、父も、血の繋がった誰もが、俺を裏切った。


 そんな中で、兄だけだった。


 兄だけ、俺を見捨てないで傍にいて、守ってくれた。


 兄の傍にいれば、大丈夫だと思った。



 ―――だから。


 いっしょうそばにいたいとおもった





「違う!!」


ハーヴェイは気づいてしまったその思いに、激しく動揺しながら否定した。

しかし否定すればするほど、その言葉は軽くなっていく。


大切な兄だから、役に立ちたいと思った。

―――役に立てば、捨てられることはないから


兄は、自分を初めて認めてくれたから

―――逆に、兄以外誰もいなかっただけ


ハーヴェイは、自分を守ってくれる人が欲しかった。

あの、煉獄のような世界で、守ってくれる人を、自分という個を見てくれる人を欲したのだ。

それが、誰でも良かった。



―――だって、ほんとうはこわかったのだ。


―――生きることも、死ぬことも、ハーヴェイという個人が消えていくことも。



だから、そういった恐怖から助け出してくれる存在に縋ったのだ。

それが、血の繋がった兄だった、それだけ。

でも、それはハーヴェイにとってとても大きな理由になった。

家族だから、守ってくれているというサイモンの優しさを利用したのだ。

そう、ハーヴェイはサイモンを自分の為に利用した。


「――――――ぁぁぁぁ!!!!!

 そんな、そんなことッ―――!!!」


しんじたくなかった。

じぶんが、あにのためとやってきたことすべては、じぶんのためだとは。

それをみとめてしまえば―――


  いままでじぶんがしたことは―――・・・?


人を騙した、嘘を吐いた、いいように扱った、切り捨てた、信用させた、裏切った。

―――そして、数えきれないほど、殺した。


自分の犯してきたことは、兄の為ではない。

兄に必要とされたい、守られたいがために勝手にしてきたこと。

兄が国の闇の部分を見なくてもいいようにと勝手にやってきた今までのことは、本当は必要とされていなかったとしたら?

むしろ、全てを知ったうえで勝手をさせてくれたのだとしたら。


「あ、ああぁぁあ――――」


ハーヴェイは言葉に出来ない思いが、次々と生まれては消えていくのを感じた。

絶望にも似た思いは、ハーヴェイの心を壊そうしていく。


「―――ハーヴェイ」


息すら出来なくなりそうな激情に喘いでいると、気づけばアルマが傍にいた。

しかし、その瞳には憐みの色は見えない。


「あ・・・る、ま・・・」


顔を歪め、今にも泣きそうになるハーヴェイに、アルマはそっとその肩に手を置いた。


「・・・サイモンからの伝言だ。

 ”ハーヴィー、俺の大切な弟よ。

 俺は一度だって、お前に危険な道を歩ませたいわけでは無かった。

 ただ、幸せになって欲しかった。

 それを上手く教えられなかった俺にも、非はある。

 すまない。

 だが、もう変わろう、俺も、お前も。

 もう、俺の為に生きようとするな、ハーヴィー。

 お前の人生は、お前だけのもので、その主人公はお前だけなんだよ。

 すぐに変わるということは、簡単なことではない。

 でも、俺もアルマもいる。

 一人で怖がるな、ハーヴィー。

 もう、誰もお前を見捨てたりしないから”」


「あ、あにうえぇぇッ!!」




見捨てないで、と。

愛してと。

あの幼き日に言っていたら、何かが変わったのだろうか。

人の愛情が信じられず、自身の存在までも軽く見てしまったハーヴェイは、それを言うことで見捨てられると思い込んだ。

見捨てられないほどの価値が、自分にあるようには思えなかったのだ。

そんなはずないと、誰もハーヴェイに伝えなかった。

そこから全ては狂い始めていたのかもしれない。

だが。




「どうかっ、どうか・・・!

 俺を、捨てないで・・・!!


 おれでいいと、いってくれ・・・!」



全ての仮面を取り払ったその言葉は、ハーヴェイの全てとも言ってよかった。

その言葉に、アルマは微笑みながら返す。



「ハーヴィー、お前だから、サイモンもお前を愛したんだ」



その言葉に、ハーヴェイの瞳からほろりと涙が零れ落ちた。





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