第44話 約束の場所
すべてが決着して、一ヶ月が過ぎた。季節は春から初夏に変わりつつある。工房の窓を開けると、花の香りが風に乗って入ってくる。
窓の外に見える王都の街並みが、やわらかな光に包まれている。この景色を──わたしは好きだ。
屋敷の北向きの窓から見えた景色とは違う。広くて、明るくて、自由だ。
宮廷は静かだった。王太子と殿下が謹慎し、イルマが追放され、ベルント商会が解散した。空白を埋めるように、信頼できる人材が少しずつ配置されている。
技術委員会の新しい委員長は、シャルロッテ先生の元同僚。ダリオが太鼓判を押した人物だ。
エーファは王都の学校に通い始めて二ヶ月。友だちもでき、毎日笑って帰ってくる。アンナが工房の近くの部屋で一緒に暮らし、温かい食事を作ってくれている。
エルザは工房の事務を完璧にこなし、新しい見習いの研修も手伝っている。イルマの侍女だった頃に培った観察力と記録力が、工房の運営に生きている。
コンラートは第三世代の照明魔道具の試作に没頭している。原理の証明まであと一歩のところまで来ていた。あの少年が一人前の技師になる日も、そう遠くない。
そして──ダリオが、工房の棚を整理していた。
いつもは散らかしたままの棚を、一つずつ丁寧に片づけている。珍しいことだ。この人が整理整頓をするのは──何か大きなことを考えているときだ。
シャルロッテ先生が宮廷を去る前に工房を片づけたと、以前聞いたことがある。ダリオにとって、片づけは区切りの儀式なのかもしれない。
「ダリオさん。何をしているんですか」
「片づけだ」
「それはわかります」
ダリオが手を止めた。棚の奥に手を伸ばし、何かを取り出す。
小さな箱だった。木製で、表面に微細な歯車の模様が彫り込まれている。ダリオの手作りだとすぐにわかった。
「開けろ」
蓋を持ち上げる。
中に──指輪が入っていた。銀の指輪。細い帯に、小さな歯車が一つ象られている。
宝石はない。華美な装飾もない。
ただ歯車が一つ。この人らしい。
「考えた。何ヶ月も」
ダリオがこちらを向いた。耳が赤い。
「言葉は得意じゃない。知っているだろう。だから──作った。言いたいことは、全部この中に入れた」
指輪を手に取った。内側に文字が刻まれていた。灯りにかざすと読める。
『隣に』
二文字。あの夜の言葉。「隣にお前がいればいい」──その中から選んだ二文字。
涙が落ちた。指輪の上に。銀の表面に丸い染みを作って、すぐに消えた。
「返しません」
声が震えた。でも──はっきりと言えた。
あの屋敷にいた頃は、グスタフの前で声を上げられなかった。今は──大切な人の前で、大切な言葉をはっきりと言える。
「──そうか」
ダリオの耳が赤い。口元が──緩んでいる。
この人が笑うのは珍しい。でも今は──隠しきれていない。
指輪を左手の指にはめた。少しだけ大きい。でも温かかった。
コンラートが扉の隙間から覗いていた。目が真っ赤だ。エルザがコンラートの肩を引っ張って廊下に引き戻す。
扉の向こうから聞こえる声。
「おめでとうございます」とエルザの声。
「だって──嬉しいんです──!」とコンラートの声。
◇
その夜、エーファに見せた。
「ダリオおじちゃんがくれたの? じゃあ、ずっといっしょにいるの?」
「そうなるかもしれないわね」
「やったあ!」
アンナが台所から顔を出し、わたしの指輪を見て泣いた。
「ずっと待ってました。ノエルさんが幸せになるの」
「アンナ。あなたがいなかったら、今のわたしはいないわ」
「わたしは紅茶を淹れて、ごはんを作っただけです」
「それが──一番大切なことだったのよ」
寝室で一人になって、指輪を見つめた。
指輪が窓からの光を受けて、小さく光った。歯車の意匠が影を作っている。ダリオらしい指輪だ。
派手な宝石ではなく、歯車。華やかな言葉ではなく、二文字。
言葉よりも行動。それがこの人だ。
ふと──この一年を振り返った。
屋敷を出た日。何もなかった。
技術も、仲間も、居場所も。あったのは──壊れた置き時計を直す手と、エーファへの想いだけだった。
ダリオに出会い、工房で歯車を削ることを覚えた。コンラートに笑顔をもらい、エルザに勇気をもらい、リュシエンヌ様に導かれた。アンナにずっと支えられていた。
イルマの嘘を暴き、殿下の不正を正し、王太子の仮面を剥がした。アルヴィン侯爵の鎖を断ち切り、エルザを影から救い出し、コンラートの未来を守った。グスタフは──最後に一通の手紙で、償いきれない罪のせめてもの清算をした。
エーファが隣にいる。ダリオが隣にいる。コンラートとエルザとアンナがいる。
すべてが──決着した。殿下の不正。王太子の仮面。
イルマの執着。グスタフの贖罪。リュシエンヌ様の遺志。
侯爵の鎖。一つ一つの歯車が噛み合い、回り、そして──正しい位置に収まった。
嘘の歯車は外れ、真実の歯車が入った。宮廷という大きな魔道具が、ようやく正しく動き始めた。
失ったものはある。九年間という時間。リュシエンヌ様。
グスタフ。でも──失った先に、得たものがある。自分の手で掴み取ったものばかりだ。
指輪の内側の二文字に指で触れた。
「隣に」
わたしもです、と心の中で答えた。声には出さない。
でも──きっと届いている。あの不器用な人には、声に出さなくても届く言葉がある。
窓の外に星が瞬いていた。明日も工房で歯車を削る。
エーファが玄関で迎えてくれる。ダリオが隣にいる。
それだけで──十分だ。大きな望みではない。でも──わたしにとっては、世界のすべてだ。
指輪の歯車が、窓の外の星明りを受けて小さく光った。この歯車は──回り続ける。わたしとダリオが隣にいる限り。
エーファが笑っている限り。工房の灯りが温かく灯っている限り。
すべてが──決着した夜。静かで、温かい夜。これが、わたしの新しい日常の始まりだ。
歯車が刻む、新しい時間の始まりだ。ダリオと、エーファと、みんなと一緒に。わたしの名はノエル・カペル。
エーファの母。ダリオの隣にいる人。
工房の技師。嘘のない世界を、歯車で作る人。




