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修羅

─旦那様は近頃機嫌が悪い。


羽ペンを何度か手折っては、新しい物を取り出し、何事もなかったかのように、書類仕事をしている。

筆圧が強すぎるのか、紙にも皺が寄ってしまっている。

それでいて、表情は変わらないのだから恐ろしい。


執事のリーゼントは、自分の仕事を完璧にこなしながらクルーガーの様子を盗み見、遂には我慢できなくなって口に出した。


「…旦那様、差し出がましいようですが、

どうかなさいましたか?」

「…………………。」


長い沈黙の後、クルーガーは言った。


「……近頃ユリが会っている男を知っているか?」

「ええ。サザランド伯爵ですよね。

確か奥様の昔馴染みだとか…」

「…ああそいつだ。近頃、なんだかんだと理由をつけては会いに来る…」


さも目障りだといった口振りで、クルーガーは言った。


「僭越ながら申し上げます。

奥様は旦那様を深く愛しておいでです。

そんなに心配なさることはないかと…」


「分かってはいる…だが…」


珍しい主人の様子に執事は微笑んだ。


だが、彼は知らなかった。

クルーガーの愛の重さを。



完全には閉じられていないユリシーズの部屋から、楽しげな声が漏れている。


クルーガーは足早に妻の部屋へと向かうと、逸る気持ちのままに押し入った。


バッタン


中にいた男が振り返る。


「これはこれは…エーデル公爵。

突然の訪問、申し訳ございません。」


「……。」


無言で見つめるクルーガーに構わず、ブルックは話し続ける。


意外にいい度胸してる。

百合は秘かに感心した。


「奥様の無聊(ぶりょう)を慰められるかと思い、しばし歓談しておりましたが、公爵も帰ってこられたことだし僕はもう不要ですね」


「……では帰ってはどうか?」


「!私が案内したんです。

ブルックには私の実家の状況を調べてもらっていて…。その報告にわざわざ来てくれたものですから断れなくて」


緊迫した雰囲気を打ち壊すかのように、百合が言った。


「…そうか」


クルーガーはそれだけ言って百合の手をとった。


「どうしたんですか?」


百合が不思議そうに見つめる。


「──」


公爵が口を開く前にブルックが言った。


「…お邪魔のようですので、僕はもう帰ります」



遡ること一週間前。


「それで、あなたには私と()()()してほしいの。もちろん適切な距離を保って」


「そんなことでいいわけ?」


「ええ!特にクルーガー様の前で念入りに」


「…エーデル公爵に睨まれるのは嫌だな」


「やだ!知ってるでしょう?彼は私に興味なんて無いわよ」


百合は滑らかに嘘を吐いた。

実際には関係性が変わって久しいのだが、社交界ではまだあまり知られてはいない。


─きっとブルックは疑いもしない。

エーデル公爵が妻に興味を持っていないっていう噂は根強いものだ。


転生してから数度パーティーに参加したが、どの場でも信じられないという目で見つめられた。


皆、実際に見るまで仲が良いなどあり得ないと、一貫して思っている様だった。


百合の思惑通り、ブルックは了承した。


「…それなら」と。


ついでにユリシーズの実家について調べるようにも頼んだ。


きっとブルックは思っている。

憐れな妻が夫の歓心を買いたくて、こんな真似をするのだろうと…。


すぐバレる嘘だけど、彼には働いてもらわなきゃ。



『話が違うじゃないか!?

公爵は僕を殺しかねない瞳で見ていたし、

こんな恐ろしい真似、僕はもうできない…!』


そんな内容の手紙が届き、百合は丁寧に返事を返した。


『あなたは私に逆らえないでしょう?

もう一度、公爵邸に来なさい。

…もし来なかったら…ってそんなこと言わなくてもあなたは分かっているわよね?

愚かでないことを証明して』


かくして、ブルックは青い顔をしながら邸にやって来た。

びくびくと辺りを窺っている。


「心配しなくても、彼はいないわ」


そう言った途端、ブルックは、はぁぁと重々しく全てを吐き出すようなため息をついた。


「…君はなんだか別人だよね。

おどおどと虐められていた君はどこにいったの?」


「知らないわよ。」


内心鋭いわねと思いながらも百合は冷静に返した。

今日の作戦のためには彼が必要不可欠だ。

早速百合は聞いた。


「それで、実家への仕送りは止めたけどあちらは何て言ってきてる?」


「あちらって…。君の実家だろう?」


「まあそうなんだけど、使用人に実家からの手紙は全て捨てていいと言ってあるし…。

そろそろ何か行動を起こす頃だと思うのだけれど」


ユリシーズの実家は、決して裕福とは言えない。ここエーデル公爵家とは比べるまでもないが、それなりに広大な土地と邸を所有し、その管理には常にお金がかかっている。


それに加えて弟も賭博好きだと聞いて、百合は確信した。


─お金に困ってるわ、これ


これまでユリシーズと実家との関係が分からなかったし言われるまま、自分で動かせる範囲で援助していたのだが…。


それが普通なのかとも思ったし、ユリシーズの両親とやらに、出し渋ったことで乗り込まれるのもごめんだった。


日記を読んで、来た手紙は全て捨てるようにしたが…これだけでは復讐として温いだろう。


「…君の想像通りだよ。そろそろ限界みたいだ。ご両親は君のことを酷く罵っていたらしい。ボロカスに」


ボロカスね…。

一体何を言っていたのやら。

育ててやった恩も忘れて…とかテンプレなことを言ってそうだと百合は考える。


家同士は、未だ仲があまり良くはないようだが、ブルックはユリシーズの弟のハリーとは親交があるらしい。


甘やかされたお坊っちゃん─ハリーは言っていたそうだ。


「君から姉さんにそれとなく頼んでくれないか?親しくしているんだろう?」


いや、ないわー。

見栄なのか何なのか知らないが、直接頼むことすらできないとは。


明日この邸に来るよう彼らには手紙で伝えるとして…。


百合はブルックに向き直った。


「ねえ。今まで協力ありがとう。

それも今日で終わりでいいわ」


「本当に!?」


彼はやっと解放されたとばかりに、満面の笑みを浮かべた。


そろそろね…。百合はタイミングを計り始めた。メイドのアンナがジェスチャーで合図している。


「和解の印に抱擁を」


「ああ!もちろん」


この国で男女間の軽いハグは一般的だ。

初めて見たときは貴族なのに…と驚いたものだが親しい間柄なら許されるらしい。


ブルックは何の疑いも持たず、百合の身体に手を回した。


聞き慣れた足音が聞こえる。


ブルックが手を離す前に百合はわざとバランスを崩した。


二人はソファーに倒れこむ。

─百合が押し倒された形で。


冷気が漂うような声でクルーガーが言う。


「─私の妻に何をしている?」


その後、ブルックがどうなったのか…。

まあ、クルーガーに一発は殴られた。


誤解です!!と涙目になりながら訴えている彼の姿は笑えたとだけ言っておこう。


助けを乞う目で見られたが、百合は無視した。積極的に嵌めたのだから当然だ。


助けてあげてもいいけど…。


自分が庇って、更に悪化する可能性もある。それなりに役に立ったから、何とかしてみるけど、期待しないでね?


悪いようにはならないと思う。

ただクルーガーの不興を買っただけ。

噂を故意に広めるような男じゃないし、社会的には無事だよ。たぶん。


私たちには更に逆らえなくなったかもだけど。


─その夜



百合には勝算があった。

クルーガーが自分を拒絶することはないと。それは当たっていた。


当然だ。端から見て、百合は襲われかけていただけで(実際には違う)、非難できたとしても夫以外の男に気を許しすぎだ、無用心だったと…それぐらいだ。


しかし、百合にも想像できないことはある。


彼女は確かに追い詰められていた。



「…私にもう飽きたのか?」


激しい口づけの合間にクルーガーが囁く。

その声は不穏さを孕んでいて、百合の背筋に悪寒が走る。

酸欠で頭が回らない百合が、声を出せないでいると、行為は更に激しくなった。


「逃がさない。たとえ嫌だと泣いても、決して…」


角張った手が、百合の身体をなぞる。


「あの男に触られたところはどこだ?」


百合はか細い声で、答えた。


「別に大して…その」


「正直に言え」


甘い痺れが身体中に走り、百合は気づけば口を開いていた。


「胸とか…肩に…」


そこからのことは詳しく覚えていない。

散々鳴かされ、恥ずかしい格好をとらされたことだけ頭に残っている。


ブルックは悪くないなどと、今さらとても言えそうになかった。

仮に口に出していたら、どうなっていたことか…。


結局、次の日は一日中ベッドの上だった。

仕方なく、ユリシーズの両親には3日後に来てもらうことにした。


別にいつでもいいのだ。

ただ一言言うだけだから。



「ユリシーズ!やっと返事を寄越したかと思ったら、いきなり呼びつけるなんてどういうつもり?」


出会い頭に喧嘩腰だな。

百合はわざとらしくため息をついた。


「ふぅ。耳障りですわ。もう少し声を抑えてくださいませ。私、優雅に生活しておりますので、そういった不快な音とはしばし無縁でしたの」


「ッな!!」


みるみる内に夫人の顔が怒りで赤くなっていく。


「母親に向かって何て口の利き方だ!早く謝りなさい!!」


「─こういうときは、父親ぶるんですのね?

私知っておりましてよ?

最近の気に入りは、エズラ嬢なんでしょう?でも知ってます?彼女、病を移されたようです。体から体へ移るや・ま・い。

お分かり?」


高級娼婦の名前を挙げる。病云々は適当だが、効果はあっただろう。顔が青白くなっている。


エズラ嬢のことは、ブルック経由で知っていた。夫人もわなわなと震えているし、しばらく荒れるだろう。


「姉さん、許してくれないか?」


「許す?」


「二人は本当は姉さんのことを深く愛しているんだ。ね?だから、いつものように援助してくれないかな」


お前がそれを言うのか。

両親に心底愛され、甘やかされ、日々遊び暮らしているお前が。


百合は知らずきつく握りしめていた手をほどいて、綺麗な笑顔を浮かべた。


「今後一切私に関わらないでください。

あなた方のことはもう忘れます」


「ッ!待ってよ姉さん」


追い縋るハリーの手が百合に触れる前に、

クルーガーが間に入って庇ってくれていた。


いつ来たのか百合には分からなかった。

それだけ頭に血が上っていた。


「妻は疲れている。もうお帰りいただこう」


諦めた彼らを使用人が外まで案内し…そしていつもの日常が戻ってきた。


百合は言う。


「お話があります」と。



「んやっ…」


百合の喘ぎ声が響き渡る。

クルーガーが彼女の耳朶(じだ)に触れながら甘く囁く。


「それで…話とは?」


「今…じゃなく……ても」


百合は変な声が漏れそうになるのを抑えながら何とか最後まで言い切った。


しかしクルーガーは許さなかった。

今言えとその目が言っている。


百合は仕方なく口を開いた。


「──」


「それで本当にいいのか?」


「は…い」


百合はゆっくり頷いた。




─そしてユリシーズの実家、リンデン家は爵位を失った。




どうやったのかは分からない。だが、クルーガーが手を回してくれた。

彼には迷惑をかけてしまった。


不祥事でハリーと父親が捕まったとだけ聞かされ、相も変わらず百合は大切に守られている。


結果的に、とある侯爵家の養子にもなった。

クルーガーの妻として、平民では都合が悪かったので。


彼は気にしないと言ってくれたが、周りが許さないだろうし、百合自身も嫌だった。



─たとえ修羅の道を歩むとしても、百合が振り返ることはない。

側に絶対的な味方がいるから。


百合は甘く微笑んだ。










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