318 そして始まる高校最後の年
高校三年生といえば高校最終学年であり、来たる大学受験、就活に向けて邁進していく事が求められる学年である。
一二年生の頃よりも自立や自律が求められる年であるのだが、新年度の登校一日目でも周の日常は然程変わらなかった。
いつも通りより少しだけ早起きして身支度を済ませた周が朝ご飯を共にしにやってきた真昼を出迎えれば、真昼は朝一番の穏やかな笑みを周に見せてくれた。
「おはよ」
「おはようございます。……落ち着いてますね」
「ん? 何か落ち着かない事あったか?」
「この一年一緒に居られるか、とか」
「毎日居るだろ?」
「ふふ、それはそうですね。学校でも一緒に過ごしたいなって事です」
そう言いながらキッチンまで辿り着いた真昼はエプロンを身に着けたので、周も倣ってエプロンを身に着ける。
隣に立つのが当たり前になったからこその動作だが、改めて思うと何だかくすぐったさもあった。
「それは俺もだけど、まあ、運ゲーだなあ。人数的には三分の一くらいでは?」
「一緒だといいんですけどね」
「そうだな」
頷きながら、昨日作り置きしていた出汁を鍋に注いで火にかける。
周達の通う学校では授業の進み方が厳しい代わりに文理選択が三年生に行われており、なるべく最新の自分の興味関心に沿った進路が選べるようになっている。
理系は選択人数が大体全体の三割程度になるらしく、新三年生の人数を考えれば二クラスか三クラスに纏まるだろう、との予想だ。
周には教師達がどのような意図でクラス分けをするのかは分からないので、真昼と一緒のクラスになれるかは分からないが、ならなかったらならなかったで家で真昼となるべく過ごすようにしたいと思っている。
「忙しくなるから予定が合わなくなるって事もままあるから、なるべく自由時間は一緒に居たいな」
「はい」
予備校は同じものに通う予定ではあるし毎日夕食は共にするが、やはりこれでも寂しさはある。
「……仕方ない事とはいえ、寂しいですね」
「寂しくなったらいつでもおいで」
「毎日通っちゃいますけど?」
「今でも通ってるだろ」
基本的に真昼は毎日周の家に来る。平日休日関係なく。
食事を共にするのは日常になっているし、周が居なくても家に居る事も多い。自分の家より落ち着くというのは真昼談だ。
最早一緒に住んでいるレベルで周の家に居る真昼だが、寝る時と身支度以外一緒に居ても物足りないという感覚があるらしい。
「ふふ。ずっと一緒に過ごしたい、という意味です」
「それは俺も一緒だけどな。この一年は今までとは違うだろうし」
周は今日から、正確に言えば四月一日づけだが高校三年生となり、受験生となる。
進学を目指す人間が人生で一番の詰め込み時期と言っても過言ではない一年を送る事になるのは確定事項であり、周もその例に洩れずこの一年時間配分が受験関連に偏る事になるだろう。
ただでさえ今バイトをしているので真昼との時間が少なくなっている上に予備校や模試関連が入ってくるので、バイトを辞めたとてどうしても一緒の時間が少なくなってくるのは目に見えていた。
だからこそ、話し合う事の大切さや意識して共に過ごす時間を取るべきだ、とも思っている。
「その補填がしたいなって思ってるというか」
「……つまり?」
「……もうちょっと、お泊りとか、頻度を」
微妙に濁しながら、言いにくそうに、曖昧に、且つはっきりとした意思を持ってこちらを窺ってくる真昼に、周はぱかんと顎を落としてしまった。
周の反応にじわりと頬を染める真昼は視線をさまよわせ始めるが、逆に周は真昼の顔をまじまじと見つめる。
「随分と積極的になったなあ」
「そういう意味ではないんですけど!?」
「知ってる知ってる」
恥ずかしさからか反射的に声を強めた真昼に、周はからりと笑って冗談だと返す。
普通なら恋人のお泊りとなれば夜の方を想像するのだろうが、周も真昼も生憎そういう事に及ぶ訳ではない。
正しく言えば誓いを破らなければいいので、誓いに抵触しない範囲で睦む事はあるが、真昼がそれを露骨に求めてくる事はあまりないので、そう受け取られると真昼としては羞恥心から強く否定しまうのだろう。
(真昼からぐいぐいきてくれたら、俺の理性はともかく嬉しいけどなあ)
周も樹達から疑われつつも健全な男なので、当然恋人と触れ合えるなら喜んで触れ合うのだが、今回の真昼の示すものは違うと分かっているので欲求を口にする事はない。
抑え込んで隠しきった周の姿を余裕と捉えたらしい真昼は、焼いていたベーコンエッグを皿に移しながら唇を尖らせた。
「……周くん、大胆になったというか肝が座りましたね」
「そりゃ、付き合いだして一年近く経つ訳ですから」
不貞腐れた、というよりはやや拗ねた声音で指摘されるが、一年近く恋人をしていて進歩がない方が変だろう。いつまで経っても初心で純朴で恥ずかしがり、という訳にもいかない。
洗ったミニトマトとレタスで皿に彩りを足しながら軽やかに笑った周に、真昼はやはり不満そうで。
「一年で変わり過ぎだと思うんですけど」
「それは真昼にも言える事なんじゃないのか? 出会った時の真昼思い出してみてよ」
寧ろ変化が大きいのは真昼の方だろう。
出会った当初の真昼は他者を踏み込ませない鉄壁ガードの持ち主だったし感情を抑えていたが、今はどうだ。
他者の前では比較的落ち着きつつも周にはくるくるころころ変わる表情。屈託のない笑顔を見せてくれるし、不満や怒り、悲しみといった負の感情も見せてくれる。
控えめで遠慮がちなのはなのは変わらないが、昔よりずっと積極的になったし、周に対して細やかな誘惑をしてくるくらいには、大胆になった。
変わったというのなら、間違いなく真昼の方が度合いが強い。
指摘に、真昼は露骨に目を逸らした。
本人も自覚があるらしい。
周にとっては、年相応の姿を見せてくれて良い成長だと思うのだが、本人的には気恥ずかしさがあるのだろう。
「……人は成長するものです」
「俺も成長したな、という事で」
自分でも、変わった事は認める。
良い成長だとも思っている、そしてそれをよい成長だと思えるようになった事が一番よい成長なのではなかろうか。
あっさりと肯定してみせた周に、真昼は目をしばたかせて、それから解けるような笑みを口元に湛えた。
「本当に変わりましたね」
「お互いにな」
目を合わせてどちらからともなく声を上げて笑い、出来上がった朝ご飯を食卓に運ぶべく二人でトレイを持ち上げた。
朝食を食べて身支度を済ませれば、後はもう学校に行くだけだった。
休み明けという事で春休みという概念に名残惜しさはあるが、思ったよりも足取りは重くない。春休みにも色々な事があったが、それも足を引く要因にはなり得なかった。
「じゃあ、いこっか」
「はい」
靴を履いた真昼に手を差し出せば、遠慮なく手が取られる。
そのまま家を出て学校に向かうが、通学路を制服で歩くのも久しぶりで、新鮮な空気を吸い込みながら手のひらから伝わる温もりを改めて包み込む。
繋いだ手が一瞬驚きに震えるが、すぐに求めるように握り返されて、周は手と裏腹に頬が緩むのを感じた。
そのまま、真昼に合わせてゆっくりと通学路を歩む。
時間にはかなり余裕を持たせて登校しているので、朝の見慣れた、そしてどこか新鮮な景色を楽しみながら学校に辿り着く。
真昼と手を繋いでいるので視線を多少浴びたが、いつもの事だとも思われているのかすぐに興味が逸れていくので、何だか面映い感覚だった。
見られても動揺しなくなった辺りは、本当に成長というか慣れを実感する。
新学年という事で周りも少し早めに来ている人が多く、クラス分けが張り出されている靴箱付近には生徒でごった返していた。
早くはけてくれないかな、と思いながら周囲を見回していると、見慣れた友人の姿があった。視線が合ったのは同時らしく、どちらからともなく相手の方に向かう。
「おはよ。久し振りだなあ」
「一応春休みに会ってるよな?」
「細かい事はいいのいいの、定型文的なやつ。ほれクラス分け見てこいよ」
そう笑う樹の顔を見るに、少なくとも悲観するようなクラス分けではなさそうだ。
別に周が一人になってもまあ仕方ないしそんなものかと納得したが、そうでないなら有り難いのでよかったのだろう。
それはそれとして、三年間も一緒に居る事になりそうで妙な感慨深さがある。
「その顔的に悪くはないんだな?」
「オレ的には文句なしというか?」
「それ今年一年俺がからかわれるやつ?」
「おう!」
「うわー」
「なんだようわーって。椎名さん一緒なのに嬉しくないのか」
「嬉しいですけどねー、一緒の奇跡ですけどねー」
このこのぅ、と樹につつかれながらも真昼を伴って何とかクラス分け表を見ると、理系クラスの一つのクラスに非常に見知った名前が集まっているのが見えた。
てっきり誰かしら離れるのではないかと思っていたのだが、どうやら杞憂だったようだ。
どのクラスに配属されたのかは見えたので早々に表の前から退きつつ、にんまりと笑う樹に苦笑いを返す。
「まあ全員理系選択且つ理系少なかったらしいからなあ」
毎年理系選択は少ないらしく、全員が理系を選んだのであれば半数くらい被るとは思っていたが、全員集まるのは予想外だった。
「千歳が理系選ぶのが意外過ぎたというか大丈夫なのかというか」
一応聞いていたとはいえ、本当に理系を選ぶとは思っていなかった。
「ちぃは大学でスポーツ科学学びたいってなってたから、分野的にこっちになっちゃうんだよなあ。ひーひーいってた」
「頑張れとしか言いようがない」
「それはそう。こればっかは本人の努力次第だからなあ」
「支えはしますけど最終的には自分の努力が物を言いますからね」
真昼の言う通り、勿論自分達の余裕がある範囲の中でサポートを惜しむつもりはないが、自分達の事を蔑ろにしてまで助ける気はないし、最終的に受かるかは本人の努力次第。周達はあくまで手助けしか出来ない。
「まあそうなんだけどなあ、正直支えられすぎてもよくないからちぃも頑張ってんだよな」
「最近の千歳は滅茶苦茶頑張ってるもんな」
「そ。椎名さんに余計な負担を背負わせるのはよくないだろ? 結局一年後にはみんなバイバイって訳だし、椎名さんっていう下駄を履かせてもらい続けるのはちぃにもよくないから」
「分かりはしますが、改めて聞くと寂しいですね」
一年後にはバイバイ、という事にほんのりと寂寥感を混ぜながら呟く真昼に、周も確実にやってくる未来に少しだけしんみりとしてしまう。
周と真昼は学科が違えど大学は同じだし、家も大学進学を機に共にしてしまう予定なので、離れる事はまずない。
しかし、樹や千歳達とはそうはいかない。同じ都内と言えど大学は別であるし、地域も少し離れたものになる予定だ。
早期の単位取得も考えれば今までのように気軽にふらっと会いに行って遊ぶ、という事も難しくなるだろう。
それを分かっているのか、樹はヘラっと笑って不安を吹き飛ばすようにいやいや、と手を振った。
「あ、別に休日とかは全然会いにいくつもりなんでー。大学入ろうが友達は友達だからなあ」
「ま、俺らは大学入ってすぐ切れる程の縁の弱さではないからなあ」
あっさりと肯定した周に、何故か樹が驚愕したように目を見開いていた。
「……ほんと成長したなあこいつ」
「なんでそうなる」
「去年のお前ならうじうじしてただろうなって。やっぱり樹にとって俺はこの程度か、みたいな事考えてそうというか、自己防衛のために否定から入ってた気がする」
「……そこまで絶望してもないし卑屈でもないしそんなキャラではない」
そんな事はない、筈だ。
確かに真昼と出会う前の周なら樹に対しても「そう言ってもどうせその内縁は切れるかもしれないだろう」くらいは思っていたかもしれないが、樹が言う程うじうじと悩んで勝手に落ち込んでいく程ではない。
今の自分には自信があるものの、過去の自分は自信がないし今の自分からも過去の自分に自信を持てないので、目を逸らしながら否定するが、二人からは胡乱げな眼差しを向けられる。
「そうかなあ」
「そうですかねえ」
「真昼まで」
「周くんは卑屈でしたよ? 割と寂しがりなのに自分では突き放しちゃうタイプですし」
「俺の事を何だと思ってる訳?」
「わんこ?」
「樹には聞いてない黙ってろ」
人を例えてわんことは何なのか、と口を出してきた樹を睨むものの、樹には全く効いた様子がない。それどころかおかしそうに笑うものだから、自然と周の目も細まってしまう。
真昼は真昼で樹の言葉を否定する訳でもなくにこにこと聞いていた。
「確かに、周くんは赤澤さんの事とっても信頼してますから。素っ気ないと捨てられた子犬みたいになるんですよね」
「そんな事はない」
「どーだかねえ」
割り込むように明るい声が聞こえてきて、振り返るとバッグをラフに肩に担いだ千歳がこちらに向かってくる所だった。
「おはようちぃ」
「おはー。周は何だかんだ一人で居るのは平気でも寂しいって気持ち自体はあるしいっくんの事一番好きだからねえ」
「一番」
一番、という捉え方によってはとんでもない誤解を招きそうな発言に周は眉を寄せるのだが、ほんのり不満が乗った声を出したのは余音ではなく真昼だ。
「あ、まひるんはその辺り例外中の例外というか特別というか特等席、好感度の頂点だから。いっくんは友達のトップ的な」
「それならいいですよ?」
周の一番で居たいといういじらしさは可愛らしいのだが、そこはそこで納得されるのも複雑である。
確かに樹は一番仲がよい同性の友人である事は否定しないが、他人から見てもそういう風に見えている、と思うと背中がむず痒くなってくる。
「お前ら本人を目の前にして好き勝手言えるな……」
「否定はしないんだー」
「俺の交友範囲が狭いから必然的に樹が一番になるだろ」
悲しいかな、周の交友範囲はかなり狭い。
樹の他に友人と言えば門脇や茅野、誠、一哉になってくるが、樹程過ごした時間が長い訳でもないし、門脇は休日もよく遊ぶが樹程の頻度ではない。茅野はバイトで一緒になる事は結構あるが、どちらかと言えば先輩である宮本の方が親しいまである。
消去法的に樹が一番の友人になる。そこは、周も否定まではしない。
「交友範囲が狭い、ねえ」
「大分広がったとは思うけどなー。優太とか茅野とか宮本さんとも仲良いだろ」
「付き合いの長さはお前が一番だろ」
「素直にオレが一番仲良しすきぴでいいんだぜ?」
「うわ……」
「本気で引くのやめてくれない!? 滑ったようにされたオレが恥ずかしいんだからな!?」
「いっくんはずかしー」
「そっちが乗せてきたんだろ……」
樹の悲壮感に溢れる立ち姿に周は千歳と視線を交わしながら笑っていると「君達相変わらず仲良しだねえ」とおかしそうに笑う声が聞こえた。
教室に向かわずに外で駄弁っていたからか、新学期初日だというのに朝練をしてきたらしい門脇がクラス分け表を見にやってきていた。
ちなみに、彼も今年一年一緒のクラスになる。
「おはー。今年も周共々よろしくな」
「ああ俺も樹達のクラスなんだ?」
「そうだぞ。樹が居るとうるさ……賑やかになるだろうなあ」
「扱いヒド」
「周はいっくん相手だけだからねえ。愛だよ愛」
「そこは否定したいんだが?」
「愛はさておき、まあ樹相手だからなあ、仕方ないよね」
「優太お前オレの扱い段々ひどくなってない?」
「仲良しの証拠だね」
「優太ってSだったっけ……」
「仲良しでいいなお前ら」
「周は紛れもなくSだな」
「俺はノーマルなんで……」
生憎、そういう思考や嗜好は持ち合わせていない。樹がそっちの方向の可能性があるだけだろう。
「いっくんがMの方向に傾いてるだけでは?」
「変な疑惑持ち出さないでくれません!?」
「まあまあ。そろそろ教室に入りましょうか」
黙って話を聞いていた真昼が執り成しに入ってくるという事はそろそろやめておけという合図だろう。
誤解されそうな話をしていたのは認めるので周は素直に口を噤みつつ、唸りながら唇を結んだ樹に軽く笑っておく。
「椎名さん今年もよろしくね」
「こちらこそどうぞよろしくお願いいたします。周くんの事もお願いしますね」
「あはは、頼まれなくても」
「そこ、保護者みたいな会話しないでくれ」
何故か真昼も門脇もほのぼのと保護者会を組もうとしているので突っ込みを入れれば、二人してこちらを見て笑うのだからやっていられなくて視線を逸らす羽目になった。
振り分けられた教室に入れば、知り合いや元クラスメートの同級生達が和気藹々と駄弁っていた。
名簿を全員分確認しきっていないが、少なくとも去年一年一緒に過ごしたクラスメートも居る。
「お、椎名さん達も一緒のクラスじゃん。ラッキー」
「ラッキーて。何考えてんのアンタ」
去年も同クラスだった渡邊が親指を立てており、隣に居た女生徒に頬をつねられている。恐らく、二年の修了式の日にグループ会話で言っていた恋人なのだろう。
「いていて。違う違う賢い人達の側に居たら賢くなれる的やつです」
「アンタは馬鹿だから無理ね」
「ひどい」
中々辛辣な事を言われている渡邊の姿を見つつ笑いながら近寄ってくるのは、同じく去年のクラスメートだった太刀川だ。
「渡邊は元気だなあ」
「そういう太刀川もな。今年も一緒か」
「そうだぞーヨロー」
ばちこん、と茶目っ気たっぷりにウインクしてくるこの軽さも相変わらずで、周も小さく笑って軽く手を上げて挨拶し返す。
ノートをコピーさせてあげた事をきっかけに割と話しかけてくるようになった彼は、まだ集まりきっていないクラスの中を見回しつつ肩を竦めてみせた。
「実はこのクラス、俺ら的にはあんまり顔ぶれ変わってないのご存知?」
「まあ、見覚えはある」
なんというか、意図的なのではないか、というくらいに知り合いで固まった構成になっている。少なくとも周の知る限り険悪な仲の人間が同じ場所に放りこまれている、なんて事はない。
どちらかといえば切磋琢磨出来るタイプで親しい、若しくは穏便な付き合いが出来る人達がこのクラスに集められている、といった感じがする。
「変に仲良くないの集めて揉める材料作るくらいならちゃんと交流あるタイプで集めてる感じあるからなあ。あと理系希望が今年は例年より結構少なめらしくて、どうしても固まっちゃうのはあるよな」
「今更だけど太刀川は理系選択なんだな」
「まあ就職に繋がりやすいのは理系側だよなあと」
「なんて分かりやすい理由。いやそれで選べる覚悟もすごいけどな。理系選択正直面倒だろ」
「俺はなーんもやりたい事はないし、モラトリアム期間増やしたかっただけなのはあるけど、タメにならない事もしたくないから」
「太刀川がそう決めてるならいいんじゃないのか?」
「だろ?」
「あれたっちーじゃん理系なのいがーい」
太刀川の姿に千歳は楽しげに笑っているが、太刀川も千歳の姿を見て笑っている。
「俺は白河さんが理系なのが意外だけどな」
「馬鹿にしてません?」
「してないしてない。でもいっつも数学に呻いてる印象あったから」
「ウッそれはそうなんだけどさあ。志望の学科が理系だから」
千歳が教室で理数系の授業や試験に呻いていたのは前クラスメイトならよく知っているだろうし、千歳が理系を選ぶのは意外に思えるのだろう。
「そうなんだ、今年一年一緒に頑張ろうなー」
「何かヨユーそうだなあたっちー」
「余裕を装ってますとも」
実際に余裕なのかは知らないが、余力はありそうな太刀川に千歳が歯噛みしているのを横目に自分の席は何処かなと教室に視線を巡らせていると、ひょっこりとポニーテールを揺らしながら木戸がこちらに歩み寄ってくるのが見えた。
「藤宮くん達おはよう。今年もよろしくね」
「木戸さん、おはようございます」
「滅茶苦茶見覚えのある顔ぶれだなほんと」
先程太刀川も言っていたが、かなり見知った顔が集まっている。
わざわざ木戸の進学先を聞いた事はなかったのだが、このクラスに居るという事は将来的には理数系に関わる学問を専攻して学びたいという事。
筋肉ってどのジャンルだ……? と考えてしまったのは反射的なものだった。
「あはは、ほんとほんと。まあ理系選択だと二分の一か三分の一で同じクラスになるとは思ってたよ?」
「木戸は……」
「私は理学療法士目指してるから理系の方が受験に有利だなって。文系でも行けなくはないんだけど入試的にねえ」
「ああ……」
「その『ああ』はどこにかかってるの?」
「理学療法士目指した所?」
始めて目標を木戸から聞いたが、言われてみれば納得するものだった。
筋肉、というよりは人体全般のものになるが、人体に興味があるのは分かっていたし、人をよく見てサポートをするのも得意としていた。
なので怪我や病気、加齢によって身体機能が低下した人の改善やサポートをする職を目指すのも納得出来る。
「うーんそれはそれで複雑なんだけど、自分の言動のせいだとも分かってるので咎めるに咎められないんだよねえ」
「自覚あるんじゃん」
「肉体の素晴らしさは伝授されるべきでは?」
「左様で」
「あっまともに取り合ってない顔ー! もぅ。恩恵受けてる筈なのにぃ」
「恩恵て」
「ほら、椎名さんが藤宮くんに興味津々になってて藤宮くんは嬉しいでしょ」
「何がなくても真昼は俺に興味津々だと思うけど」
真昼の周に対する興味というのは周本人が一番よく分かっている。
当たり前のように肯定した周に、ひゅうっと実に軽やかな口笛の音。
出処は、樹だ。
「めっちゃ惚気けるじゃんお前」
「事実だし」
「これが余裕というやつなんだろうねえ」
「こういう所でそういう事言わないでほしいんですけどっ」
「ごめんごめん、続きは是非藤宮くんちで二人きりの時にどうぞ」
「木戸さんっ」
「あはは、椎名さんと私の仲に免じて許してください」
「それは真昼側から言うべき事なのでは?」
「えへ?」
頬に手を当ててわざとらしく首を傾げてみせた木戸に、真昼はむぅ、と唇を尖らせていたものの本気で怒っているという訳ではなさそうだ。
寧ろ「椎名さんと私の仲に免じて」という言葉に嬉しさすら覚えているようでうっすら頬を紅潮させている。
「……木戸さんなのでいいですけど」
「わーい。じゃあ仲が認められたという事で是非是非お名前で呼んでくださいな」
「へっ」
真昼の素っ頓狂な声に、そういえば二人はお互いに名字にさん付けで呼び合っていたな、なんて今更のように思い出す。
基本真昼が名前で呼ぶのは周か千歳、志保子に修斗、小雪くらいなもので、他は名字プラスさん付けで徹底していた。
自ら距離を詰める事が得意ではない真昼らしい対応なのだが、木戸的にはそれが不満だったのかもしれない。
確かにこの一年でかなり仲良くなっているし友人としては千歳の次に仲がよい。
というより、広く浅く真ん中が海溝スタイルの真昼が明確に友達だと言える人なので、名前呼びをしていないというのが寧ろおかしかったのかもしれない。
「いや去年一年一緒に居てずっと名字呼びだと他人行儀だなーって。ねっ?」
にっこりと期待の眼差しで笑いかける木戸に、真昼はおろおろ、と若干の挙動不審を見せたものの、木戸に対する親愛は確かなので視線をさまよわせつつも躊躇いがちに口を開く。
「……あ、彩香さん?」
「うん、なぁに?」
実におどおどした様子でたどたどしく名前を呼んだ真昼に、木戸は上機嫌そうに相好を崩して首を傾げた。
「……何でもないです」
「そっかぁ」
「真昼は照れてるだけだから」
「知ってますとも」
「もうっ」
何だかんだこの一年で真昼の性格も分かってきたのだろう木戸に肯定されて、真昼が不満の声を上げるものの、それが本気の不満ではないのは分かりきった事。
木戸も慣れたなあ、と思いながら一歩距離を詰めた二人を、周は微笑ましく見守る事にした。
「私も椎名さんの事お名前で呼んでもいい?」
「ど、どうぞ」
「うーん、ちーちゃんと同じ呼び方だと芸がないし……まーちゃん?」
「まーちゃんに芸があるのか?」
「あは、ないかも。でもこう、真昼ちゃんもなんか違う気がするからいいじゃん。仲いい人にはこういう呼び方するのー」
「茅野もそうだもんなあ」
木戸は極親しい人には〇〇ちゃん、と呼ぶらしく、一番分かりやすいのは彼氏である茅野をそーちゃんと呼んでいる所だろう。
「そうそう。なのでいいのです。……いいよね?」
「はい」
親交を深められた事が嬉しいのか淡くはにかむ真昼にやられたのか、教室の隅から「ヴッ」と撃たれたような男子の呻き声が聞こえた。
真昼の素の笑顔の破壊力は凄まじいので気持ちは分かるのだが、既に真昼は周の彼女なので射抜かれた所であげるつもりは毛頭ないし、真昼も他人の腕の中に収まる事はまずない。
「ほら、そろそろ席着こうか。先生くるから」
柔らかく笑って後方からの視線を体で遮りつつ促した周に、真昼は素直に頷いた。ただ、木戸は意図を察したらしく「ガードの硬い彼氏さんだねえ」と茶化すように笑われたので、周は素知らぬ顔でそっぽを向いた。
新学期当日という事で集会からの一限分早めに日程を終えた周は、進級式やホームルームでされた受験生の心構えや注意点、進路についての相談といったあれこれを脳内で反芻させながら鞄に筆記用具やプリントを仕舞い込んだ。
初日はそれぞれ自己紹介等クラス内交流はあれど午後から授業があり、久し振りの授業に体が硬くなっているのを実感して、つい笑ってしまう。
「あーづかれた」
また初日だというのにすっかり疲労の様子を見せる千歳に更に笑ってしまったのだが、本人は割と大真面目に疲れているのか「チュートリアルにしても連続は疲れるの!」と主張してくる。
それは同感なのだが、これからはこれ以上にみっちりがっちりぎっちりどっしりばっちり詰め込まれるのが確定しているので、ここで音を上げる訳にもいかないのだ。
「今年一年が正念場だなあ」
背伸びをして体をほぐしつつ、皆が共通で持っている認識を口にする。
「多分人生で一番詰め込む時期だよなあ、なんかみんなうっすら切羽詰まってる。これでまだ序の口の序の口なんだから信じられないというか」
「いやになっちゃうねえ」
「嫌だと思っても逃げられないのが現実なんですけどね」
「それ言わないでよまひるん、束の間の現実逃避なのに」
嫌だ嫌だと言いつつも目の前の苦労から逃げるつもりがないのは分かっている。口だけでも逃げる振りをして心を軽くしたい、というだけなのも分かっている。
この中で誰よりも早く帰る準備はきっちり終わらせている樹に、千歳は「いっくんはこれから塾?」と予定を聞いていた。
「そ。めんどくせーとは思うけどオレが選んだ事だからなあ」
「俺も両親と相談して申し込まないとなあ。まあ暫くバイト入れてるからシフトの都合も考えるけど」
塾や予備校、模試は金額が大きいので両親と相談の上で申し込むつもりだ。流石に周が支払い側に伺いもなく申し込んでいい金額ではない。
「周は周で忙しそうだねえ」
「俺が選んだ事なんでなあ」
「台詞パクられたんだけど」
「パクるも何もあるか? お互いに選択の結果ってだけだろ」
「カッコつけいっくんめ」
「なんでオレだけ!?」
こういう時にいじられに行くから朝みたいな変な疑惑が持ち上がるのでは、と思ったものの、口に出しても恐らく直らないだろうし本人も楽しんでいる節があるので黙っておいた。
本気で不満を訴えている訳でもない樹は「こいつらめ」という顔こそしたものの、すぐに切り替えていつもの表情に戻して。
「じゃあオレはここで。また明日なー」
「はーい、お疲れー」
塾と言われたら引き留める訳にもいかず、千歳もあっさりと樹が教室の出入り口に飲まれていくのを見送った。
「周は?」
「俺はこれからバイト。模試とか予備校の予定入ってない内に稼いでおこうと思って」
先に真昼にはシフトを知らせてあるが、今日はシフトが入っている。
取り敢えずバイトを辞めるまではオンラインで受講する予定で、それは許可を取って申し込んでいるのだが、今日はそもそもバイトがある。
「えらーい。私はまひるんと参考書買いに行くからそのつもりでー」
「じゃあ安心だな。真昼、今日もいつもの時間な」
千歳と一緒に行動するなら真昼の寂しさも緩和されるだろう、とホッとしつつ、帰宅の時間を改めて伝えておく。
流石に家でもほぼ一緒に居ると言うのは大っぴらに言うものでもないので声を落としつつぼかしておくと、真昼も意図を理解したらしく控えめな声量で「分かりました。いつも通りにしておきますね」と微笑んだ。
普通に考えればほぼ同棲している高校生は色々とおかしいのだが、もう今更だ。
「いつもありがとうな」
「いえ、こちらこそいつもありがとうございます」
「うわいちゃついてる」
「いちゃつく言うな」
予定の確認をしていただけでいちゃつくと判断するのは早計ではなかろうか、と千歳にジト目を送るものの、千歳は意見を翻す事はなく、寧ろその感覚が強まったように呆れたような眼差しを向けてきた。
「これはまだ序の口、なるほど」
「なるほどじゃねーよ」
「ふふ、ではいってらっしゃいませ」
「ん、行ってくる」
もう千歳の事はスルーしよう、とニヤニヤ笑いを口元に広げている千歳を視界から排除して真昼に微笑みかけ、周は囃し立てる声を背に教室を出た。





