第78話 まずは愛人候補から!
あれから1ヶ月以上が経過した。
季節はすっかり夏に入り、教室の窓から入る風は少し熱を帯び始めていた。
間もなく始まる夏休みに向けて、クラスの空気はなんとなく浮き足立っていた。
みんなが旅行の話や遊びの予定を楽しそうに交わす中、俺は窓際の席でぼんやりと外を眺めていた。
胡桃ちゃんの変化が、ここ1ヶ月で一番大きかった。
彼女は今、白峰家でメイド見習いとして働きながら、学園にも普通に通っている。
――あの日
白峰家のリビングは、午後の陽射しで明るく照らされていた。
胡桃ちゃんは白峰家専用のメイド服を着て、みんなの前に立っていた。
少し大きめのエプロンを緊張した手で握り、頰を赤らめている。
俺は彼女を見て、自然と笑みがこぼれた。
「胡桃ちゃん、今日は特別な日だな」
葵が優しく微笑みながら、胡桃ちゃんの肩に手を置いた。
「そうよ。
今日から胡桃ちゃんは、白峰家の正式なメイド見習いとして迎え入れるわ。
もう『お客さん』じゃない。家族の一員よ」
胡桃ちゃんの目がみるみる潤んだ。
「本当に……いいの?
私みたいな子が、ここにいていいの?」
雛が勢いよく胡桃ちゃんに抱きつき、元気いっぱいに叫んだ。
「いいに決まってるじゃん!
胡桃ちゃんがいないと、毎日つまんないもん!
これからはずっと一緒にいようね!」
澪が無言で胡桃ちゃんの頭を優しく撫で、短く言った。
「……歓迎する」
胡桃ちゃんは三姉妹に囲まれ、涙をぽろぽろこぼしながら笑った。
「ありがとう……みんな。
私、頑張るね。
掃除も、洗濯も、お茶出しも……何でも覚えて、みんなの役に立つメイドになるから!」
俺はみんなの輪に入り、胡桃ちゃんの頭を軽く撫でた。
「無理しなくていい。
ここは胡桃ちゃんの家なんだから」
胡桃ちゃんは俺を見て、満面の笑顔で頷いた。
「うん……!
ここが私の居場所だって、ようやく信じられるよ」
リビングに、明るい笑い声が響き渡った。
硬く冷えていた空気が、一気に温かく、賑やかになった。
胡桃ちゃんの新しい人生が、今日から本格的に始まった。
朝は早起きして家事をこなし、登校して授業を受け、放課後はまた家事に励む。
忙しいはずなのに、彼女の表情は日に日に明るくなっていた。
放課後、白峰家に戻ると、胡桃ちゃんは庭で洗濯物を干していた。
メイド服のスカートを軽く翻し、ピンクの髪をポニーテールにまとめている。
1ヶ月前の彼女はまだ肩を丸めて小さくなっていたけれど、今は背筋が伸び、表情にも自然な明るさが戻っていた。
「悠真ちゃん、おかえり!」
胡桃ちゃんは俺に気づくと、笑顔で駆け寄ってきた。
その笑顔は、以前よりずっと柔らかく、力強さを感じさせた。
俺は彼女の頭を軽く撫でながら聞いた。
「今日も学園と家事、頑張ってるな。
……最近、どう?」
胡桃ちゃんは少し考え、洗濯物籠を抱えながら正直に答えた。
「正直、最初は毎日お父さんのことや黒峰さんのことが頭をよぎって、夜も眠れなかったよ。
でも、この1ヶ月で少しずつ変わってきた。
お父さんとの決別を自分で決めて、黒峰グループの崩壊を知って……
『私はもう誰かの道具じゃない』って、だんだん信じられるようになった」
彼女は籠を地面に置き、俺の目を見て続けた。
「父親に愛されなかったこと、利用されそうになったこと……
それらを全部認めたら、逆に心が軽くなったの。
今は学園の勉強も、メイドの仕事も、全部自分のためにやっているって実感できる。
まだ傷は完全に消えてないけど……前を向けるようになったよ」
胡桃ちゃんの声は穏やかだったが、そこに確かな強さがあった。
俺は彼女の肩に手を置き、静かに微笑んだ。
「よかった。
胡桃ちゃんがそう言ってくれると、俺も嬉しいよ」
その時、庭の奥から雛の元気な声が飛んできた。
「胡桃ちゃーん! 一緒に遊ぼうよー!」
葵と澪も笑いながら近づいてくる。
胡桃ちゃんは俺を見て、照れくさそうに笑った。
「行こっか、悠真ちゃん」
夏の陽射しが、彼女の笑顔を優しく照らしていた。
この1ヶ月で、胡桃ちゃんは確かに変わった。
傷ついた過去を乗り越え、新しい居場所を見つけた彼女の姿が、俺の胸を温かくした。
夏休みは、もうすぐそこまで来ていた。
その夜、リビングでみんながくつろいでいると、胡桃ちゃんが突然立ち上がった。
彼女はメイド服のスカートを軽く摘まみ、元気いっぱいに宣言した。
「胡桃、悠真ちゃんの愛人候補に立候補しまっす! 末永く可愛がってもらえるように、今日から頑張ります!」
「な、なんだってっ!?」
一瞬の沈黙の後、葵がにこっと笑って言った。
「高見沢グループの次期総帥ともなれば、英雄色を好むを地で行かなければなりませんね。私達も本妻として心を持って行かれないように気を付けましょう」
澪が静かに、しかし熱を込めて続けた。
「恋人と愛人……負けられない」
雛が拳を握り、目を輝かせて叫んだ。
「燃えるねーっ。雛、絶対負けないからね!」
「え、お前ら本気なのか?」
「もうここまで強く悠真くんへの愛を見せてもらったら無下にすることはできませんからね。悠真くんもまんざらでもないでしょ?」
「そう、でもまだまだ。今は助けてもらっただけ。胡桃は悠真を惚れさせないと……駄目」
「雛たちだって負けないよ!」
胡桃ちゃんは真っ赤になりながらも、みんなと一緒に笑っていた。
「うん! 胡桃、一生懸命悠真ちゃんを虜にして見せるからね! これから覚悟してね♡ 大好きだよ♡ ちゅーー♡」
「「「あーーーーー!!」」」
胡桃ちゃんが飛びついてくる。それは再会したその日の再現であるかのように。
「悠真くーん! また油断しましたね!」
「2回目……ギルティ」
「悠真簡単に奪われ過ぎーーっ!」
「んむっう、しょ、ふぉんなこと言われても、んむっ、胡桃ひゃん落ち着いて」
「んちゅんちゅんちゅーー♡ 悠真ちゃん大好きー♡」
「澪、雛。私達も負けていられませんよ!」
「「あいあいさー♡」」
「お前ら落ち着けーーーーー!!」
楽しい生活は、まだ始まったばかりだった。
【第3部 了】
※後書き※
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