三話 アゲハ
霧の夜になると忽然と現れる謎のスナックがあるという。そこには心を癒してくれる人たちがいるというが、そのスナックに入店して帰ってきた人は誰もいないらしい。それなら、その噂は誰が言っているのだろうとなるが、噂というのはそんなものだろう。これは、そんな何処にでもあるような噂話だった。
峰岸一子は悩んでいた。長年勤めた会社で次長にまでなり仕事にやり甲斐を感じていたが、同時に長年交際していた男性から、そろそろ僕と身を固めないかと言われていた。もちろん彼と一緒になりたい気持ちもあるが、仕事を辞めるのは抵抗があった。仕事も面白くなってきたところである。彼は仕事を辞めなくていいと言うが、一子の性格ではそれは難しいのではと考えていた。けっきょく、月曜日から金曜日まで仕事に専念し、週末の土日だけ彼と過ごすのでは、今と何も変わらない。それに子供が出来たらそうもいかないだろう。
・・・どうしたら、いいんだろう? ・・・
「次長、お疲れ様です 」
残っていた社員が一子に声をかけて帰っていく。
・・・いけない 私も、もう帰らないと ・・・
一子もクラウドサービスの業務アプリにIDとパスワードを入力して開くと、退社の時間を打ち込んだ。そして、机上を片付けPCの電源を落とし戸締まりを確認してから事務所の電気を消した。
事務所に鍵をかけ会社の駐車場に停めてある銀色のカプチーノに向かう。もうかなり古い車だが一子はこの車が大のお気に入りで大切に乗っていた。オイルもまめに交換し安いオイルは絶対に入れなかった。確かな品質の高級オイルに限っていたので、エンジンは今でも快調に動いている。今日もキーを捻るとエンジンは一発で目覚めた。一子はヒールを脱ぎドライビングシューズに履き替えるとクラッチを踏んでギアを1速に入れた。
大通りに出るとカプチーノのギアをシフトアップしていきスピードをのせる。自宅までは30キロ弱の距離だ。時間にすると約1時間。この時間が一子にとって全てを忘れられる楽しい時間だった。
道は市街地を抜け周囲に住宅や店舗、建造物が消え国道の左右は木に囲まれる。カーラジオからはお気に入りのFMの番組が流れDJが軽快にトークを繰り広げている。一子は時々このまま永遠に走り続けられたら幸せだと思う時があった。
しばらく走ると霧が出てきた。会社のある街と自宅のある街の間では、この時期よく霧が発生し珍しい事ではなかった。しかし、この時の霧はいつもの霧と少しばかり様子が違った。
・・・随分、濃い霧だわ 珍しいけど、もう少し走れば抜けると思うけど ・・・
これまでの経験では、この国道の少し先の登り坂を上ってしまえば嘘のように霧が晴れるのが経験として分かっていた。それが、一子の油断だったかもしれない。十分にスピードを落としていたが、突然霧の中に人影が現れていた。
・・・嘘っ!! ・・・
一子はハンドルを切り、ブレーキを思い切り踏む。なんとか避ける事が出来たが、人影の方も驚いたようで尻餅をついていた。一子はカプチーノを路肩に停め、急いで駆け寄る。
「すいません 大丈夫ですか? 」
「ええ、ごめんなさい 私の不注意です 」
近付いてみると人影は一子と同年代の女性だった。軽くウェーブのかかった肩まである黒髪に、整った顔は、一子が見てもハッとするほどの美人で、その服装も煌びやかなドレスを着ていた。一体、こんな森の中の何処からこの人は出てきたのか、一子は不信に思ったが女性は足を挫いたようで立てずにいる。一子は肩を貸して立たせて上げるが、女性の体重は、その見た目より遥かに軽く感じられた。
「すいません 霧が出てきたので看板が見えないかなと確認に来たのですが、道路まで出てしまったようです 」
女性が指差す所に、群青地に白い文字でスナック・フォギーレインと書かれた看板があった。
「ありがとうございました 」
女性は足を引き摺りながら歩いていく。責任を感じた一子はそれを追いかけて、また肩を貸した。
「飛び出した私の不注意ですから、あまり気にしないで下さい 」
女性は言うが、それでは一子の気が済まなかった。
「あの看板のお店の方ですか? それなら、お店まで送りますよ 」
女性に肩を貸して歩いて行くと目の前に黒い壁にフォギーレインと書かれたお店が現れた。黒いドアを引いて中に入ると、そこはまるで別世界のようだった。暖かみのある照明に照らされた店内は落ち着いた雰囲気が溢れており、大きく長いカウンターは木目の美しいカリン材で、フロアには2つのテーブルとゆったり座れそうなソファー調の椅子が置いてあり、その奥にはピアノが置かれていた。
「ありがとう あなたは親切な方ですね 私はこの店のアゲハ お礼に一曲聴いていって下さい 」
女性は一子をテーブル席に案内すると、黒いベストに蝶ネクタイで背筋をピンと伸ばした年配の男性がやって来た。そして、一子に一礼すると、一子の前にグラスを置く。
「うちのアゲハが、ご迷惑をかけたようで申し訳ありません お車の方は私どもで代行を手配しますので一杯お飲みになってアゲハのピアノを聴いてあげて下さい 」
仕事柄多くの人間を見ている一子は、この二人が悪い人間ではないと直感で分かった。この店内の雰囲気もこの二人の人柄が溢れているようで、一子はマスターの言葉に甘えて少しここにいようかと目の前に置かれたグラスに目を向ける。
「これは”ロンドンバック”と呼ばれるカクテルでございます ジンベースでレモンの爽やかな味わいになってございます なにより、このカクテルには”正しき心”という意味があります お客様のような方にぴったりのカクテルかと存じます 」
一子が口を付けてみると確かに爽やかで飲みやすかった。カクテルは飲んだ事のない一子だったが一口で気に入ってしまった。そこへ、アゲハの弾くピアノの旋律が流れてきた。物悲しく儚げな旋律。一子も知っている。ベートーヴェンの月光だった。盲目の少女に月の光を教えてあげる為に作曲したとの噂もあるが、この時の一子の心にアゲハのピアノの旋律が深く染み込んでいった。ロンドンバックを口に入れ、月光を聴いていると一子は何故か涙ぐんでいた。
「マスター、ごめんなさい お金は払いますので、もう一杯カクテル頂けますか? マスターのお薦めのもので結構です 」
「かしこまりました ですが、お代は結構でございます 」
マスターは一礼してカウンターの中に入ると今度はシェーカーを振りだした。その姿に年期の入ったベテランの味を感じ一子はさらに好感を持った。そして、カウンターから出てくると先程の”ロンドンバック”と違い、カクテルグラスに入ったカクテルを一子の前に置く。
「先程の”ロンドンバック”はロングカクテル、こちらはショートカクテルと云われるジンとキュラソーのカクテル”ホワイトレディ”でございます こちらのカクテルには”純心”という意味がございます やはり、あなたに相応しいかと思いましたので…… 」
一子は照れてしまった。純心なんて、私はそんなに純粋な心を持った人間ではありませんよ。そう心の中で思いながらも悪い気持ちはしなかった。そこへアゲハがやって来た。足首には湿布を貼ったようだが、まだ足を引き摺っている。
「あら、嬉しい もう一杯飲んでくれたのですね 」
「え、ええ 素敵なピアノに素敵なお酒、とても素敵なお店ですね すっかり魅せられてしまいました 」
一子は照れながら本心を言う。
「ありがとうございます 嬉しいですね それでは、もう一曲弾きましょう 何かリクエストありますか? 」
「それでは、ショパンのノクターン よろしいでしょうか? 」
「ショパンがお好きなんですね リクエスト、ありがとうございます 」
アゲハはまたピアノに戻り指を置くとノクターンを奏で始める。一子はピアノの旋律と”ホワイトレディ”で心が洗われるような清々しい感覚を味わっていた。そうだ、何も悩むことはなかった。彼が良いと言ってくれているのだから、仕事も結婚も両方すれば良いじゃないか。一子は晴れ晴れとした気持ちになり、”ホワイトレディ”をグイッと飲み干した。カクテルは飲みやすいがアルコール度数は強いものが多い。一子は自分が少し酔っているとの自覚はあったが、お酒には強いと自分で思っている為、まだ大丈夫と考えていた。せっかく、こんな良い気持ちになれたのだから、もう少し飲みたかった。マスターはテーブルの横に静かに立っている。一子はおずおずとマスターに声をかける。
「あの、すいません もう一杯頂いていいですか? 」
小さな声で恥ずかしそうに言う一子にマスターはにっこりと笑顔をみせる。
「もちろん、どうぞお好きなだけお飲み下さい 気に入って頂けたようで私どもも嬉しいです 」
マスターはまたカウンターに入り、シェーカーを振るとカクテルグラスに入れたカクテルを持ってきた。
「こちらのカクテルはブランデーとキュラソーのカクテル”サイドカー”でございます このカクテルには”いつも二人で”という意味がございます 今度、あなたがいつも一緒に居たいと思っている方とお二人でお飲みになるとよろしいでしょう 」
「素敵なカクテルですね 」
一子はすっかりこの店の虜になっていた。”サイドカー”も飲みやすく一子はつい勢いよく飲んでしまう。一子はだんだん目を開けているのが辛くなってきた。強いカクテルを早いペースで飲んだ為、酔いが回ってきたようだ。アゲハの弾くピアノの曲がノクターンから違う曲に変わっていた。
・・・この曲、何だっけ ・・・
一子は酔いと眠気でグラグラする頭で考える。聴いたことのある曲なのは間違いない。一子は意識が失くなる前に思い出した。
・・・ショパンの”別れの曲”だ ・・・
一子の意識はそのままスーッと失くなっていった。
* * *
何処かで何かが動作する音がする。
「1体の確保に成功しました 」
人間の声ではない、合成音のような声が響く。そして、その後に人影が現れた。それは……。
“野上順一“
だった。
お読みくださりありがとうございます。
サイドカーは私も大好きなカクテルですが、以前5、6杯飲んで前後不覚になった事があるので皆様もお気を付け下さい。
感想戴けると嬉しいです。
よろしくお願い致します。




