辞表
「おはようございます」
出勤してきた愛夢に挨拶する漁火は、いつもと全く変わらなかった。
漁火の穏やかで優しい笑顔とは対照的に、向かいのソファに座る溝呂木は疲れ切った表情をしていた。
「漁火君の心が広い事は知っているけど、美剣に何も責任をとらせないって・・・本気?」
「はい。おそらく、あれが最も早く追弔を終えられる方法でした。ですから美剣さんを責めるつもりはありません」
「せめて車の弁償と迷惑料は貰うべきだと思うけど」
「保険がおりるので平気です。浮かれて自家用車で追弔に向かった私が悪いんです。勉強代とします」
互いにそれ以上は何も言わなかった。
静まり返ったミーティングルームの扉の開く音を愛夢は福音に感じた。
部屋に入ってきた美剣は真っ直ぐこちらへと歩み寄り開口一番に漁火に謝罪をした。
「車の事、本当に悪かった。ちゃんと詫びたいから、お前の気の済むようにしてくれ」
「頭を上げてください。もう何度も謝罪していただいたので大丈夫です。この話は終わりにしましょう」
「でもよ・・・」
尚も食い下がる美剣に漁火は背を向け階段を登っていく。
「本当にもう結構ですから。私は、やりかけの仕事があるのでこれで失礼します」
そう言い漁火は自身の仕事部屋の扉を閉ざした。
「明確に話題を避けている。あれは相当だな」
溝呂木は長い足を組み替えながら美剣を蹴った。
「だよなぁ〜!?ああっーーヤバい!」
美剣はソファに倒れ込み悶えた。痛みによるものなのか、精神的ショックによるものなのか、どちらに起因するものなのか愛夢には分からない。
唯一分かったのは美剣と漁火の間に入った亀裂が相当に深いという事だけだった。
いつも通りの喧嘩に発展していく美剣と溝呂木を見ている間に座学の時間は迫る。
愛夢は2人に会釈をして漁火の仕事部屋へと向かった。
普段の愛夢であれば即座に美剣を心配し駆け寄っただろう。だが丸山のアドバイス通りに仲裁はしないと決めていた。
今日からは愛夢が待ちに待ったメテウスに関する授業が始まる。だから早く座学を受けたくて仕方がなかった。
「先程は私の所為で雰囲気が悪くなってしまいましたね。すみません」
提出した宿題の採点を終えた漁火が向かいのソファに座る。
頭を下げた漁火に愛夢も頭を下げて返した。
「平気です」
黒で統一されている漁火の仕事部屋は"できる大人"の雰囲気が漂っていた。緊張から背筋が伸びた。
「宿題は満点でした。優秀な西宮さんには教える事はなさそうですね」
「・・・今日はメテウスの事を教えてくれるんですよね?」
「・・・そうでしたね。その前に、私たちの体質の元となっている因子の話を覚えていますか?」
「はい。ヘラ因子とイザナミ因子ですよね?」
美剣たちの力の元となり身体の中にあるヘラ因子はリンゴの形に似ている。その事からギリシャ神話の黄金の林檎を持つ女神であり、研究者の推しであるヘラの名をもらった。そして漁火の力の元となっているイザナミ因子は日本神話の黄泉の女王である伊邪那美命より名付けられていた。
「西宮さんの因子の検査結果が出ました。知りたいですか?」
漁火の真剣な表情に愛夢は固唾を飲む。
「やっぱり無かったんですか?それとも・・・すごく弱いとかですか?」
「そんな事はありません。西宮さんの身体の中にある因子は私と同じ、イザナミ因子だったそうです」
「良かった・・・。漁火さんと同じだなんて嬉しいです」
愛夢の安堵に漁火は乾いた笑いを返した。因子が違うからと言って能力の違いは無いと続けて説明をしてくれたが、その表情は何故か暗かった。
「私は、いつメテウスを使えるようになりますか?フロウティスって、まだ貰えないんですか?」
「順番が逆です。因子を用いてフロウティスを創り出し自身と結ぶ。そうして初めてメテウスが使えるようになるのです」
漁火の説明に愛夢は顔から火が出そうになった。
メテウスを使おうと、これまで何度も秘密特訓をした。その様子はマリアと春日にも見られていた。
だがそれらは全て無意味だった。その恥ずかしい記憶に悶えそうになるのを愛夢は何とか堪えた。
「西宮さん?」
「・・・何でも、ありません。私のフロウティスは、いつ創ってもらえるんですか?」
「今は、そこに至る為に西宮さんの適正を見極めている段階です」
「どうしたら早く認めてもらえますか?何をすれば良いですか?」
「焦らないでください。そんなに簡単に認める訳にはいかないんです。フロウティスは兵器と変わりありませんから」
「銃の特訓はさせてもらえるのに・・・」
同じ兵器である銃は触らせてもらえるのにフロウティスが駄目だと言われるのは納得がいかなかった。
「メテウスは銃よりも危険なんです。その事を絶対に忘れないでください」
愛夢の考えなど漁火にはお見通しだった。言葉は丁寧で声色も落ち着いている。だが表情は重く暗い。それは愛夢を頷かせるのに充分に効果があった。
漁火は最初から愛夢が力を手にする事には反対であり、今も時折り別の仕事を薦めてくる。
今日もその話をするつもりなのだろうと愛夢は身構えた。
だが視界の端に、あってはならない物が映る。
部屋の一角のパソコンデスクに置かれた封筒に愛夢の目は釘付けになった。
そこにあったのは辞表だった。
力強い筆文字は、怒りによるものなのか、いつもの美しく読みやすい漁火の字とは大きく違っていた。
世の中に絶対は無い。
アイの予想は外れてしまった。
話を脱線させるなと言われても、勝手に見るなと言われようとも、これだけは言わねばならなかった。
「漁火さん!お願いですから辞めないでくださいっ!」
「え?やめる?何をですか?何故そんな話に?」
漁火がいなくなってしまう日の想像が視界を潤ませた。
「・・・だって、あそこに辞表がっ・・・」
愛夢の震える指が差す方向を見た漁火は苦笑いする。そして口を開こうとした瞬間、部屋の扉が乱暴に開かれた。
「辞表ってマジかよ!?」
「漁火君、頼むから早まらないでくれ!」
美剣と溝呂木の2人が転がるように部屋の中へと飛び込んできた。
「・・・お二人共、まさかとは思いますが盗み聞きされていたのですか?」
ただ驚く愛夢とは違い、漁火は冷たい程に冷静だった。その静かな気迫に流石の2人も気圧された。
「お前の様子がいつもと違うからと気になったんだよ」
「僕は美剣を止めていたんだ。けど聞き捨てならない単語が聞こえたから、居ても立ってもいられなくて」
美剣と溝呂木は漁火の両側で宥めるように事情を説明した。
「心配してくださっているのは分かるのですが、今は座学の時間です。後にしていただけますか?」
「少しだけなら良いだろ?」
美剣の視線は漁火から愛夢へ移る。愛夢は黙って頷き応えた。
「さっきの話の方が急を要するよ。辞表って本気?」
質問をしたのは溝呂木だった。だが漁火は愛夢の方を見て答える。
「・・・あの辞表は私の物ではありません」
その声は、どこか寂しげであり出会ったばかりの漁火の雰囲気に重なった。
漁火の辞表ではなかった事実に安堵はあるのに何かが引っ掛かり愛夢は素直に喜べなかった。
「この辞表が誰の物なのかは、お二人なら分かるでしょう?」
漁火は机の上にあった辞表を美剣に渡し部屋を出るよう促した。
やはり只事ではない事に変わりはないのか、美剣と溝呂木の顔色が一気に変わる。
「やっぱり話をさせてくれ。車の事もだが、コレの事もだ」
「僕も今だけは美剣の意見に賛成だ」
「・・・分かりました」
三人の視線が愛夢に集まる。
「西宮愛夢、漁火を借りて良いか?」
申し訳なさそうに笑う美剣に愛夢は頷く。三人だけで話をする為に退室を求められているのだ。
「分かりました。お話が終わるまでミーティングルームで待っています」
「待たなくても今日の座学は終わりで良いだろう?」
溝呂木の言葉に愛夢だけでなく漁火も固まる。
「・・・確かに続けられる状況ではありませんが」
「え?・・・終わり、なんですか?」
二日ぶりの座学が打ち切られた事に愛夢はショックを隠せなかった。
全く成長を感じられない射撃や肉体のトレーニングとは違い、座学は確実に愛夢を成長させてくれていた。分からない、知らない、それらマイナスが消えていく事が何より嬉しかった。
唇に奔る痛みで何とか悲しさを誤魔化す。
「分かりました。失礼します」
一礼して部屋を出ようとする愛夢を漁火が呼び止める。
「この後に課外授業に行こうと思っています。良ければ外出の支度をして待っていてください」
漁火が向けてくれた笑顔は、いつもと同じ愛夢が大好きで目標とする笑顔だった。
だが寝耳に水なのか、美剣と溝呂木は心底驚いた表情をしていた。
「はいっ! 是非!」
追弔もできない。
仲裁にも入れない。
あの辞表の主も分からない。
愛夢は全てにおいて、部外者だった。閉じた扉は、文字通り3人と愛夢を隔てる壁のようだった。
だが愛夢には疎外感で落ち込んでいる暇も立ち止まっている暇もなかった。
待っていた時間は15分程度だった。
相変わらず乗り心地の良い公用車は漁火の安全運転も相まって愛夢にとって快適な空間になっていた。
「課外授業って何をするんでしょうか?」
変わっていく景色よりも、今から行う課外授業の内容の方が気になって仕方がなかった。
「すみません、実は抜け出す口実にさせていただいたんです。ですが、今から西宮さんには私のお手伝いをお願いしたいと思っています」
「お手伝いですか?」
「はい。今から私と新たなデコイ設置場所の視察に行ってほしいのです」
「頑張ります!」
自分なんかが行ったところで何ができるのか。
あの辞表は誰の物で何故漁火の手元にあったのか。
美剣との蟠りは解消されたのか。
本当は漁火に聞きたい事は山程あった。
だが愛夢は雑談を選んだ。先程の話し合いが終わってからの漁火の表情が少し固いように感じられたからだ。
前日の丸山夫妻との夕食の話が現場に到着するまでの車内を盛り上げてくれた。




