微熱
ふと目を覚ました時、全身にうっすらと汗をかいていた。どうやらソファーに座ったまま眠り込んでしまっていたようだった。体が少し熱いような気がして、僕は枕元に置いてあった体温計を脇に挟んだ。
カチ、コチと壁掛け時計の針が時を刻む音が部屋の中に響いていた。時刻は17時10分だった。額から左の頬にかけて、一滴の汗がゆっくりと伝ってTシャツの上に落ちた。何だか体温計が鳴るのがいつもより遅い気がして、不安が自分の中で大きくなるのが分かった。
ピピッという音がようやく鳴って体温計に表示された数字を見ると、37.8℃だった。まだ少し寝ぼけていたせいで状況が上手く呑み込めずに、僕は少し口を開けたままその数字をしばらくの間見つめていた。それが何かの間違いであることを期待しながら。でもその数字が変化することはなかった。やっぱり37.8℃だ。つまり、僕は熱を出しているのだ。急に部屋がぐらりと揺れたような感じがして、待ち構えていたようにパニックが襲ってくるのが分かった。状況的に考えられることは一つだった。僕はコロナにかかったのだ。
瞬間的に、病院でコロナに対する集中治療が行われている映像が頭の中に浮かんだ。2021年の夏はちょうどデルタ株が猛威を振るっていた時期だった。若くて持病がないからと自宅療養をしていた人が、急に息苦しくなって病院に運ばれる、そんな映像がテレビでは繰り返し流されていた。
僕は訳の分からない言葉をつぶやきながら、狭い部屋の中をぐるぐると歩き回り始めた。焦りと不安で、思考が正常に働かなくなってしまったようだった。何で自分がこんな目に合ってるんだ?あいつのせいじゃないか。谷本さんの顔が頭に浮かんで、腹立たしさで拳を握りしめた。
でもそのうちに僕は諦めて、ソファーに座りこんだ。谷本さんにキレたところで状況が良くなることはない。今できることは一つだった。
僕は震える手でポケットから携帯を取り出して保健所の電話番号を押した。
「もしもし。こちら~保健所ですけれども」
事務的な女性の声だった。少し疲れたような雰囲気があった。
「あの、2日前から濃厚接触で自宅隔離になっている者なんですが」
「はい」
「さっき熱を測ったら37.8℃ありまして、どうしたらいいでしょうか?」
僕はなるべく冷静を装いながら尋ねた。でも電話越しでも動揺しているのは明らかだった。
「なるほど。えっと、他に症状はありますか?」
女性の声に驚きは全く感じられなかった。きっとこの手の電話は飽きるほど対応しているのだろう。
「いや、今のところ熱だけだと思います」
「そうしましたら本日はもう夕方になっていますので、明日の朝最寄りの医療機関を受診してPCR検査を受けてください。」
「じゃあ、今晩は様子見ですか?」
「はい。そうなりますね」
「えっと、あの…分かりました」
本当は不安でどうしようもなくなっていることを彼女に伝えたかったが、僕はそんな気持ちを何とか心に押し込んだ。電話対応で疲れ切っている人に精神的な相談をしても、お互いさらに疲れるだけだ。電話を切った後、流しでコップに冷たい水を注いで2杯続けて飲み干した。長い夜になりそうな気がした。