後編
自動ドアはなんとか手動で開けることができたが、ビルのなかは真っ暗だった。ひとっこひとりいない。これが誰もが憧れる財産の象徴だったビルとはもう思えない。われわれが考えていた豊かさなんて、幻想だったのかもしれない。理想郷はいまや、ネズミの住処となってしまっている。
おれは、持っていたライターを明かり代わりに、ビルを探検した。どうしてだか、ここに今の非日常を日常に変えてくれるなにかが眠っているような気がしていた。おれは自分の願望をただ、妄想しているだけなのかもしれない。
どこかにどうせ見間違いか、死体かなにかだろうという諦めもあった。最初は人間の死に敏感だったが、もうなにも感じなくなってきている自分がいた。
人影が見えたフロアに着いた。そこには驚くほど、なにもなかった。暴動によって持ち去らわれたのかもしれない。何本かパイプが転がっているだけだった。護身用に、その内の1本を拝借する。
おれはひとの足音のような音を聞いた。やっぱり、誰かいたのだ。音がする方向に歩くと、そこには……。
ひとりの老婆がいた。ぼろぼろの服を着た妖怪のような老婆が。
いや、老婆だけではない。老婆の足元には、無数の死体が転がっていた。
「おまえはなにをやっているんだ……?」
「……」老婆はフラフラとどこかへ行こうとする。
「おい、待て」おれは慌てて、老婆の腕をつかんだ。その腕は肉もなく、骨と皮だけのように感じた。すぐに老婆は手を振りほどき、フラフラとしている。
「話せ。話さないと、このパイプで殴り殺すぞ」おれの中で何かが変わろうとしていた。
「フフフ」老婆は顔に恐怖を浮かべた後、逆に嬉しそうな顔となり笑い出した。
「殺したのか……?」おれはおそるおそるそう聞いた。
「さて、どうじゃろうね」老婆はやっとまともな声を発した。
「どうして、そんなことをしたんだ」
「生きるため」やつは簡単にそう答えた。
おれは老婆に襲いかかった。やつの細い首を握りしめ、変なおたけびをあげる。
「どうして、どうして、どうして」
「やつらは老人相手に詐欺を働いていた。殺されても当然じゃよ。生きるためにやつらが集めたものを奪って生活しているだけじゃ。やつらだって、生きるために悪事を働いていたのだ。わしが生きるために、やつらに悪事を働いて何が悪い。あいつらだってわかってくれるさ」
「生活?」老婆の悪事がとてもありふれたものに感じる。
「そうじゃ。生きるためにしかたのない悪事じゃ。やつらが貯めに貯めた宝石を、食料と交換しなければわしは餓死してしまう。しかたのないことではないか」
「しかたのないこと……」
「だいたい、ひとは大なり小なり悪事を働いてるもんじゃ。お主だって、平和なときは肉や魚を食べておったじゃろう? あれは人間ではないが、動物の命を奪ったもんじゃ。偉いやつらはよく言っていただろ。命の重さに大小などないと。動物の肉を食うことと、やつらのものを殺して奪うことになんの差がある?」
「ははっははははっは」
おれの中でなにかが崩れ去ったように感じた。そして、おれは狂ったように笑いだした。
「では、おれがお前を殺して、これを持っていってもいいということだな」
「なにを言っているんじゃ……」
老婆の顔は恐怖に染まった。おれは、躊躇なくパイプを老婆にたたきつけた……。
「この宝石はおれのもんだ。この缶詰も、乾パンも全部おれのもんだ」
老婆の遺体はいつの間にか無くなっていたが、おれはそんなことに気がつきはしなかった。おれは生きる、おれは生きる。そう狂ったようにつぶやき続けた……。
それ以来、男を見たものはいなかった。