エリザベスが悪の組織のボス?
もしかすると、被害者の一人でもあるエリザベスが、僕がテロリストの仲間だと証言しに来たのだろうか。そうなら、僕はすごく不利かもしれない。エリザベスは見るからに人が良さそうだ。まさか嘘なんてつかないと、誰もが思う。だけど、自分で言うのもなんだけど、僕だって人が良さそうだ。それでも、信用されるのは、エリザベスの方だろう。エリザベスはイギリスの優しそうな老婦人で、僕はイギリスでは無名のただの外国人なのだ。善良なイギリス人なら、エリザベスを支持するに決まっている。
それも、エリザベスは目に涙を浮かべて必死に何かを訴えていた。容疑者の僕ですら、エリザベスに一票だ。せめて、通訳さんがエリザベスが何と言っているのか伝えてくれればいいのだけれど。明らかに僕に不利な証言をしていて、気を使って伝えてくれないのだろう。
僕は現実逃避をするかのように、エリザベスから目を逸らすしかなかった。そのまま下を向くと、当たり前にマイナス思考になる。イギリスの刑務所で凶悪犯に囲まれて生活している自分を想像していた。耐えられないだろう……。
うつ病かと疑うほどに、今日の僕は、躁状態から鬱状態への振り幅が大きい。錯乱していてもおかしくはない。だけど、塚谷が救ってくれる。直接どうこうではないが、塚谷がハグをして励ましてくれているのを想像すると、なんとか自分を保つことができた。
だけど、それが今の僕には精一杯だ。自分がバス運転士俳優の山田ひろし、そう意識するのが。五感はあやふやだなんてものではない。それでも、その五感の一つの聴覚が、泥臭く正常を取り戻そうとした。防衛本能が働いたのかどうかは分からないが、何らかの音を必死に捉え識別しようとしている。
英語での短い会話が終わると、刃物で切ったのかと思うほどに、突如、静寂が訪れる。いや、死にものぐるいの僕の聴覚は、そこにいる全員の息遣いを感じた。つかの間だったが。僕の聴覚が周波数を別の音に合わしたからだ。足音だ。
その足音には、決して力強くはないが、進むという確固たる意思があった。それが分かるほどに、僕の聴覚は研ぎ澄まされている。その代償といってはなんだけど、他の4つの感覚はないに等しい。そのまま足音は、ペースを崩さずも、音量だけは少しづつ大きくなる。僕に近づいているのだ。
やがて足音は止んだ。僕のすぐ横に来たからだ。それが分かったと思ったら、感覚が突如として回復する。といっても、何が起こっているのかは理解できない。あまりに予想外だったからだろう。まさか抱きしめられるなんて。
それまで意識的に遮断していた視覚が、無意識に復活して、僕を抱きしめている人を確認した。視界はまだぼやけているが、それでも、エリザベスだというのは分かる。このタイミングで僕を抱きしめるのは、エリザベスしかいないというのも手伝ったかもしれない。
ただ、視界がはっきりしてくると、全く想像外のエリザベスだった。叱られたり詰られたりを、僕はいくらか覚悟していた。だけど、エリザベスは悲しみの大粒の涙を流しているだけだ。しっかりとした眼差しで僕を見つめながら。そして思い出したように話しかけてきた。
「ヒロシ、ごめんなさい……」
「え?」
エリザベスは、どうして僕に謝っているのだろうか。僕たちの巻き添えで、あのような辛い思いをしたというのに。むしろ謝らなければならないのは、僕の方だ。なのに、その謝罪の言葉すら出てこない。エリザベスがすぐに続けたのもあった。
「ヒロシが捕まっていたのを私がもっと早く知っていれば、こんなに長く辛い思いをしなくてもよかったのに。入院していて、外の情報が全く入って来なかったの。リカが私を庇ってケガをしたから、他に気が回らなかったのもあるわね。私と同じ病室に入れてもらって、私なりに看病していたのよ」
「エリザベスが入院していた? リカさんがケガをした?」
あの作戦は、やはり無謀だったのか。例えいかなる状況であろうとも、乗客にケガを負わせるなんて。僕はバス運転士失格だ。
「私は、ただの検査入院よ。リカは、打撲に加えて軽い脳震盪を負ってしまったから、精密検査が必要だったの。結果、脳に異常はなかったわ」
軽かろうが異常がなかろうが、ケガをしたのには変わらない。大切な友人でもあり大切な乗客に、僕の無茶な運転が原因で……。
「リカから伝言を預かってるの。ヒロシのことだから、リカがケガをしたのを知ったら、ものすごく落ち込むでしょ。反省している暇があったら、OKONOMIYAKIに招待するように、と。あと、バス運転士を辞めるだなんて言ったら、金輪際共演をしません、と強く強く言ってたわよ。私に負けず劣らずの笑顔だったけど、OKONOMIYAKIって何なのかしらね? 私が上手く聞き取れなかったかもしれないから、後で確認してみてね」
エリザベスはいつの間にか涙が止まり、素敵な笑顔で微笑んでいた。僕は黙って頷く。これが合図とばかりに、エリザベスは僕の手を取り、取調室からの脱出を試みる。被害者のエリザベスがどのような証言をしてくれたのか分からないが、さすがにそれは無謀というものだ。
仮に、僕がテロリストと繋がりがあったとしても、周囲の人には隠していたかもしれないのだから。実際に、警察はそう考えている。何よりも、最低限の手続きは必要だろう。
しかし、エリザベスと僕は誰にも止められない。エリザベスは、僕を取り調べていたモリアーティ刑事に一方的に一言二言何か言っただけで、何の躊躇もなく突き進む。モリアーティ刑事だけでなく、誰も止めようとしない。結果、普通に取調室から出てしまった。訳が分からないが、僕はなすがままだ。
取調室から出ると、そこには、スーツ姿の強靭な刑事らしき人が10人以上いた。脱走した僕をすぐさま捕まえに来たのだろうかと一瞬怯んだ僕とエリザベスを、守るかのように一緒に歩き始めてくれる。警察すらも逆らえない悪い組織が存在して、その組織のボスがエリザベスなのだろうか。いやいや、映画の世界じゃないのだ。しかし、納得のいく答えが見つからない。
回答を得られないままに、僕は警察署の外に出てしまった。このままだと、僕は逃亡犯だ。本物の犯罪者になってしまう。いや、いくらなんでも、目の前を悠然と歩いている容疑者を、警察がただ見送るようなまねはしない。警察が逆らえない悪の組織なんて存在するわけがないのだから。
何が起こっているのか知りたくて、いつの間に僕の背後についてきていた通訳さんに目で訴えるが、なぜか目が合わない。目を逸らすとかではなく、焦点が合ってないのだ。あがらえない強大な力に恐れているかのように。僕はこのままエリザベスについていってもいいのだろうか。警察に助けを求めるべきなのでは。助けを求めたところで、何もしてくれないだろう。してくれるなら、容疑者の僕をみすみす送り出しはしなかったはずだ。
僕は、巨大な悪の組織にたった一人で立ち向かう映画の主人公になったつもりで、現実逃避するのが精一杯だった。せめてアクション映画の主要な役柄を演じたことがあれば、リアリティもあったのだろう。演技派の僕には、想像しても悪の組織に勝てる方法が思い浮かばなかった。なので、この現実の世界でも、大人しくエリザベスについていくだけだった。




