第一話 4
そんなことを年がら年中繰り返していたのだが、ある日、転機が訪れた。同じ学校の同僚の生物担当の沢野絵美に図書館でばったり遭遇したのである。どうして彼女に図書館で遭遇したことが転機になったのかというと、沢野絵美は僕に普通に話しかけてきたからだった。僕は教師生活を十八年間もやって来たにもかかわらず、仕事以外で同僚女教師に話しかけられたことがただの一度もなかったのである。
「まぁ、篠原先生! いらしてたんですね!」
唐突にそう話しかけられて、飛び上がった。僕は驚いて彼女の顔を凝視した。
「篠原先生、童話がお好きなんですか?」
「え?」
「だって、今読んでらっしゃる本、童話ですよね?」
「え、ええ……」
「あ、これ! 佐藤みつるの本じゃないですか!」
「は、はい」
「私も佐藤みつるの大ファンなんですよ!」
「はぁ、そうですか……」
「しかもイラストが村口勉だわ!」
「はぁ、そ、そうですね……」
「子供の頃、誕生日に両親から佐藤みつるの本をプレゼントされて、それ以来、大ファンでいつも読んでたんです!」
「そ、そうなんですね……」
「あ、あのぅ……」
「はい……」
「先生に話しかけたらダメだったですか? もしかしたら、私、お邪魔でしたか?」
「え?」
「いえ、さっきから、先生、元気がないので……」
「いや、僕、普段からこんな感じです。だから気にしないで下さい」
沢野絵美は四月の移動で他校から赴任してきたばかりだから、僕が周囲の人間、特に同僚女教師からキモいとかダサいとか噂されて敬遠されていることを知らないのである。
確かに僕は、キモくてダサかった。天然パーマの前髪を顔がほとんど隠れるほどに伸ばし、顔半分程を占める大きなサイズの黒縁眼鏡をかけていた。しかも着ている服もよれよれのスーツか毛玉だらけのポロシャツとスラックスというあり様だった。とにかく人生投げていた。人生を投げていたから、身なりなんかに気を遣うわけがない。身なりに気を遣わないから、女性にもモテない。モテるどころが敬遠されていた。だって、どんなにいい人と巡り会って頑張って自分磨きをして恋愛して結婚しても、人は必ず死ぬ。愛する人との別れがどれだけ人間の精神を痛めつけるか、僕は身を持って体験していた。しかも一度ではなく、すでに四度も体験していた。そんな思いをまた繰り返すくらいなら、ずっと一人でいたほうがマシ、そう思っていた。今度そんな目に合ったなら、今度こそ、僕は完膚なきまでに打ちのめされて人格崩壊するだろう、そう感じていた。
「篠原先生は、寡黙な方なんですね」
「ええ、まぁ、あまり人と話すのは得意ではないです」
「そうなんですか。でも、私、お喋りな男性はあまり好きじゃありません。高校も大学も理系だったせいか、いつも周りが男性ばっかりで、だからなのかもしれませんけど、これでも男性を見る目はあるんです」
「?」
「篠原先生は良い方ですよね」
「え?」
「この間、進路指導室で、三者面談されてたでしょ? あの時、私、たまたま奥の資料室で整理してたんですよ。だから、悪いとは思いつつ、立ち聞きしてしまって……」
「そうだったんですか。机の上に資料が置きっぱなしだったから、誰かいるのかなとは思ってたんですけど、でも、面談の時刻になったので、そのまま話をしてしまってました」
「生徒さん、本当は建築学科を受験したいのに、お母さんはお嬢様学校の女子大受験を希望されてたでしょ? お父さんが大企業の社長だし、女の子なんだからお見合いして早く結婚してくれればそれでいいと。でも、篠原先生は、毅然として言ってたじゃないですか、『お母様やお父様の人生ではなく、彼女自身の人生です。どうか自分の人生は自分で選ばせてあげてください。どんな選択をしても苦難はついて来ます。でも、自分で選択するからこそ、苦難を乗り越えられるのだと思うし、乗り越えたときの喜びも大きいのだと僕は思います』って。普段、寡黙な先生なのに、意を決したようにお母さんを説得する姿を見て、本当に感銘を受けました」
「そ、そう、だったんですか……」
「私もどちらかというと引っ込み思案で、いつも遠慮して自分の意見を言えない性質だったんですけど、先生を見習わなくちゃいけないと思いました。だからね、実を言うと、私、あの立ち聞きした日から、篠原先生のファンなんです」
「え……、フ、ファ、ファン?」
「ええ」
そう言って、沢野絵美は笑った。
その時の彼女の笑顔は、僕には眩しすぎた。
その日から、約束したわけでもないのに、僕と沢野絵美は図書館で毎日のように顔を合わせることとなった。最初は戸惑いを感じていた僕だったが、次第に彼女が現れるのを待っている自分に気が付いた。
そのうち、沢野絵美とは図書館だけではなく、生物の教師らしく彼女の大好きな水族館や植物園、はたまたごく普通の恋人たちのように映画館やカフェでも会うようになった。そして、デートした後、僕は必ず洋服屋へ連れて行かれ、彼女は「篠原先生は本当はハンサムなんだから、そんな恰好をしていてはダメ!」と言って、洋服も選んでくれた。髪の毛もばっさりカットして、流行りの髪型にし、眼鏡を外してコンタクトにした。
するとどうだろう、今まで僕のことを無視し続けていた同僚女教師たちも女生徒たちも明らかに僕を見る目が違う。容姿を整えただけで、あれだけ僕の陰口を叩いていた人間がこうも簡単に変貌するなんて、本当にミラクルだった。僕は大いに反省した。そうか、僕が不潔な恰好をしていたから、周囲の人たちに不快な思いをさせていたんだなと。恰好を清潔にしただけで、随分と職場の人間関係も良好になっていった。沢野絵美は僕にとって、救世主のような存在だった。人に対する偏見なんか全然持たず、いつもキラキラした目で楽しそうに僕を見る沢野絵美。僕は彼女に恋をしていたのだろう、生まれて初めて、自分が生きていることを感謝していた。
それから一年が過ぎた。僕は、他校に転勤することになった。そのことをきっかけに、沢野絵美に一世一代の大決心を告白しようとしていた。僕たちは、彼女と初めてデートした品川の水族館で待ち合わせした。ちょうど桜が咲いていたので、その後、お花見にも行こうと約束していた。
約束の時間より一時間も早く到着してしまった僕は、館内を一人で散策していた。照明を抑えた仄暗い部屋の中で、水槽の中だけ青くライトアップされ、まるで部屋全体が海の底のように感じられた。僕の目の前で悠然とクラゲが泳いでいた。いつも彼女は、この水槽の前で長い間立ち止まっていた。
「なんだかこの空間て、海の底みたいだけど、夜空のようにも見えるでしょ? 宇宙のような感じ? ゆらゆら泳いでいるクラゲを見てると、世の中、人間だけじゃなくて色んな生き物がいるんだなぁと思って、自分が小さなことで悩んでいることがバカバカしく思えるの。こんな不思議な生き物だってこのケースの中で一生懸命生きてて、生きてることだけで一生懸命なんだから、私みたいに毎日食べたいものを食べ、やりたいことをやれているだけで、幸せだなと思うの」
僕は、そんな風に楽しそうに語っている沢野絵美の横で、彼女の笑顔を見ていられるだけで、自分は幸せだなと感じていた。
しかし、いつも十分前には到着する彼女が、約束の時間になっても現れなかった。一時間経っても二時間経っても現れなかった。何かあったのだろうか? なんだか胸騒ぎがした。気が進まなかったが、僕は彼女にラインした。暫くの間、待った。でも返事が無い。仕方がないので、電話した。すると、すぐに通じた。しかし、その電話には、沢野絵美ではなく見知らぬ女性が出た。
「はい。沢野絵美さんの携帯です。お知り合いの方ですか?」
「は、はい。え、で、でも、どうして……」
「すみません。沢野さんとどういうご関係かお訊ねしていいですか?」
「なんでそんなことを訊くんですか?」
「今、彼女の身内のどなたとも連絡が取れないんです! 一刻も早く連絡しなきゃいけないんです!」
「どういうことですか! 彼女の身に何かあったんですか!」
「そうです!」
「ぼ、僕は彼女の婚約者です!」
「そうですか! ああ、良かった……、急いで明正大学付属病院に来てください! 沢野さん、交通事故に遭われたんです!」
心臓が爆発するかと思うくらい早鐘を打っている。どうかどうか重症でありませんように。そう願いながらタクシーを飛ばして病院に向かった。やっとのことで病院に到着し、日曜の閑散とする病院のロビーをバタバタと靴音を鳴らして駆け抜けた。ICUに辿り着いて中に飛び込んだ。その部屋にいる大勢の人たちは、僕が部屋に飛び込んだと同時に僕のほうへ一斉に振り返ったが、僕の顔を見ても笑顔になるどころか、悲痛な顔のままだった。僕はその顔を見て、自分は間に合わなかったのだと一瞬で悟った。彼女はすでに息を引き取った後だった。
「嘘だ! 絵美! 目を覚ませ! 覚ましてくれ!」
僕は彼女に駆け寄り、そう叫んだ。沢野絵美は固く目を閉じ、僕がいくら呼びかけても目覚めてはくれなかった。彼女の頬をさすっても身体を揺さぶっても、一向に起きなかった、まだ身体は温かいというのに……。信じられないような光景が目の前にあった。
昨日まで、彼女はあんなに元気だったのに!
今日のデートを楽しみにしていたのに!
僕は、彼女のベッドの横で、泣き崩れた。周りには大勢の人がいたのに、大声で泣かずにはいられなかった。僕は声の限りを尽くして泣いていた。暫くして、彼女の両親も病院に駆けつけた。本当は自分たちのほうが泣きたいだろうに、号泣している僕の肩を抱き、慰めてくれた。
そのうち、葬儀場の関係者が現れ、沢野絵美の遺体は葬儀場へ運ばれた。お通夜は明日の夜、執り行われることになった。このまま、彼女に付き添っていたかったが、どちらにしろ、礼服を取りに一旦家に戻らなければならない。僕がそのことを彼女の母親に告げると、「篠原さん、ちょっと待って下さい。お渡しするものがあるの」と引き留められた。暫くして戻ってきた彼女に手渡された物を確かめると、それは、佐藤みつる作、村口勉イラストの最近出版されたばかりの絵本だった。
「あの子ね、いつも楽しそうに篠原さんのことを私に話してくれてたんです。この本も、今日、篠原さんにプレゼントするんだって笑ってました。篠原さんの本当の夢は、童話作家になることなんでしょう? 夢を諦めて欲しくないといつも口癖のように言ってたんですよ」
「そうですね。僕にも絵美さんは、夢を諦めないでほしいと何度も励ましてくれていました」
僕は、沢野絵美の母親とそう会話し、絵本を受け取って病院を出た。絵本が入っていた紙袋には、くっきりとタイヤの跡が付いていた。その袋を見ていると、止めようとしても次から次へと涙が頬を伝った。僕は袖口で涙を拭うと、ジャケットのポケットに入っていた婚約指輪を取り出しぼんやり眺めた。
婚約者だなんて、どうしてあのとき言ったんだろう?
僕は彼女から返事を訊くこともできなかったというのに……。
今日、返事を訊くつもりだったのに……。
外はいつの間にか日が暮れ、夜になっていた。東の空を見ると、地平線のすぐ上に、燃えるような赤い巨大な満月が空に登ろうとしていた。満月を目を凝らして見ていると、時折思い出したように僕を悩ます、あの巨大な炎が脳裏に浮かんだ。僕の頭は、割れそうなほどに疼いた。
僕が人を愛したせいで、五度目の不幸はやって来たのだと悟った。僕は、もう二度と立ち直れないかもしれないと、その時、感じていた。