第一話 5
それから、自分がどうやって生きていたのか、記憶が定かではない。気が付けば、僕は公園に寝泊まりしていた。どのくらいの期間、その公園にいるのかも分からないようになっていた。
テレビもラジオも携帯もない毎日。今日が何月何日か分からなくても当然だった。いや、知ろうともしていなかった。ただ、暑くなったり寒くなったり、公園の大きな楡の木の葉が落ちたり桜の花が咲いたりするので、あれから一年経ったのだなと気付いた。沢野絵美は桜の季節に亡くなった。美しく咲き誇っている桜を見ていると、無意識に涙が零れた。
「兄さん、桜に辛い思い出でもあるのかい?」
僕の横に、浮浪者仲間の峰岸の爺さんがいつの間にか座っていた。僕はただ黙って頷いた。
「男二人で夜桜見物といくか。まぁ、これでも飲みなよ」
峰岸の爺さんは、カップ酒を僕に渡してくれた。
「いいんですか? 頂いても」
「いいってことよ。どうせ貰いものだから」
「じゃあ、遠慮なく」
「家守の爺さんを知ってるだろ?」
「家守健三さんですか? あの三丁目の下宿の大家の?」
「おお、そうだよ。アイツが差し入れしてくれたんだよ。花見でもしろってな。酒のツマミまで持って来やがって、気の利くヤツだよ、まったく」
「家守さんて良い人ですよね」
「余計なこともするけどな。俺らは好きで浮浪者をやってるってことが、アイツには全然分かってねぇ! ほっといて貰いたいからやってるっていうのにさ」
「確かに」
家守の爺さんはこの地区の民生委員をしているらしく、自分の所有している下宿に空き部屋が出来ると、格安の家賃でいいからと浮浪者に入居を促し、就職先も紹介するという世話好きの老人だった。けれども十人中十人があの下宿から逃げ出して、まともに更生した人間は一人もいないというあり様だった。峰岸の爺さんは電気製品の修理が出来るので、ゴミ集積場に捨てられている小型電気製品を拾ってきては修理をし、リサイクルショップに売りに行っては金を稼いでいた。だから、他の浮浪者仲間より身入りが良いせいか結構身ぎれいななりをしていて、一目見ただけでは浮浪者だと見分けがつかない。僕からすれば峰岸の爺さんは、浮浪者生活を謳歌しているようにしか見えなかった。だから家守の爺さんのやってることは、峰岸の爺さんにとってありがた迷惑な行為であるというのは、大いに頷けるのだった。
一方、僕はと言えば、峰岸の爺さんに比べて、それはそれは悲惨な恰好をしていた。沢野絵美と付き合っていた頃の面影は、全くと言っていいほど消え失せていた。当たり前である、一年間髪も切らず、髭も剃らず、風呂にも入っていないのだから。まるで生きる屍、ゾンビそのものだった。沢野絵美が亡くなったあの日から、僕は生きているにもかかわらず、死んだも同然だった。
彼女の葬儀を終えた後、どうやら僕は、そのままふらっと家を出たらしい。この公園に辿り着いた時、僕は礼服を着ていたと峰岸の爺さんが言っていた。今はジャージの上下を着ている。礼服はさすがに窮屈だったのか、貰った服にいつの間にか着替えていた。
「家守の爺さんが、またチラシを残していきやがったんだけどさ、兄さんに渡してくれとしつこく言ってたから渡しとくわ。まぁ、紙も貴重な資源だし、捨てるには忍びないからさ」
渡されたチラシには、物凄くでかい筆字で「格安! 家賃二万円ぽっきり! 『希望荘』があなたを救う!」とあった。
「普通の人からすれば、家賃が二万円というのは安いかもしれませんね」
「そうだろうな」
「僕に家賃二万円払えってことなんですかね?」
「ああ、そういえば、出世払いでいいとか言ってたけどな。当面の間は、払わなくてもいいんじゃねぇの」
「しかし、家守さんは、なんでそこまでして人に親切にするんですか?」
「あの爺さん、子供の頃、戦争孤児だったらしいんだよ。その後、縁あって、子供を空襲で失った家守家の夫婦の養子になって、今でもそのことを恩義に感じてるらしく、だから世間に恩返ししてるんだと言ってたことがあったけどなぁ」
「そうなんですね」
「まぁ、人がいいんだろうよ」
「そうですね」
「俺らにとってはありがた迷惑だけどさ。でもよ、実際、あの下宿出身で、有名人になった人間は結構いるらしいぜ」
「へぇー、そうなんですか。例えば?」
「えーと、俺はあんまり興味ないからよく知らないんだけどさ、俳優とか人気歌手とかいるらしいよ。あと、大会社の社長とか。しかも、今でもたまに家守の爺さんを訪ねてくるらしい」
「ふーん」
「だからさ、兄さんもさ、浮浪者やってるのに飽きたら、家守の爺さんのところへ行ってみればいいんじゃないの。逃げ出したのは、無理矢理連れて行ったからだろうからさ。自分から行く分には、こんな良い話はないと思うよ」
「そうですね……」
「うん」




