第四話 3
溢れそうになる涙を堪えながら、下を向いて歩いていたら、外から会社に帰ってきた男性にぶつかって、持っていたイラストの束やら鞄の中身やらをその場にぶちまけてしまった。
「なんだよ! 気を付けろよ!」
「す、すみません……」
その男はその辺に散らばっている彼女の持ち物を見て、一瞬のうちにすべてを悟ったのか、「あ~あ、部外者が物欲しそうにこんなところでウロウロするなよ」と言った。
まさに、弱り目に祟り目である。必死で泣くことを我慢していたのに、涙は勝手に彼女の頬を伝っていた。そして、ここに来る前に画材店で買ったテレピンオイルの瓶が破裂していて、辺りは悲惨なことになっていた。しかもオイルは、その男の履いているピカピカの高級革靴にべっとりと付着していた。そのことに気付いた男の怒りはさらに拍車がかかった。
「買ったばっかりの靴が台無しじゃないか! どうしてくれるんだよ!」
「……ご、ごめんなさい」
そう言いながら、戸田翔子はハンカチで男の靴に付着した油を拭き取っていた。被害を被った男は、暫く彼女のその様子を見守っていたのだが、突然気付いたようにしゃがみこむと、彼女の顔に目線を合わせ、顔をじっくり見て、「あーっ!」と声を上げた。
「いや、さっきからどこかで見たことがあるなと思ってたんだけど、思い出した! もしかして翔子ちゃんじゃないの?」
「え?」
「ほら、その君が付けてる腕時計! 昔からずっと付けてたでしょ? 僕、中村だよ! 戸田翔子ちゃんでしょ?」
彼女は小学生の時に亡くなった母親の形見の腕時計をいつも身に付けていた。
「確かに、私は戸田翔子ですけど……。でも、中村と言われても……」
「中学の同級生の中村誠! まさか僕のことを忘れたんじゃないだろうね?」
その男は懐から名刺を取り出し戸田翔子に渡した。名刺には「秀巧社 週刊シュート編集部 編集員 中村誠」とあった。
彼女はその名刺を見ながら、非常に複雑な気持ちになった。秀巧社は確かに立派な出版社だが、週刊シュートといえば、確かゴシップばっかり載せている最低な雑誌だったはずだ。それはさておき、戸田翔子は彼に中学の同級生の中村だと言われて、物凄く懐かしく、しかし同時に最低最悪の感情の記憶が、はるか彼方から大波となって押し寄せて来るのを感じていた。
もしかして、何回交際を断ってもストーカーのように纏わりついていたあの中村誠!?
うそぉ、マジで!?
私は、この世で一番再会したくないヤツに、一番見られたくない惨めな姿を見られたのかもしれない。
「いやぁ、懐かしいなぁ。やっぱり、あの翔子ちゃんだろ?」
「そ、そう、みたいですね……」
「翔子ちゃん、あのさ、今週の金曜日空いてない? 予定してた仕事が流れたから、珍しく定時で上がれそうなんだよ。良かったら、一緒に夕飯どう?」
「……」
「俺さ、文芸部や女性誌の編集部に同期がいっぱいいるしさ、俺の話を聞いて損は無いと思うよ。金曜日の五時半にもう一回、ここに来てくれないかな」
そう中村誠は戸田翔子の抱えているイラストの束を見ながら言った。中村誠は、さっき戸田翔子に放った暴言のことはすっかり忘れているらしい。
どうしよう? コイツと関わったらきっとまた碌なことが起きないに決まっている……。戸田翔子はそう悪い予感に捉われながらも、「はい、分かりました」と返事をしていた。




