第1話「転生したら寄生虫」
この作品を読んでいただき、ありがとうございます。
突然ですが、皆さんは「寄生虫」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。
気持ち悪い、怖い、絶対に関わりたくない。おそらく大半の方がそう感じるはずです。私もそうでした。少なくとも、この物語を書き始めるまでは。
調べれば調べるほど、寄生虫という生き物は実に興味深い存在です。宿主の脳に寄生して行動を操るもの、複数の生き物を渡り歩きながら成長するもの、何十年も宿主の体内で生き続けるもの。まるでSFかファンタジーの設定のような話が、現実の自然界でごく普通に起きている。
そこに気づいた時、ふと思ったのです。
もしこれが「転生」だったら?
主人公の上津一は三十八歳、大阪在住のセミリタイアトレーダーです。特別な才能も、選ばれし者の血筋も、勇者の証も何もない。ただのラノベ好きのおっさんが、よりにもよって寄生虫に転生してしまう。
それでも彼は逞しく生きていきます。持ち前の好奇心と、二十年以上のラノベで培った「転生もの」への造詣と、関西人特有の「まあなんとかなるやろ」精神で。
笑って読んでいただければ、それ以上のことは何も望みません。
では、上津一の珍道中にしばしお付き合いください。
できれば生魚は、よく火を通して食べてから。
著者より
和歌山の山は、夜になると本当に静かになる。
川の瀬音だけが闇の中に溶けて、風が木々を揺らすたびに葉擦れの音が降ってくる。
上津一はその静けさが好きだった。大阪の喧騒——パチンコ屋の電子音、酔客の笑い声、絶え間なく続く車のエンジン音——そういったものが全部、この山の空気に吸い込まれて消えていく。
三十五歳の時に別荘を買ったのは、正しい判断だったと思っている。株のトレードで食べていける程度の資産を築き、セミリタイアという名の自由を手に入れた上津一が選んだのは、静かな山と清流のある場所だった。
「よっしゃ、来たで」
竿がしなった瞬間、声が出た。リールがジリジリと鳴き、川面に波紋が広がる。三十分の格闘の末に水面へ引き上げたのは、三十センチを超えるヤマメだった。夕陽を受けた鱗が、虹色に光った。
この日の釣果は五匹。別荘に戻った上津一は鼻歌まじりで魚を捌きながら、脳内でメニューを組み立てた。塩焼きに、刺身。ヤマメの刺身なんて、料亭でしか食われへんやつや。自分で釣った魚を自分で食う。これがセミリタイアの醍醐味というもんやろ。
包丁を走らせながら、ちらりとアニサキスのことが頭をよぎった。淡水魚には寄生虫のリスクがある。ちゃんと知っていた。冷凍か加熱が基本だと、ちゃんと知っていた。
それでも「まあ大丈夫やろ」という、関西人の遺伝子に刻まれた楽観論が勝った。
翌朝、上津一は布団の上で転げ回っていた。
胃の中で何かが暴れている。ドリルで内側からえぐられるような痛みが波のように押し寄せ、引いては返してくる。脂汗がシーツを濡らし、呼吸するたびに腹の奥が悲鳴を上げた。
アニサキスや——その単語が、霞む意識の端を流れていった。
スマホに手を伸ばす力が、もうなかった。別荘は山奥にある。救急車を呼んでも、ここまで来るのにどれだけかかるか。痛みが意識を侵食していく。思考が細い糸のように頼りなくなっていく。
最後に浮かんだのは、積読の山だった。あの棚に並んだラノベの続きを、まだ読んでいなかった。
ああ、続き読みたかったなあ——。
暗くはなかった。
暗いというより、乳白色の光に満ちていた。柔らかく、温かく、しかし奇妙に狭い。全身が薄い膜に包まれている。手も足もない。目もない。それでも意識だけは確かにあった。
俺、どこにいるんや。
記憶を手繰った瞬間、全てが戻ってきた。釣り、ヤマメ、刺身、激痛、そして——
死んだんか、俺。
パニックになりかけて、しかし深呼吸しようとしたところで肺がないことに気づいた。心臓もない。呼吸という行為が、この体には存在しない。それでも意識は静かにそこにある。
転生……これ、転生ちゃうか。
二十年以上のラノベ人生が、この瞬間のために積み上げられていたのかもしれない。上津一は妙な冷静さで状況を受け入れ始めた。問題は、今自分がいる場所だ。この膜は——卵だ。卵の中にいる。そしてその外側から漂ってくるのは、腐敗した有機物の匂いだった。本能がそう告げている。腐りかけた獣の肉の中に、自分の卵がある。
殻が割れたのは、唐突だった。
外界に触れた瞬間、本能が体を動かした。目はほとんど機能しない。光の明暗がかろうじて分かる程度だ。しかし嗅覚と触覚が研ぎ澄まされていて、そして何より——腹が、減っていた。
気づいたら食っていた。腐肉を。
うわ、と思ったが、空腹が満たされていく感覚は紛れもなく心地よかった。IQ高い自負があるのに本能に完敗しとる、と脳の片隅が冷静に突っ込んだ。
食いながら、周囲に気づいた。同じようにうごめく小さな気配が、いくつもある。同じ腐肉の中で、同じように動いている。
兄弟や。なんか、賑やかやな。
何日経ったか分からない頃、雨が来た。
遠い音が近くなり、轟音になり、地ごと揺れた。濁流が腐肉ごと上津一をさらっていった。川が氾濫している——本能がそう叫んだ時にはもう濁り水の中で、どこへ行くともなく転がされていた。意識が薄れていく。
これ、また死ぬやつや。
そう諦めかけた瞬間——ガプリ。
小さな魚に、飲み込まれた。
消化される、と思った刹那、奇妙な衝動が全身を走った。上や。脳へ行け。
気づいたら移動していた。血流から神経へ、神経から脳へ。
寄生した。
視界が激変した。川の流れが見える。水草の揺れが見える。全身の筋肉を動かせる感覚がある。
俺がこの魚を……動かせる。
恐る恐る尾びれを動かした。体が水を切った。
泳いでる! 俺が泳いでる!
喜びはほんの数十秒で終わった。影が来たと思ったら、中型の魚に丸ごと飲み込まれていた。
もう迷わなかった。脳へ。
新しい宿主の視界が開く。さっきより体が大きい。力がある。水面が近い。
試したくなった。助走をつけて——跳んだ。
水面を突き破り、空中に出た瞬間、世界が変わった。眩しい。広い。風がある。
最高やないか!
調子に乗って、もう一度跳んだ。高く、もっと高く。
影が差した時には、もう遅かった。
鋭い爪と嘴が、宿主ごと上津一を掴んだ。
鳥や……!
空高く連れ去られながら、上津一は思った。
転生して何になったんや、俺。魚に食われて、また食われて、今度は鳥に食われて。
これ——寄生虫やないか。
白い雲が遠ざかる空の下で、上津一の珍道中は、まだ始まったばかりだった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
第一話、いかがでしたでしょうか。
主人公の上津一が死ぬまでに、実は少しだけ仕掛けを入れています。彼がアニサキス症で命を落とす場面。あれ、「寄生虫にやられた人間が、寄生虫に転生する」という皮肉を込めています。自然界の食物連鎖と寄生の連鎖を、そのまま上津一の運命に重ねてみました。笑ってもらえていたら嬉しいです。
それから、一話を書くにあたって少し寄生虫の生態を調べたのですが、これが予想の三倍くらい面白かった。特に「宿主の脳に寄生して行動を操る」という特性は、寄生虫の世界では決して珍しくない話で、自然界というのは人間の想像をはるかに超えた戦略に満ちているんだなと、しみじみ感心しました。
上津一が最終的にどんな生き物に辿り着くのか、どんな能力を積み重ねていくのか、そして「寄生虫のまま人間社会に関わることになる」という無謀な展開も、ゆっくり温めています。どうかお楽しみに。
余談ですが、作者は大阪在住ですが、株トレーダーでもなく、セミリタイアとは程遠い生活を送っております。上津一の「まあなんとかなるやろ」精神が、少しだけ羨ましい。
釣りをされる方はどうか、淡水魚の刺身にはご注意を。上津一の屍を越えていってください。
次回、第二話「鳥の目線は絶景やった」でまたお会いしましょう。
上津一の冒険は、まだまだ続きます。
著者より




