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後編

 瞬きする間に反抗的だった小さな黒猫は大人しくなり、瞬きする間に小さな黒猫は貴女に教えを乞うようになった。


 瞬きする間に小さな黒猫は家事を貴女より上手くこなす様になり、瞬きする間に小さな黒猫は青年になり、瞬きする間に――あぁ、こんなに瞬きばかりしていたら、涙が零れてしまいそう。


 貴女は机に右頬を付けて、瞬きする間に貴女よりも長身になってしまった黒猫を見上げる。


「……ねぇ、可愛い子。小さな黒猫」


「なんですか、まったく、もう。未だに俺を小さな黒猫黒猫と。もう小さくないし、可愛くもないですよ」


「あら、わたしから見たら、可愛いわ。いつも、いつまでも、可愛い子だわ。小さな黒猫」


 小さな黒猫は、突っ伏した貴女を抱き上げると、ソファーに移動させた。小さな黒猫は、手早く机の上の朝食の名残を片付けていく。ソファーにしどけなく寝そべって、貴女はその様子をぼんやりと眺める。


 視線に気付いたのか、小さな黒猫が振り返った。短く整えられた黒髪。貴女が一目で気に入った金目銀目オッドアイ。貴女の自慢の、小さな黒猫。


「師匠、じきに魔女集会が開かれるでしょう。準備は出来ていますか。新しい論文を書いていらっしゃったのは知っていますけど、発表準備は大丈夫ですか」


「そう、ねぇ。準備、しないとねぇ」


 貴女は長い銀髪をくるくると指に巻き付ける。それから、ほどく。300年と10年のうちに、すっかり癖になってしまった一人遊び。


 小さな黒猫は、心配そうに貴女を見やる。


「毎年、毎年、直前になって慌てるのですから」


「だって、毎年、毎年、間に合うと思うのだもの」


「確かに間に合ってはいらっしゃるみたいですけど、もうお年なんですから、徹夜は良くないですよ」


「あら、あら、失礼ね。レディに向かって『お年』、だなんて」


 瞬きする間に、10年の月日が流れてしまった。


 涙が、零れてしまいそう。


 貴女は慌てて目元を拭って起き上がる。小さな黒猫はすぐに貴女の隣に座って、ブラシで長い銀髪をくしけずっていく。その手付きは、どこまでも丁寧だ。


「ねぇ、可愛い子。小さな黒猫」


「はい」


「わたしは、魔女なのよ」


「知っています」


「……わたしは、あと700年は生きるわ」


 ブラシを扱う手が、止まった。貴女は緩く目を閉じる。目を閉じても明るい光がぼんやりと射し込んでくる。貴女は目を閉じたまま歌うように言った。


「可愛い子。小さな黒猫――きっともう、君は何処へだって行けるわ。こんなに立派になったのだもの。森を出なさい。そうして、人の世へ帰りなさい」




 ――小さな黒猫をたった1人で葬ることなど、わたしには出来ない。




 言外にそう匂わせて、貴女はそっとソファーから立ち上がる。瞼を開けば、窓の外は快晴。すこんと抜けたような青空が広がっていた。旅立つには良い日だろう。森の獣たちは、貴女に従っている。小さな黒猫は無事に森を抜ける事だろう。


 そうして、大人になった黒猫は片目を隠して、上手く人の世で生きていくことだろう。きっと、いつか黒猫を愛する人も現れることだろう。子を成し、育てる。それは魔女である貴女には叶わないことだ。それを大人になった黒猫は成し遂げるだろう。そうして、子や孫に囲まれて、幸せに息を引き取ればいい。


 夢見るような心地で貴女が窓辺に立っていると、窓に黒猫の姿が映った。わずかに俯いている。黒猫は驚いたことだろう。傷付けたかも、しれない。それでも、貴女には出来ない。小さな黒猫をたった1人で葬ることなど。


 黒猫は低い声で、貴女の背後で呟いた。青年の低い声だというのに、いつかと同じ、頑なで、可愛くて、可哀想な、子供みたいな声だった。


「魔女を、殺さなくては、僕は何処へも行けない」


 貴女は微笑む。黒猫は後ろから貴女の首に手を掛けた。貴女はそっと、黒猫の手の上に自身の手を重ねる。何て熱くて大きな手だろう、と貴女は少し驚いた。あぁ、それでも。


「それは無理だわ。魔女は死なないもの。心臓を清められた銀の短剣で貫いても。祝福された銀の弾丸で頭を撃ち抜いても。魔女は死なないもの。死なないから、魔女なのだもの」


 例え息が止まっても。魔女は死なない。死なないから、300年と10年生きた魔女なのだ。


「――1つだけ、魔女を殺す、方法が」


「わたしを?」


 貴女は紫水晶の瞳を瞬かせる。窓に映った黒猫の表情は窺えない。首に掛けられた腕が、少しずつ、降りていく。貴女の鼓動が跳ね上がる。


 魔女を、殺す方法。それは。


 黒猫は、貴女の耳元で囁いた。


「――魔女は、純潔を精霊に捧げることで、魔女たりえる」


「可愛い子、小さな黒猫。いけないわ」


 無様に震える声で、貴女は言う。


 いけない。それは。


 何故ならそれは、事実だから。


「いけないわ。わたしが魔女でなくなったら、この屋敷を魔法で隠すことが出来なくなってしまう。獣たちも、もうわたしに従ってはくれないでしょう。教会から魔女狩りたちが、やってきてしまう――いけないわ。いけないわ。可愛い子、小さな黒猫……!」


「後悔すればいい。銀の魔女。あの日、僕を拾ったことを」


 何処へ隠し持っていたのか、あの日の銀の短剣で長い銀髪を切り落とされる。魔女の髪は飾りではないのだ。魔力の込められたそれを失って、貴女は眩暈を覚える。


「いけないわ……」


「魔女を、殺さなくては、僕は何処へも行けない」


 近くに、遠くに、黒猫の声が聞こえたような、気がした。

 




 

 これは、君が銀の魔女を殺し英雄として人の世に帰る迄の物語。

 これは、君が未来永劫満たされることは無くなった日の、物語。


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