07 怖い
翌日。
「田中」
「はい」
「お前、今日いつにも増してぼーっとしてんな」
夕方のコンビニ。
一郎はレジの横で品出しをしていた。
「そうですか?」
「うん」
「いつもと同じだと思います」
「じゃあ、いつも以上にいつも通りだな」
「意味が分かりません」
「俺も言ってて分かんなかった」
順平が笑う。
一郎はその顔を見た。
肘には、まだ包帯が巻かれている。
「何?」
「いえ」
「また怪我見てんの?」
「見てません」
「見てたじゃん」
「見てません」
「なんで意地張んだよ」
一郎は商品を棚へ並べる。
順平は少しだけ笑った。
「もう何ともねえよ」
「そうですか」
「だからそんな顔すんなって」
「どんな顔ですか?」
「なんか怖い」
「普通です」
「それが怖えんだよ」
「失礼ですね」
順平が笑った。
一郎はまた品出しを続けた。
*
バイトが終わった。
「飯食ってく?」
「はい」
順平が止まった。
「即答?」
「駄目ですか?」
「いや。珍しいなと思って」
「では、考えます」
「戻んなくていい!」
二人は店を出た。
少し歩いたところにある定食屋へ入る。
「何食う?」
「鮭定食」
「好きだな、鮭」
「好きみたいです」
「認めた!」
「この前、佐々木さんがそう言ったので」
「俺が決めたの?」
「違うんですか?」
「自分で決めろよ!」
一郎はメニューを見る。
「じゃあ、好きです」
「軽いなあ」
「駄目ですか?」
「いいけど」
順平が笑った。
一郎も少しだけ笑った。
*
食事を終えて、二人は駅へ向かっていた。
「そういや次のライブ」
「十二日ですよね」
「覚えてんじゃん」
「予定に入れたので」
「来る?」
「行きます」
また即答だった。
順平が一郎を見る。
「何ですか?」
「いや」
「何ですか」
「お前、本当に変わったな」
一郎は少し考えた。
「そうですか?」
「前だったら『考えておきます』だったろ」
「そうでしたっけ」
「そうだよ」
一郎は歩きながら考える。
「行きたいので」
順平が止まった。
一郎も数歩先で止まる。
「どうしました?」
「いや、お前から『行きたい』とか聞くと気持ち悪いなって」
「帰りますよ」
「嘘嘘!」
順平が笑いながら追いついてくる。
「いいじゃん。行きたいなら来いよ」
「はい」
「今度は前より上手くなってるから」
「前も下手だとは思いませんでしたけど」
「マジ?」
「上手いとも思いませんでした」
「お前!」
一郎が少し笑った。
*
交差点。
信号が赤になった。
二人は立ち止まる。
車が目の前を通り過ぎていく。
一郎は何気なくそれを見ていた。
一台。
また一台。
バイクが走り抜けた。
一郎の視線が、そのバイクを追った。
「田中?」
「はい」
「どうした?」
「いえ」
信号が青になる。
順平が歩き出そうとした。
一郎は動かなかった。
「田中?」
「佐々木さん」
「ん?」
「この前」
「うん」
「バイクにはねられましたよね」
「忘れるほど前じゃねえよ」
「そうですね」
「何?」
一郎は少し黙った。
「……死ななくて、よかったです」
順平が一郎を見る。
「急に重てえな」
「そうですか?」
「そうだよ」
「すみません」
「謝んなよ」
信号が点滅を始める。
「渡ろうぜ」
「はい」
二人は横断歩道を渡った。
*
駅の近くまで来た。
「じゃ、俺こっちだから」
「はい」
「明日もバイトだろ?」
「はい」
「じゃあまた明日」
「はい」
順平が歩き出す。
一郎はその背中を見た。
この前。
路上に倒れていた。
血が出ていた。
呼んでも、すぐには返事がなかった。
一郎はその光景を思い出した。
胸の奥が痛んだ。
「佐々木さん」
「ん?」
順平が振り返る。
一郎は何も言わなかった。
「何?」
「……いえ」
「なんだよ」
「また明日」
「おう」
順平は手を上げて、駅へ向かった。
一郎も反対方向へ歩き出した。
*
しばらく歩いた。
一郎は足を止めた。
「……」
目元を擦る。
何か入ったのかと思った。
手を見る。
濡れていた。
「……?」
もう一度、目元を拭う。
また濡れた。
「なんだ」
涙だった。
一郎はしばらく立っていた。
別に悲しいことはない。
順平は元気だった。
さっきまで一緒に飯を食べていた。
明日も会う。
来月にはライブもある。
何も問題はない。
なのに。
涙が止まらない。
「……なんで」
胸が痛んだ。
一郎は胸元を押さえた。
まただ。
あの痛み。
順平が倒れた時と同じ。
そして。
雨の日を思い出した時と同じ。
一郎は立ち尽くした。
父親。
母親。
白い天井。
『お父さんは?』
返事がない。
『お母さんは?』
返事がない。
『大丈夫です』
何度も言った。
『大丈夫だから』
そう言えば、それで終わった。
一郎は目元を腕で拭った。
止まらない。
「……困ったな」
呟いた。
どうすればいいのか分からない。
転んだ時なら、立てばいい。
血が出たら、止めればいい。
骨が折れたら、病院へ行けばいい。
これは。
どうすればいい。
一郎はスマートフォンを取り出した。
少し考える。
順平へ電話をかけた。
『もしもし?』
「佐々木さん」
『どうした? 忘れ物?』
「いえ」
『じゃあ何?』
「ちょっと聞きたいんですけど」
『おう』
一郎は目元を拭った。
「涙って、どうやったら止まります?」
電話の向こうが静かになった。
『……お前、泣いてんの?』
「そうみたいです」
『何かあった?』
「何もないです」
『何もねえのに泣かねえだろ』
「僕もそう思います」
『どっか痛えの?』
一郎は胸に手を当てた。
「……痛いです」
『どこ?』
「分かりません」
『病院行くか?』
「そういうのじゃないです」
『じゃあ知らねえよ』
「役に立ちませんね」
『心配して損したわ!』
一郎は少し笑った。
涙はまだ出ていた。
『で、マジでどうした?』
「……分かりません」
『そっか』
「はい」
『じゃあ、分かんなくていいんじゃね?』
「いいんですか?」
『知らねえけど』
「適当ですね」
『俺に何を期待してんだよ』
「別に」
『ならいいだろ』
一郎は黙った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「佐々木さん」
『ん?』
「僕、昔から痛いのは平気だったんです」
『知ってる』
「骨折しても、そんなに困らなかったし」
『それは困れよ』
「でも」
一郎は胸元を押さえた。
「これは、結構痛いです」
順平は何も言わなかった。
一郎は目を閉じた。
母親の顔が浮かんだ。
『一郎の大丈夫は信用できないの』
困ったように笑っていた。
「……母さんが」
『ん?』
「昔、僕の大丈夫は信用できないって言ってました」
『へえ』
「正しかったみたいです」
『そっか』
「はい」
また涙が落ちた。
一郎は鼻をすすった。
「……痛かったんだな」
『何が?』
一郎は少し考えた。
「たぶん、僕です」
言葉にした瞬間。
胸の奥にずっとあったものが、少しだけ緩んだ。
『田中』
「はい」
『泣いとけば?』
「嫌ですよ」
『なんで』
「恥ずかしいので」
『誰も見てねえだろ』
一郎は周囲を見る。
普通に人が歩いている。
「いますけど」
『じゃあ端っこ行け』
「雑ですね」
『知らねえよ。泣いてんのお前だろ』
「そうですね」
一郎は少し笑った。
泣きながら笑うというのも、変な感じだった。
「佐々木さん」
『何?』
「僕、平気じゃなかったみたいです」
『今さら?』
「はい」
『気づくの遅えな』
「十年以上かかりました」
『遅すぎだろ』
「そうですね」
二人とも少し笑った。
涙はまだ止まっていない。
でも。
もう、止めなくてもいい気がした。
*
電話を切った。
一郎は目元を拭った。
「……帰ろ」
歩き出す。
胸はまだ少し痛かった。
でも。
さっきまでより、歩きやすかった。
明日はまたバイトがある。
順平も来る。
来月にはライブもある。
鮭のおにぎりも、たぶんまた食べる。
そんなことを考えながら歩いた。
しばらくして。
一郎は、ふと気づいた。
明日が来ることを。
少しだけ楽しみにしていた。




