06 あの日
一郎は、自分の胸に手を当てていた。
昨日から何度も同じことをしている。
大学の講義中。
電車の中。
コンビニへ向かう途中。
どこにも怪我はない。
押しても痛くない。
息を吸っても痛くない。
それなのに。
順平がバイクにはねられた瞬間を思い出すと、胸の奥が変になる。
倒れていた順平。
腕から流れていた血。
動かなかった一瞬。
思い出すたびに、同じ感覚が戻ってくる。
「……なんだ、これ」
口に出してみても。
やっぱり、よく分からなかった。
*
「田中」
「はい」
「お前、今日ぼーっとしてんな」
夕方のコンビニ。
一郎は順平を見る。
「いつもだろって言おうとした?」
「少し」
「顔に出てたぞ」
「そうですか」
「嘘だけど」
「……佐々木さん」
「悪い悪い」
順平は笑っている。
昨日バイクと接触した人間とは思えない。
肘には、まだ包帯が巻かれている。
「本当にバイト出てきたんですね」
「店長がいいって言ったからな」
「休めばよかったのに」
「大した怪我じゃねえって」
「そうですか」
「そうです」
一郎は順平の肘を見る。
「何?」
「いえ」
「また見てるじゃん」
「見てません」
「見てたよ」
「そうですか」
「何なんだよ、お前」
順平が笑う。
一郎は商品へ視線を戻した。
しばらくして。
また順平の肘を見た。
*
休憩時間。
二人はバックヤードにいた。
順平はカップ麺。
一郎はおにぎり。
「またそれ?」
「好きなので」
順平の箸が止まった。
「……今なんつった?」
「何がですか?」
「好きって言った?」
一郎も止まる。
自分が何を言ったのか、少し遅れて気づいた。
「……言いましたね」
「鮭?」
「はい」
「好きなの?」
一郎は手の中のおにぎりを見る。
「たぶん」
「たぶんかよ!」
「でも、よく選んでます」
「じゃあ好きなんじゃね?」
「そうなんですか?」
「俺に聞くなよ!」
順平が笑った。
一郎も少しだけ口元を緩めた。
「一個見つかったじゃん」
「何がですか?」
「好きなもの」
「……そうですね」
一郎は鮭のおにぎりを見る。
よく選ぶ。
食べると美味しいと思う。
なら、たぶん好きなのだろう。
一郎はもう一口食べた。
「そういやさ」
順平が麺をすすりながら言った。
「昨日のこと、まだ気にしてんの?」
一郎の手が止まった。
「分かりません」
「またそれ?」
「思い出すんです」
「俺が倒れたとこ?」
「はい」
「もう元気だぞ」
「見れば分かります」
「じゃあそんな見るなよ」
「見てません」
「さっきから見てるって!」
一郎は順平の肘を見る。
「ほら!」
「……すみません」
「謝んなって」
順平が笑った。
一郎はおにぎりへ視線を戻した。
「佐々木さん」
「ん?」
「昨日」
「うん」
「手が震えたんです」
順平が麺をすすりながら一郎を見る。
「電話、上手く押せなくて」
「ああ」
「今まで、ああなったことないです」
「そりゃ事故なんて毎日見ねえだろ」
「そうですね」
「俺も毎日はねられたくねえし」
「それはやめてください」
順平の箸が止まった。
一郎も止まった。
「……何ですか?」
「いや」
順平が少し笑う。
「何でもない」
「気持ち悪いですね」
「お前な!」
一郎はまた、おにぎりを食べ始めた。
順平もカップ麺へ戻る。
しばらくして。
「佐々木さん」
「今度は何?」
「本当に、もう大丈夫なんですか?」
「大丈夫」
「そうですか」
「検査もしただろ」
「はい」
「だから問題なし」
「……はい」
一郎は頷いた。
それ以上は聞かなかった。
*
その夜。
一郎は自分の部屋にいた。
電気を消して、ベッドに横になっている。
目を閉じる。
順平が倒れた。
鈍い音。
路面に転がる身体。
血。
動かない。
一郎は目を開けた。
「……」
天井を見る。
もう一度、目を閉じた。
倒れている順平。
その向こうで。
雨が降った。
*
雨が降っていた。
車の窓を、雨粒が流れている。
父親が運転していた。
母親は助手席。
一郎は後部座席。
そこまでは覚えている。
その先は。
大きな音。
身体が浮く。
ガラスが割れる。
母親の声。
暗闇。
*
次に目を覚ました時。
一郎は白い天井を見ていた。
知らない匂いがした。
身体が重い。
腕には管が繋がっている。
「……ここ」
声が上手く出なかった。
誰かが気づいた。
「一郎君?」
知らない大人が近づいてくる。
「分かる? 病院だよ」
一郎はその人を見る。
「どこか痛い?」
聞かれて、一郎は身体を確かめた。
頭。
腕。
脚。
あちこちが少し痛い。
「……少し」
「どこ?」
一郎は考えた。
よく分からなかった。
「お父さんは?」
大人は何も言わなかった。
「お母さんは?」
やはり答えなかった。
「どこ?」
一郎はもう一度聞いた。
「一郎君」
「何?」
「今は、ゆっくり休もうね」
「お母さんは?」
返事はなかった。
その人がどんな顔をしていたのか、一郎は覚えていない。
ただ。
答えてくれなかったことだけは、覚えている。
*
両親は、帰ってこなかった。
一郎だけが生き残った。
事故の規模を考えれば、奇跡に近いと何度も言われた。
身体中に打撲と擦り傷。
それだけだった。
骨も折れていなかった。
命に関わる怪我もなかった。
医者も驚いていた。
「本当に丈夫な子ですね」
誰かが言った。
「よく助かったわね」
別の誰かが言った。
一郎は、そのたびに頷いた。
*
退院したあと。
一郎は親戚の家で暮らすことになった。
何度も遊びに来たことのある家だった。
知らない人たちではない。
優しくしてくれた。
自分の部屋も用意してくれた。
食事も作ってくれた。
学校にも通わせてくれた。
「一郎君、ご飯できたよ」
「はい」
「学校どうだった?」
「普通です」
「何か困ってることない?」
「ないです」
「本当に?」
「はい」
「無理しなくていいんだからね」
「大丈夫です」
一郎はいつもそう答えた。
困ってはいなかった。
ご飯は食べられる。
眠る場所もある。
学校にも行ける。
身体も痛くない。
だから。
大丈夫だった。
*
学校へ戻った。
「鉄人!」
以前と同じ声がした。
「お前、もう大丈夫なの?」
「うん」
「事故すごかったんだろ?」
「たぶん」
「なのにそれだけ?」
「うん」
「やっぱ鉄人じゃん!」
友達が笑った。
一郎は笑わなかった。
「なあ」
「何?」
「お前の父ちゃんと母ちゃんって――」
「おい、やめろよ」
別の子が止めた。
気まずそうな顔。
一郎は二人を見る。
「別にいいよ」
「でも……」
「大丈夫だから」
一郎はそう言った。
それから何度、その言葉を使ったのか覚えていない。
*
廊下を歩いていた時。
大人たちの話し声が聞こえた。
「本当に丈夫な子ね」
「よく助かったわよね、あの事故で」
「でも……ご両親はねえ」
一郎はその前を通り過ぎた。
振り返らなかった。
声は後ろへ遠ざかっていった。
身体は痛くなかった。
だから。
平気だった。
*
中学生になった。
高校生になった。
いつの間にか、「鉄人」と呼ぶ人はいなくなった。
一郎も、自分から誰かと関わることが少なくなった。
友達を作ろうとも思わなかった。
好きなものを探そうとも思わなかった。
期待することも。
楽しみにすることも。
いつからか、しなくなった。
困ることはなかった。
一人でも生活できる。
身体は丈夫だった。
痛みにも強かった。
だから。
「僕なら平気です」
それで全部、済んでいた。
*
一郎は目を開けた。
自分の部屋。
暗い天井。
雨は降っていない。
一郎は胸に手を当てた。
また、あの変な感じがした。
順平が倒れた時。
そして。
あの日のことを思い出した時。
同じだった。
「……」
父親。
母親。
二人は帰ってこなかった。
順平は生きている。
明日になれば、また会う。
一郎は胸を押してみた。
痛くない。
手を離す。
それでも。
そこには何かが残っていた。
「……なんなんだろうな」
答えは出なかった。
一郎は暗い天井を見つめた。
身体の痛みなら、昔から知っている。
でも。
これは。
まだ、一郎には分からなかった。




