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僕なら平気です  作者: 赤足


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6/8

06 あの日

 一郎は、自分の胸に手を当てていた。


 昨日から何度も同じことをしている。


 大学の講義中。


 電車の中。


 コンビニへ向かう途中。


 どこにも怪我はない。


 押しても痛くない。


 息を吸っても痛くない。


 それなのに。


 順平がバイクにはねられた瞬間を思い出すと、胸の奥が変になる。


 倒れていた順平。


 腕から流れていた血。


 動かなかった一瞬。


 思い出すたびに、同じ感覚が戻ってくる。


「……なんだ、これ」


 口に出してみても。


 やっぱり、よく分からなかった。


     *


「田中」


「はい」


「お前、今日ぼーっとしてんな」


 夕方のコンビニ。


 一郎は順平を見る。


「いつもだろって言おうとした?」


「少し」


「顔に出てたぞ」


「そうですか」


「嘘だけど」


「……佐々木さん」


「悪い悪い」


 順平は笑っている。


 昨日バイクと接触した人間とは思えない。


 肘には、まだ包帯が巻かれている。


「本当にバイト出てきたんですね」


「店長がいいって言ったからな」


「休めばよかったのに」


「大した怪我じゃねえって」


「そうですか」


「そうです」


 一郎は順平の肘を見る。


「何?」


「いえ」


「また見てるじゃん」


「見てません」


「見てたよ」


「そうですか」


「何なんだよ、お前」


 順平が笑う。


 一郎は商品へ視線を戻した。


 しばらくして。


 また順平の肘を見た。


     *


 休憩時間。


 二人はバックヤードにいた。


 順平はカップ麺。


 一郎はおにぎり。


「またそれ?」


「好きなので」


 順平の箸が止まった。


「……今なんつった?」


「何がですか?」


「好きって言った?」


 一郎も止まる。


 自分が何を言ったのか、少し遅れて気づいた。


「……言いましたね」


「鮭?」


「はい」


「好きなの?」


 一郎は手の中のおにぎりを見る。


「たぶん」


「たぶんかよ!」


「でも、よく選んでます」


「じゃあ好きなんじゃね?」


「そうなんですか?」


「俺に聞くなよ!」


 順平が笑った。


 一郎も少しだけ口元を緩めた。


「一個見つかったじゃん」


「何がですか?」


「好きなもの」


「……そうですね」


 一郎は鮭のおにぎりを見る。


 よく選ぶ。


 食べると美味しいと思う。


 なら、たぶん好きなのだろう。


 一郎はもう一口食べた。


「そういやさ」


 順平が麺をすすりながら言った。


「昨日のこと、まだ気にしてんの?」


 一郎の手が止まった。


「分かりません」


「またそれ?」


「思い出すんです」


「俺が倒れたとこ?」


「はい」


「もう元気だぞ」


「見れば分かります」


「じゃあそんな見るなよ」


「見てません」


「さっきから見てるって!」


 一郎は順平の肘を見る。


「ほら!」


「……すみません」


「謝んなって」


 順平が笑った。


 一郎はおにぎりへ視線を戻した。


「佐々木さん」


「ん?」


「昨日」


「うん」


「手が震えたんです」


 順平が麺をすすりながら一郎を見る。


「電話、上手く押せなくて」


「ああ」


「今まで、ああなったことないです」


「そりゃ事故なんて毎日見ねえだろ」


「そうですね」


「俺も毎日はねられたくねえし」


「それはやめてください」


 順平の箸が止まった。


 一郎も止まった。


「……何ですか?」


「いや」


 順平が少し笑う。


「何でもない」


「気持ち悪いですね」


「お前な!」


 一郎はまた、おにぎりを食べ始めた。


 順平もカップ麺へ戻る。


 しばらくして。


「佐々木さん」


「今度は何?」


「本当に、もう大丈夫なんですか?」


「大丈夫」


「そうですか」


「検査もしただろ」


「はい」


「だから問題なし」


「……はい」


 一郎は頷いた。


 それ以上は聞かなかった。


     *


 その夜。


 一郎は自分の部屋にいた。


 電気を消して、ベッドに横になっている。


 目を閉じる。


 順平が倒れた。


 鈍い音。


 路面に転がる身体。


 血。


 動かない。


 一郎は目を開けた。


「……」


 天井を見る。


 もう一度、目を閉じた。


 倒れている順平。


 その向こうで。


 雨が降った。


     *


 雨が降っていた。


 車の窓を、雨粒が流れている。


 父親が運転していた。


 母親は助手席。


 一郎は後部座席。


 そこまでは覚えている。


 その先は。


 大きな音。


 身体が浮く。


 ガラスが割れる。


 母親の声。


 暗闇。


     *


 次に目を覚ました時。


 一郎は白い天井を見ていた。


 知らない匂いがした。


 身体が重い。


 腕には管が繋がっている。


「……ここ」


 声が上手く出なかった。


 誰かが気づいた。


「一郎君?」


 知らない大人が近づいてくる。


「分かる? 病院だよ」


 一郎はその人を見る。


「どこか痛い?」


 聞かれて、一郎は身体を確かめた。


 頭。


 腕。


 脚。


 あちこちが少し痛い。


「……少し」


「どこ?」


 一郎は考えた。


 よく分からなかった。


「お父さんは?」


 大人は何も言わなかった。


「お母さんは?」


 やはり答えなかった。


「どこ?」


 一郎はもう一度聞いた。


「一郎君」


「何?」


「今は、ゆっくり休もうね」


「お母さんは?」


 返事はなかった。


 その人がどんな顔をしていたのか、一郎は覚えていない。


 ただ。


 答えてくれなかったことだけは、覚えている。


     *


 両親は、帰ってこなかった。


 一郎だけが生き残った。


 事故の規模を考えれば、奇跡に近いと何度も言われた。


 身体中に打撲と擦り傷。


 それだけだった。


 骨も折れていなかった。


 命に関わる怪我もなかった。


 医者も驚いていた。


「本当に丈夫な子ですね」


 誰かが言った。


「よく助かったわね」


 別の誰かが言った。


 一郎は、そのたびに頷いた。


     *


 退院したあと。


 一郎は親戚の家で暮らすことになった。


 何度も遊びに来たことのある家だった。


 知らない人たちではない。


 優しくしてくれた。


 自分の部屋も用意してくれた。


 食事も作ってくれた。


 学校にも通わせてくれた。


「一郎君、ご飯できたよ」


「はい」


「学校どうだった?」


「普通です」


「何か困ってることない?」


「ないです」


「本当に?」


「はい」


「無理しなくていいんだからね」


「大丈夫です」


 一郎はいつもそう答えた。


 困ってはいなかった。


 ご飯は食べられる。


 眠る場所もある。


 学校にも行ける。


 身体も痛くない。


 だから。


 大丈夫だった。


     *


 学校へ戻った。


「鉄人!」


 以前と同じ声がした。


「お前、もう大丈夫なの?」


「うん」


「事故すごかったんだろ?」


「たぶん」


「なのにそれだけ?」


「うん」


「やっぱ鉄人じゃん!」


 友達が笑った。


 一郎は笑わなかった。


「なあ」


「何?」


「お前の父ちゃんと母ちゃんって――」


「おい、やめろよ」


 別の子が止めた。


 気まずそうな顔。


 一郎は二人を見る。


「別にいいよ」


「でも……」


「大丈夫だから」


 一郎はそう言った。


 それから何度、その言葉を使ったのか覚えていない。


     *


 廊下を歩いていた時。


 大人たちの話し声が聞こえた。


「本当に丈夫な子ね」


「よく助かったわよね、あの事故で」


「でも……ご両親はねえ」


 一郎はその前を通り過ぎた。


 振り返らなかった。


 声は後ろへ遠ざかっていった。


 身体は痛くなかった。


 だから。


 平気だった。


     *


 中学生になった。


 高校生になった。


 いつの間にか、「鉄人」と呼ぶ人はいなくなった。


 一郎も、自分から誰かと関わることが少なくなった。


 友達を作ろうとも思わなかった。


 好きなものを探そうとも思わなかった。


 期待することも。


 楽しみにすることも。


 いつからか、しなくなった。


 困ることはなかった。


 一人でも生活できる。


 身体は丈夫だった。


 痛みにも強かった。


 だから。


「僕なら平気です」


 それで全部、済んでいた。


     *


 一郎は目を開けた。


 自分の部屋。


 暗い天井。


 雨は降っていない。


 一郎は胸に手を当てた。


 また、あの変な感じがした。


 順平が倒れた時。


 そして。


 あの日のことを思い出した時。


 同じだった。


「……」


 父親。


 母親。


 二人は帰ってこなかった。


 順平は生きている。


 明日になれば、また会う。


 一郎は胸を押してみた。


 痛くない。


 手を離す。


 それでも。


 そこには何かが残っていた。


「……なんなんだろうな」


 答えは出なかった。


 一郎は暗い天井を見つめた。


 身体の痛みなら、昔から知っている。


 でも。


 これは。


 まだ、一郎には分からなかった。

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